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というのも・・・からである。
理由を述べたくて、「というのも」を使ったら、最後は「からである」で終わるのが普通だと思います。例えば、「この新案に対して異論が挙がるかもしれない。というのも、新案はこれまでの案とは方向性が明らかに違うからである」という文章です。 しかし、「というのも」の内容が長くなってしまう場合に読点を打って、「からである」を次の文章の文末にもっていくことはおかしい(誤りなの)でしょうか?例えば、「この新案に対して異論が挙がるかもしれない。というのも、新案では、ひとつの価値基準のみを設定し、その到達度において評価が下され、且つ、その評価が給与に反映されるシステムになっている。これではあまりに成果主義的すぎると言わざるをえない。これまでの案では、みんなの意向を反映させて、様々な価値を認め、評価が給与に影響するようなことはなかったからである」。 私の意図はこの文章を自然にしたいということではありません。そうではなく、「というのも」と「からである」がそれぞれ別の文章に分かれてしまうことがおかしくないのかどうかということです。このような「型」はほかにもあり、「なぜなら・・・からである」も同様だと思います。 よろしくお願いします。
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- surumeika23
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ごめんなさい、ご質問の内容からは外れますが個人的な見解を。 例文の趣旨を考えますと、 「この新案に対して異論が挙がるかもしれない。」 というエクスキューズで始まっていても、 結局は相手方に、上の要求を呑ませたいがための言説でしょう? ぐだぐだ説明している、下の例文の2、3行目はただのお飾りにすぎなくて。 これはおかしいのでは? と質問者が指摘されるように、 この手の、上げ底というか一見説得力のありそうな目くらまし文が横行していることこそ、 問題なのかもしれません。
- ゆのじ(@u-jk49)
- ベストアンサー率30% (1233/4073)
例文の「というのも」の用法が間違いなのでしょうね。「異論」の発生元が他者であるのに、「というのも」という自身が発生元になる語法に違和感があると思われます。他者の感受性を推測するのに、あたかも自分のことのように、あるいは、全てを見通す神のように「というのも」と言い放つのは、いけません。型にこだわったり、そういうものに囚われていますと、正しく伝えようという本来の目的から外れるのだと思います。 私は、他の正しい例文ならば、一読して変だとは思わなかったと思います。ただ、センテンスが分散した場合、下手な文章だなとか、論理的組み立てがダメな文だなとは感じましょうね。
お礼
ありがとうございました
おかしいと思います。
お礼
ありがとうございました
お礼
ありがとうございました。