他の回答者の皆様はこの問題を人文科学的な視点から論じられておりますので、私はここでは自然科学という違った側面からこの問題を論じてみます。
この問題を自然科学的立場から真っ向から扱った文献として、J. モノー著「偶然と必然」、I. プリゴジン, I. スタンジェール共著「混沌からの秩序」、それにI. プリゴジン著「確実性の終焉」を挙げておきます。日本語で出ていますので、興味のある方は参考にして下さい。
自然科学では、言葉の定義そのものを分析するよりも、むしろ、この「偶然」という事象がこの自然界でどのような機能をもち、どのような現象としての帰結をもたらすのかを分析することに重点が置かれております。その立場から、始めに結論を述べてしまうと、
「『偶然』とは我々生命現象を含めた複雑な構造が物理学の法則に従ってこの宇宙の中に自発的に現出することを可能にしている、最も基本的な事象である」
と言うことができます。この言葉で何を意味しているのかを以下で説明します。
近年の非平衡熱力学の目覚ましい進歩の結果、この宇宙の中に生命現象をも含めた複雑な構造が自発的に現れてくる物理的根拠が判るようになりました。そのことを説明する理論のことを「散逸構造の理論」と言います。この理論によると、自発的に構造が出来上がってくる条件の一つとして、「熱力学第2法則」(別名、エントロピー増大の法則)という経験則が成り立っていることが必要であることが判るようになりました。この経験則は
「時間の流れは、全体としては系全体の無秩序さが増大する方向、あるいは情報が散逸するに向かっている」
ということを主張しています。そして、そのような散逸現象が起こる最も基本的な根拠を、ミクロなレベルで起こっている「偶然」、あるいは「確率的な事象」と呼ばれる現象が担っているのす。
この宇宙では、何らかの形で構造が出来上がった場合、その構造を壊そうとする邪魔な力が常に働いています。そこで、その邪魔が入ったことを、もしその系がづっと覚えていたら、その系は構造を保って存在できなくなってしまいます。そこで、この情報の散逸、すなわち邪魔が入ったと言う記憶を忘る機能がなければ、その複雑な系は安定してその構造を保っていられなくなります。この「記憶の喪失」を保証しているのが、確率的な「偶然」というな事象に根拠を置くエントロピー増大の法則なのだと言うことを、散逸構造の理論は明らかにしたのです。すなわち、偶然が役割を演じる場所がないと、我々を含めた複雑な構造がこの宇宙の中で存在できなくなってしまうということが判ったのです。 この理論は現在までに膨大な物理系や生物系に適用され、その理論の正しさが確認されております。それによって、上で挙げた本の著者の一人プリゴジンは1977年にノーベル賞を受賞しています。
ところが、物理学の基本法則をトコトン押し進めて行きますと、ニュートンの法則、マックスウエルの電磁気学方程式、アインシュタインの一般相対性理論、量子力学のシュレーディンガー方程式という全ての法則は、決定論的方程式と呼ばれる微分方程式で表されています。従って、物理学の最も基本的なレベルでは全てが、一見「決定論的」であり、「偶然」が本質的役割を演じる「確率」の概念がこの宇宙の中に入り込む余地がないように見えています。
そこで、エントロピー増大の法則と言う「経験則」で理解されているこの偶然なり確率的な事象が、物理学の決定論的な「基本法則」からどのような論理で導き出されるのかという、途轍もなく面白い問題が、まだ未解決の問題として物理学者の間で現在深刻に論じられています。
因に、この問題の回答のカギを握っているのが、非平衡統計力学や、最近話題になっている非線形力学形でのカオスの理論であろう、との印象を多くの物理学者達が抱いております。
別な言い方をすると、現在の科学では、「偶然」と言う概念で説明される現象が、この宇宙で何故起こり得るかという問いには、まだ答えられていない段階ですが、この概念で説明される事象が在るお陰で、我々をも含めた複雑な構造がこの宇宙に自発的に存在できるようになったのだ、と言うことは判るようになったのです。もっと詳しくは、上で挙げた著書を参考にして下さい。
(蛇足)量子力学の確率解釈の問題は、未だにその意味に関して論争の対象になっている「観測の理論」と呼ばれる、物理学的には未完成な理論との折衷で理解されている段階ですので、量子力学が出たから、確率の根拠も判るようになったという主張は、未だ物理学者達の共通意見には成っておりません。
お礼
今まで知らなかった新しい分野についての知識でした。文献の紹介も含めて、ていねいなご説明をしていただき、ありがとうございました。 全然知識のない領域なので、理解するには程遠いので、単なる感想ですが、新鮮に感じたのは、エントロピーの増大が、自発的な構造の生成の必要条件という話です。今まで、生命体はエントロピーを減少する働きを持っているので、熱力学第2法則は、生命体のような構造物を破壊する方向に働くのかなと漠然と思っていたからです。時間があったら、ご紹介いただいた文献なども勉強してみたいと思います。