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新羅、高麗など渡来人の信仰したものは?
日本書紀や続日本書紀などに新羅、高句麗などからの渡来人を 東国に移住させたとあります。 もしそうなら彼らの信仰した神などを祀った痕跡があるとおもうのですが、 それは何でしょうか? 埼玉県に高麗神社があり、開祖である高麗若光の墓もありますが、 神社は渡来人が始めたものなのでしょうか? よろしくお願いします。
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長野県松本市の東部には、高句麗からの渡来人が移住し、積石塚などの遺跡があります。 http://takara.city.matsumoto.nagano.jp/prefecture/061.html この古墳の近くに「須々岐水神社」がありまして、祭神は建御名方命、素盞鳴命となっています。 素盞鳴命(スサノオノミコト)は牛頭天王との関連が指摘されており、中世以降の神仏習合の過程において、高句麗の人々が信仰していた神が、スサノオに置き換えられた可能性が考えられます。
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- baichi
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こんばんは (日本人の源流を探して) というサイトをずっと読んでいくと面白い事かいてあります。時間ありましたら読んでみてください。 あと質問内容とは無関係なのですがドラマで善徳女王(新羅第27代王)を見ていて不思議に思った事がありまして。ドラマの会話の中で (ほな)という発音の言葉が使われてたのですがこれの意味が (では・ならば・そしたら)のような意味でして。 この(ほな)というのは関西 大阪 京都でも使われてまして (ほなさいなら)見たいに普通に使われてて 発音とその意味も同じだったので・アレって??おもいまして それでウロウロとサイト見てるときに 上記のサイト見つけまして・・おぉ?!ってなりました。 こういった質問の場合、研究してる位の専門家じゃないかぎり唸るような回答は難しいと思います。キーワード拾って検索して自分で創造するような感じなのでは・・ 伽耶国 百済国あたりで検索でも面白いと思います。あと花郎(ふぁらん)から検索でそのいでたち・・旧薩摩藩の兵児二才と似た風習みたく書いてあってもしかしたら文化がずーっと江戸末期あたりまで影響してたのじゃないのか!って考えてみたりしてます。 なんか意味不明の回答で失礼しました。
- mekuriya
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彼らの信仰した神?そんなものは存在しません。渡来人は日本文化を許容しました。新羅も高句麗も日本も仏教国です。日本は仏教とは別に神道があっただけです。移住させたのではありません。口分田を与えて生活の基盤を提供しただけです。高麗神社は高麗王若光を祀っています。ただそれだけの話。 日本には比類無き功績を挙げた人物の霊を祀る神社は数え切れないぐらいたくさんあります。高麗神社はそのひとつというだけの話なのです。
- Willyt
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大量に渡来人が日本の土を踏むようになるのは白鳳時代から奈良時代までの間のようですが、これは世界的に起きた気候異変が影響しているようで、大陸では五胡16国、南北朝と言う異民族が次々に中国の大平原になだれ込んでくる時代が続き、日本もその流れの中に投げ込まれたということでしょう。そして仏教はそれらの流れの中で中国にも入って来た新しい宗教で、渡来人がこれを信じていたとは考えにくいでしょう。日本には百済の王から経典が贈与されて日本へもたらされ、それは支配階級を通じて行なわれた文化交流の一つでした。ですから渡来した一般民衆は土俗の宗教をそのまま持ち込み、それが日本の神道と融合して行ったものと思われます。 そしてその渡来は世界に例を見ないほど平和的に行なわれたようで、土着の日本人と渡来人の間に武力衝突があったという文献が皆無なのです。それは彼等が持つ先進文化を土着の日本人が必要とし、さまざまな技術を学ぶことができたことが要因の一つでしょうが、受け入れる側でも今の日本人がそうであるように積極的に学ぶ精神を古代人も有していたからでしょう。 渡来人が東国に移住させたことは事実ですが、これは土地を無償で与えて住まわせたのであり、強制移住ではありません。日本各地に渡来系の集団が住みついたことがさまざまな資料や遺跡で分っています。東国は当時未開の地で人口も少なく、未開墾の原野がいくらでもあったことが多くの渡来人が移り住んだ理由なのでしょう。
お礼
ありがとうございます。 >渡来は世界に例を見ないほど平和的に行なわれたようで 平和とはいえ言葉も文化も違うわけですから、何かが起こったはずです。 例えば渡来人の方が農業とか土木とか文字を持つとか、文化が進んでいた場合、 その土地の日本人の方が積極的に取り入れていったのではないでしょうか。 とすれば宗教や信仰分野でも変化があったとおもわれ、、 それが今日でも残されえていないか疑問におもったわけです。 あるいは単純に当時に渡来人の信仰(土俗の宗教)は何か? その信仰施設、宗教遺物が残されていないかが知りたいところです。 高麗神社の当初の姿などわかれば良いのですが。