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カント実践哲学、要請論を含む全体の妥当性(道徳法則って本当に実在するの?)

カントの実践哲学の全体に関して、好みではあるのですが、今ひとつその論の中に納得の行かないところがあり、今のところカントの実践哲学全体への賛否を保留しています。 理性の事実としての道徳法則の実在から要請論へと展開していく中には問題がないように思えるのですが、肝心の道徳法則の実在を示すことはできていないように感じます。 『実践理性批判』第一編第一章第一節 定義の注の出だしに「我々が、純粋理性は実践的に…換言すれば、意志を規定するに、…十分な根拠を自らのうちに含みうることを認めるならば、実践的法則が存在する。しかしそうでない場合には、実践的諸原則は単なる格律でしかないだろう」とあり、純粋理性が実践的に十分な根拠を自らの内に含むことを示し、更にこの命題自体が正しいことを示すことができれば道徳法則が実在する、ということになるのでしょうが肝心のその点に関する言及が実践理性批判にはないようです。 この一点が否定されれば実践哲学としての体系全体が損なわれてしまう問題でもありますし、気を付けて読んでみたのですが、もしかしたら見落としてしまったかもしれません。まだ他の著作にはあたっていないので、もし、どこかでこの点に関する言及があることをご存じでしたらお教え下さい。

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回答No.6

もんだいになさっているところがやっとわかりました(と思うんだけど、まだずれているかもしれない)。 おそらくそれは、昔から議論され続けている「理性の事実」問題ということになるかと思うのですが。 『実践理性批判』一の「純粋実践理性の原則の演繹について」の81-82に 「道徳律はいわば、われわれがア・プリオリに意識しているところの、必然的に確実であるところの純粋理性の事実として与えられている。……それゆえ道徳律の客観的実在は、いかなる演繹によっても、理論的で思弁的な、もしくは経験的に与えられた理性のいかなる努力によっても証明されえない。それゆえ、必然的な確実性を断念しようとしても、その実在が経験によって保証されるわけではないし、したがってア・ポステリオリに証明されうるわけでもない、それにも拘らず、道徳律はそれ自身で確実である」 という部分があります。 この部分は一般に「理性の事実」と称され、道徳律は演繹されない、というカントのこの主張をめぐってさまざまな批判や解釈がなされてきました。 本や紀要論文も数多く出ています。 あるいは、ヘーゲルは直接この部分ではないのですが、カントの「普遍立法」や「自由」「理念」をめぐって批判しています。 そうした本が参考になるかと思いますし、あと、学部生の方であれば、こういうところで質問しないで、先生に聞いてください(笑)。 答えているわたしの方は畑違いの文学屋です。パンキョーで興味を引かれ、『判断力批判』の講読ほか、いくつか授業を取った経験はありますが(『純粋』と『実践』は岩崎の『カント』と併せて講読についていくために読んだ)、基本的にシロートです。 そういうことで、院試がんばってね♪

taruhi
質問者

お礼

長々ありがとうございました。正直まだ釈然としないところはありますが、とりあえずはこの辺にしておこうかと思います。 先生には前に聞いたのですけれど、その時は卒論の相談をしにいった時でしたので、途中ではぐらかされてしまいました。理性の事実であるところから懐疑を持ち込むのは誰でもやれることですし、それだけではちっとも面白くないのは確かです。それでも、何か糸口が第一編第一章第一節にあると思ったのですけれど… あ、僕も岩崎さんのそれと併読してました。岩崎氏はカントをごく限られている面でしか評価していないようなので今はあまり共感しないのですけれど。 カントをずっと続けるというよりは、多分この先現象学かドイツ観念論の方向に進んでいくと思いますので、その時答えを自分で与えられることを期待しつつ… 本当に、お世話様でした。

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回答No.5

論理階梯を問題にしておられるんですね。 「純粋理性は、実践的に、つまり、意志規定にとり十分な根拠を含んでいる」 と、そこで切るのはちょっとまずいです。 この文の主語は「実践的法則が」です。述語は「そこにある」です。 純粋理性が意志規定に十分な根拠を含んでいるような実践的法則、という文章構造を取っているのだと理解してください。 この注の部分は選言的三段論法を使って証明しようとしています。 ・pもしくはq ・qではない ・ゆえにpである。 これが選言的三段論法です。 ここでpに当たるのは、実践的法則(純粋理性が意志規定に十分な根拠を含んでいる)。 ここでqにあたるのは、格率(主観の意志にだけ妥当すると主観から見られる)。 注では、格率が普遍的妥当性を持ち得ないことが縷々説明してあります。 ゆえに実践的法則は普遍的妥当性を有するということになる、ということを証明しようとしているのです。 もしも道徳律が経験的な原理から導かれるものであるならば、それは普遍妥当性を有することができない。 それゆえにそれは先天的な原理である。 これが第一節の注の趣旨です。 ちょっと前に咳止めを飲んじゃったんで、頭がぼーっとしています。 たぶん間違ったことは書いていないと思うんですが、またご質問の意図とずれているかもしれません。 その場合は補足ください。 私の能力で対応できる限り、何度でもおつきあいします。

taruhi
質問者

補足

長文を書いたのですが、投稿に失敗してしまいかなりぐったりしています…(笑)考えは整理できたので大分短くなりました。 選言的三段論法とした場合にですが、以下のような困難を感じました。 そちらの示されたのは、 (大前提):実践的法則であるか、格率であるかのどちらかである。 (小前提):格率ではない。 (帰結):実践的法則である。 ということだと思います。 しかし、このような三段論法によってはその現実的存在は示されてはいないのではないでしょうか。 上述の三段論法は不足を補うなら以下のようになると思います。 (大前提):ある実践的原則は、実践的法則であるか、格率であるかのどちらかである。 (小前提):格率ではない。 (帰結):実践的法則である。 三段論法の形式もその帰結も正しいですが、ただ、ある実践的原則がどのようなものでえるかを示すことは、その原則の現実的存在を示すことにはならないのではないかと思います。(繰り返しになってしまいましたが ) 例えば僕は以下のような選言的三段論法を作ることができます (大前提):ユニコーンは一本の角を持つか二本以上の角を持つかいずれかである (小前提):二本以上の角を持つということはユニコーン(=一つの角の意)の概念と矛盾するから、ユニコーンは二本以上の角を持たない (帰結):ユニコーンは一本の角を持つ。 これで、ユニコーンがどのようなものであるかを僕は知ることができました。この三段論法に誤りはありませんから帰結は絶対に正しいです。ユニコーンは(もしそれが存在するのであれば)絶対に一本の角を持っています。が、ユニコーンなる生物は存在していません。ですから、このような形の選言的三段論法の帰結からは、その現実的存在を示すことはできません。そして、道徳律に関する三段論法もこれと同じ形式を取っています。 今、僕の考えているのはある課題の解決です。それは 「課題:道徳律の現実的存在を示せ」 というものです。第一編第一章第一節をひいたのは、そこに見出した命題に解決の糸口があるのではないかと思ったためです。しかし、結局そこからは糸口は掴めませんでしたし、実践理性批判の他の箇所にも未だに見つけていません。この課題の解決のきっかけを与えていただけるのでしたら、それに勝る喜びはありません。 最後に、より円滑にするために僕の理解度をある程度お伝えしておきます。 現在大学四年で、カントを主に扱っていまして、だいたいこの二年で三批判書は二度ずつ読みました。解説書は3,4冊。進学予定なので、受験勉強の一環として哲学史的な流れに関しては、二冊のテキストを使っておおまかにおさえてあります。 何度もお時間割いていただいて、本当に、ありがとうございます。

回答No.4

少し、カントの『実践理性批判』の背景を書いてみたいと思います。 17世紀から19世紀にかけて、哲学の中心的な問題は、人間の認識とはいったいどのようになされるのか、ということでした。 デカルトは、幾何学をすべての科学と哲学のモデルと考え、普遍的で明白な真理は理性によってのみ発見され、この真理から哲学と科学がみちびかれると主張します。このデカルトをもとに、大陸合理論が発展していきます。 それに対してイギリスでは、あらゆる認識は経験によって得られる、というイギリス経験論が発展していきます。 とりわけ18世紀に登場したヒュームは、経験論の思想を徹底させてゆき、もっとも確実とされる自然法則でさえ、正しいものであり続けるかどうかわからない、とします。 カントが登場したのは、両者の乖離が甚だしくなっていた時期であり、カントはこのようなまったく相反するふたつの思想を統合して、新しい哲学をうち立てようとしたのです。 確かにヒュームの言うとおり、あらゆる認識は経験とともに始まるけれど、われわれの認識能力のなかには、経験によらないもの、先天的形式(形式というのは、思考の枠組みのこと)が備わっていると考えました。 そのことを証明しようとしたのが、『純粋理性批判』です。 カントはそのなかで、われわれのなかで認識のメカニズムがどのように作用しているか考えたのです。 このことに関しては、いくつか回答しているのですが、基本的な「感性」「悟性」「理性」については、良かったらこれを参考にしてください。 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690 純粋理性というのは、いっさいの経験的要素を含まない、先験的な認識能力全体(感性・悟性・理性)のことです。 カントは『純粋理性批判』のなかで、この認識能力の限界をあきらかにしようとしました。 人間の認識能力は、現象の範囲を超えることはできない。経験を離れて「物自体」(認識によってとらえられない、現象の原因であり、真の実在)をとらえようとしても、それは不可能である、従来の形而上学が誤っていたのはそのためである、と考えたのです。 けれども、われわれの認識というものが、あくまでも現象に限られているのだとしたら、どうして人間は「物自体」を、たとえば神や霊魂や世界といったものを、経験によって決して知り得ないことを考えることができるのか。決して認識することができないものを、考えることができるのか。 それは、とりもなおさず、「物自体」が、われわれの経験を超えたところに存在しているからにほかならない。 理論的認識によっては「物自体」の世界を知ることはできない。 けれどもそれ以外に「物自体」の世界を知りうることはできないのか。 カントはそこで、道徳的意識ということをもんだいにするのです。 カントは道徳律が、実践理性の事実としてわれわれに与えられているということは、理論理性によっては証明できない自由の存在、あるいは「物自体」に属する霊魂や、神の存在を肯定するものである、とします。 つまり『実践理性批判』は、ヒュームによっていったんは完全に否定された形而上学を、もういちど定義し直し、うち立てようとした。 それが『実践理性批判』の目的でした。 >純粋理性にもとづく意志決定こそが実践的法則であることは何によって示されるのか 実践的法則(道徳律)が普遍妥当性を有するのは、それが個々の主観に基づいた格率ではなく、あるいは、経験的な原理から導かれるものではない、先天的な原理、経験を一切含まない、純粋理性に基づいたものだからである、ということの理由は、この第一節の部分で説明されています。 おそらくお聞きになっていらっしゃるのは、そういうカントの論理階梯ではなく、「何によって」、すなわち、純粋理性にもとづいた意志決定が道徳律であることの根拠は何か、ということなのでしょう。 けれどもカントにとって、そのことは証明するまでもない自明のことだった。 というのは、『純粋理性批判』によって証明されたように、人間には経験に依らない、先験的な認識の形式、感性、悟性、理性が備わっている。経験に依らないがゆえに、これは万人にとって同じ形式である。 普遍妥当性をもつ(いつ、いかなる場合でも、万人に当てはまる)道徳原理を考えるとき、それは純粋理性に規準づけられたもの以外ではあり得ないからです。 『実践理性批判』の目的は、普遍妥当性を持つ道徳律を確立することそれ自体にあるのではなく、道徳意識を通じて「物自体」の世界を見出し、実践的な形而上学をうち立てることにありました。 人間は道徳的な行為において、自然の物理法則から離れて、自由に行為できる。こう考えることで、カントは哲学を、神のことを考える学ではなく、自然法則に従う学でもなく、人間の学としてうち立てた。このことをカント自身は必ずしも十分に意識したわけではないけれど、カント哲学の意義を哲学史的に見てみると、このように言えると思います。 わかりにくい部分などありましたら、補足要求をください。

参考URL:
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690
taruhi
質問者

補足

えぇと、すみません。 時代背景及び三批判書の意図、存じ上げています。前回捕捉が誤ってしまったのでこのようなお手間をおかけしてしまい、申し訳ないです。 今の僕の疑問といいますのは、カントの意図を承知した上で、カントの論に少なくとも僕やカントに慣れない人にとってはそれによって理解が困難となるような拾い残しがあるのではないか、ということでした。 「純粋理性は、実践的に、つまり、意志規定にとり十分な根拠を含んでいるとするならば、実践的法則がある」これは確かにその通りですし、前段の仮定が真なら、確かにその帰結は出てくるのだと思います。 ただ、その仮定が真であること、「純粋理性が実践的に、つまり、意志規定にとり十分な根拠を含んでいること」はどうやって説明されるのか、という問題です。 僕は、カントのいうようにはそれを自明のこととは思うことができませんでしたし、カントがそれに対してどのような説明を加えているかを見つけることもできませんでした。純粋理性による意志規定が不可能とするなら、道徳法則は存在しないことになりますし、また、我々はカントの言う意味では自由では決してなくなり、理性の要請も不可能になるでしょう。しかし、理性は意志規定の根拠ではないし道徳法則も無く、我々は自由ではない。だから、要請という形で純粋理性理念にその実在を与えることもできないのだ…と、そういう考えに対してどのような反論がなされるのでしょうか。 そういう意味では、カントの思想の中身に関する質問、というよりは、カントの思想ここがもしかしたら不十分なのではないか、という問題提起だとお受け取り下さい。(僕自身はカントのいうことはだいたい受け入れているのですけれど) 前回の失敗を繰り返さないために質問内容を最後にもう一度繰り返します。 「純粋理性は、実践的に、つまり、意志規定にとり十分な根拠を含んでいる」ということをどのようにしてカントは示しているのでしょうか? 幾度も繰り返しのご回答、ありがとうございます。理解の至らないこと、申し訳なく思っています。

回答No.3

>純粋理性が実践的に十分な根拠を自らの内に含むことを示し、更にこの命題自体が正しいことを示すことができれば道徳法則が実在する、ということになるのでしょうが この部分は、そういう意味の文章ではありません。 第一節の定義の注であることを、まずしっかりと押さえておいてください。 「純粋理性が、実践的に、つまり、意志規定にとり十分な根拠を含んでいると思われる場合には、実践的法則が、そこにある」(『実践理性批判』樫山欽四郎訳 河出書房新社) というのは、その直前の定義を受けています。 定義では、実践的原則には二種類ある、とされます。 ・ひとつは主観的な「格率」 ・そしてもうひとつは客観的な「実践的法則」 注の第一文は、この定義の「すべての理性的存在者の意志に妥当するものと認められるときは、客観的である、すなわち、実践的法則である」を言い換えたものです。つまり、純粋理性に根拠づけられた意志規定は、実践的法則である、もう少しわかりやすく言うと、純粋理性にもとづく意志決定こそ道徳律である、と言っているんです。 この第一節は、個々の主観によって想定された普遍妥当性を有しない「格率」と「実践的法則」は、厳密に分けられる必要がある、さらに、純粋理性にもとづく意志決定こそが「実践的法則」なのである、と言っている部分です。 分かりにくい部分があれば、補足要求をください。

taruhi
質問者

お礼

捕捉の内容を間違えてしまいました。 こちらから失礼します。 第一の疑問点、間違えました。 「純粋理性にもとづく意志決定は可能なのか」でした。カントの言葉に即するなら、「純粋理性は、実践的に、つまり、意志規定にとり十分な根拠を含んでいるのか?」です。 純粋理性にもとづく意志決定こそが道徳律であると、僕も思います。

taruhi
質問者

補足

注の示す内容に関する僕の解釈が当を得ていなかった旨了解しました。仰る通りの内容でしたら、他の箇所でも出てきますから、よくわかりました。 端的に今の疑問を書いてしまいますと、 「純粋理性にもとづく意志決定こそが実践的法則であることは何によって示されるのか。」 …と、いうことです。 法則であるということと客観的であることは一緒でしょうから、「道徳は本当にわれわれ理性的存在者皆が義務として課せられているものなのか」といってもよいかと思います。もし何ものかが、道徳法則なんてなくて全てが格律にすぎないのではないか、といった場合、どのような根拠によってそれを覆すことができるのか、という問題です。 純粋理性とは道徳法則を我々に課すものであり、そして純粋理性は存在する、だから、道徳法則もある。では納得ができません(カントは別にこんな言い方はしていなかったと思いますが、例えです)。 また、少し違う角度からの疑問なのですが、純粋理性が我々に道徳法則を義務として課している、と認める場合に、ではなぜそれに我々が従わなければならないか、という問題です。例えば私は他の誰かに何かある行為を義務として課すことが可能ですが、その誰かが必ず従わなければならないような形でではありません。しかし、理性にはそれが可能だというその理性の優越は何に由来するのでしょうか。端的に、理性とは何か、という問いにしてしまってもよいかとは思いますが… 後者の疑問に関しては自身整理しきれていないところもありますので、特に前者に関して、お教えいただければと思います。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.2

参考程度に 純粋理性というのは、証明されるものではないのです。カント先生は純粋理性と呼び、仏陀はそれを仏性と呼び孔子は、北極星に例えています。絶対真理を内在するものが人間であるというお考えなのです。キリスト教的には神の子理論かと思います。つまり、カント先生やヘーゲル先生の著書はこの点が信じられなければ、先へは進めないでしょう。内在する絶対真理があること、内在する叡智があること、それが真理だからカント先生もヘーゲル先生もえらいのです。それがなければ、道徳も法律も単なる相対的な世迷いごとに成り下がるということでしょうね。ニーチェなどは、糸の切れた凧に成り下がってしまいましたね。

taruhi
質問者

補足

加えて質問を失礼します。 言い換えれば、カントやヘーゲルの体系にはある前提となるものがあり、それを受け入れることができれば帰結は真であり、受け入れられなければ帰結は偽…と、そういう意味のことを仰っているのだと思いました。 僕はまだ(恥ずかしながら)ヘーゲルは解説書でしか読んでいませんからそちらはさしおきますが、カントの場合、純粋理性批判や判断力批判にはそれほど一般の人が受容困難な前提というものは無いように思いました。いわゆるコペルニクス的転回も、その端緒はわれわれの見ている見え方の向こうに、その見え方をわれわれに触発しているなにものかがある…という前提からはじまるのでしょうが、これなどは思惟することのできる者なら、同意が比較的容易であるように思います。 全体としてカントの論は平明であり、そこには"信"の存する余地はないかのように思えるのですが、確かに実践理性批判においては歯切れが悪いようです。僕も、最近では、受け入れるか入れないかなのかなぁ…と思っていたところでした。 どちらかといえばヘーゲルがご専門かとお察ししますが、純粋理性自身は証明されえない、という点、もしご面倒でなければ、該当個所をお教えいただければ嬉しいです。カントを読む際に、理性とは何かをもっと明確にしなければ真には何ものもつかむことができないのではないかと、このところ思うようになってきました。

noname#15238
noname#15238
回答No.1

私の回答は、お役に立たないと思いますが、 昨年、「実践理性批判」に挑戦する際、ここで お世話になつた者がお返しを出来ればと回答してみます。 正直、質問者様の感想と同じでした、この本全体が、その証明の為なのですが、私の場合は、嘘に関する罪悪感の部分で特に違和感を感じました。 しかし、世間では鉄壁のカントの論理ですから、 理解不足が理由と考えていましたが、 証明できたかどうかは私も保留中でした。 その後、「道徳形而上学原論」にも挑戦しましたが 今以て確かなことは申せません。 ただ、読んだ甲斐はありました。 道徳法則の実在がどういう意味かはわかりませんが 自分の心の中に 自愛心に隠れて目立ちませんが 「それ」は在るのです。 私には、「それ」で充分です。 やはりお役に立てませんでした、 私も一緒に、詳しい方のご回答を待ちたいと思います。

taruhi
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 僕は実践理性のまえに原論読んだのですが、その頃はただ例の他者を手段としてのみ…云々になんだか妙な感動を覚えた程度でした。 いまはどちらかというと、道徳律に対する尊敬の感情、ですとか、あるいはまた崇高の感情。そういった感情の問題を介してカントの説く道徳を理解しようと考えています。 確かに端的に義務を命じられているのだとしても、それにわれわれが自発的に、道徳法則に対する尊敬の感情の故に同意をして初めて道徳的な人間たりうるのだとするカントの立場は非常に好きで…妥当性を疑いながらもどうも離れがたい魅力を持っているように思えます。 明らかにずれた読み方ではあるのですが、道徳法則が実在しなかったとしてもわれわれが自由でなかったとしても、われわれが自由でるかのように道徳法則が実在していてそれがわれわれに端的に義務を命ずるかのように…そういった"覚悟"とでもいうべきものがあるいはそういった"感情"から湧出するのかもしれないなと最近では考えています。

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