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高句麗避難者=神?

①王莽が高句麗を討伐した時に、高句麗人は日本に逃げてきましたか? ②逃げてきた者が、何らかの神として古事記や日本書紀で扱われている可能性はあるのですか? ③朝貢したのはそのあとの光武帝の時のようですから、中華は危険と聞いて朝貢したのでしょうか?

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  • oska2
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回答No.2

>王莽が高句麗を討伐した時に、高句麗人は日本に逃げてきましたか? 多くの高句麗人が、日本に逃れてきていますね。 百済滅亡時にも、当時の王子・豊璋(日本名中臣鎌足)が逃れてきてます。 白村江の戦いは、百済再興を目的とした戦いですよね。 当時、外交を担っていた蘇我氏は軍の派兵を反対していたのです。 邪魔になった蘇我氏を、中大兄皇子を利用して殺害し派兵が決まったのは有名です。 高句麗が滅んだ時は、既に「百済からの渡来者が、朝廷内では有力な地位」を占めていました。 中臣鎌足は「藤原の姓」を賜り、代々実験を持ち続けますよね。 ですから、高句麗関係者が神となる可能性は(関係者以外)ありません。 高麗神社などは、高句麗関係者が祀った神社です。 ※多くは、高麗の名が付いています。 >朝貢したのはそのあとの光武帝の時のようですから、中華は危険と聞いて朝貢したのでしょうか? まぁ、百済を滅ぼした唐・百済からの亡命者が多い日本の関係で考えると面白いかもね?

その他の回答 (1)

  • gunsin
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回答No.1

当時の朝廷の記録に人数と移住先が記録されてます。 文章を書き入れるのが大変なので埼玉県日高市のホームページを参照 されたし。 https://www.city.hidaka.lg.jp/soshiki/shiminseikatsu/sangyoshinko/shokokanko/kanko/1300nen/6658.html 白村江での大敗の戦後処理で朝廷は混乱の最中でした。 大宰府付近の防衛強化と唐に使者を送ったようですが、詳細は 解らずです。