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押し籠もりとは?社会力学のあり方を考える
- 押し籠もりとは、引きこもりの一種であり、現状の社会力学のあり方に対して抵抗し、新しいコミュニケーションのあり方を模索している存在です。
- 押し籠もりや引きこもりは、未来社会の先取りとも言えます。彼らは現状の社会の在り方を乗り越えて、将来のコミュニケーションの可能性を見つめています。
- 押し籠もりは、ヒキコモリを生み出す一方で、ヒキコモリへの理解を促し、新しい生き方の可能性を探求しています。
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そうですね。とても興味深い考察、楽しんで読ませて頂きました。 押しこもりは引きこもりを醸成する苗床…という意味に感じました。確かに全ての場合においてそうかはわかりませんがわかります。面白いですね。 クウキに関してはアホらしくて読めない…確かに人間成長の機会を促す事も有るので全てがアホらしいと言ってしまって良いか?はわかりませんが、コミュニケーションやクウキに関して日本ではちょっと偏りのある場合(利己的な都合上必要とされる)が多く感じられる気がしますがいかがですか。
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- heart_mind
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押したり引いたりは、コミュニケーションの基本でそのような自由を否定すること 自体がいいのかどうかわかりません。また、まったくフラットにしたら押したり 引いたりがうまく働かない気がします。 ですが、あるスレで累進課を進めるより、自由な意志の寄付がいいという意見が ありました。こういう意見は負荷なき自律という意識のあらわれではないかと 思います。つまり、社会の相互作用によって得た利益ではないという言い分だと 思います。それを受ける側が施しがいいのか、当然の権利として自律意識を持つ 方がいいのかという想像ができなくなってしまっているのです。 公共的な想像力の欠如は、生産においてもマイナス要素です。 精神疾患が社会構造とかかわり合いがあるのは、それは精神分析の専門家がいうよ うにそうだと思います。ただ、ニュートラルな分析としてそうだというだけで 患者の自己肯定の一助として機能すればいいだけで、その結果に為政者や管理者が 社会のせいにしているかの様に腹をたてたり、患者が患者をとりまく社会で形成 された人格を否定されているかのように認識するのも変な話です。 未来の社会構成がどうなるかと予測するのはそれはそれで意味のあることだと 思います。 しかし、個人的には未来ではなく今の時点で負け犬の遠吠えというスタンスは 踏み外したくないということでしょうか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 さて 次のように受け留めましたが それでよろしいでしょうか。 Q1. 現代日本人の社会に オシコモリという現象は見られるか? A1. 《押したり引いたりするやり取り》は 一般的な現象である。それが オシコモリやヒキコモリに特にかかわるとは思えない。 Q2. 見られるとすれば それは 人びとの中にヒキコモリという反応を起こさせているのではあるまいか? A2. あり得ない。あり得ない・つまり そのような因果関係はないにもかかわらず ★ 個人的には未来ではなく今の時点で負け犬の遠吠えというスタンスは 踏み外したくないということ ☆ として現われれているものだ。 Q3. ぎゃくに言えば ヒキコモリは オシコモリという現象が 社会力学として有力であり ときに支配的なクウキをかたちづくっていることを感じてこれを嫌い 無言のうちに――そしてしばしば本人も意識しないまま――抵抗しているのではないか? A3. これは すでにここまでの回答内容に沿うならば ★ ニュートラルな分析としてそうだというだけ / 患者の自己肯定の一助として機能すればいいだけ ☆ というかたちで 筋道を外して脇の側から見られている。という現象だ。 Q4. だとすれば ヒキコモリは オシコモリを克服した未来社会をすでに先取りしている。ただし今はまだその描像は絵画けてもネガの状態である。と考えるが どうか? A4. 一般に言えることが このヒキコモリには通用しない。すなわち ★ 未来の社会構成がどうなるかと予測するのはそれはそれで意味のあることだと思います。 ☆ と言うのみ。そのことが ヒキコモリの場合には 当てはまらない。 ご回答をありがとうございました。参考にいたします。
- heart_mind
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籠もる問題というか特徴をどちらもかかえているんじゃないでしょうか。 ただここで「問題」といいきれないのは、それがアイデンティティでも あると思うからです。それを変革しようと思ったら血をどんどん積極的 にまぜててっても、一世紀ぐらいはかかっちゃうんじゃないでしょうか。 それでどんどん疲弊していってしまう。 内に籠もりがちな人は特別な人というわけではないと自覚した方がいいと いうことと、それが現実であっても、研究職や芸術家は数%の需要もないと いうこと。また、勝ち組だから趣味みたいに習い事感覚で仕事ができるはず もなく、需要から雇用が生まれることからすれば、それは子供の考えそうな 幻想です。(だからといって子供の教育の基礎学力を軽視するのは変な話ですが) 夢のある玩具を作れるのが勝ち組の特権のように思われて、本当に需要があり そうな不利益感のある仕事を創造的に底上げすることが軽視されていってしま ったのです。つまり「創造的な仕事=玩具を作ること」という浮遊したファンタ ジーが先行していってしいまった。労働(体という自然または、自然という体) を想像できないと創造できないが基本だと思うんだけど。 もともと、殆ど全員オタクだから、便利になっても問題ないので、フラットな 意識に戻していった方がいいとはわかっても、やはり目立つ人は、若者が幻想 をいだきそうな派手で革新的な、メディア芸能の世界の弱肉強食があたりま えの価値観をもってる人ばかりだから、変なことになっちゃったのです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 でも 質問が問うていることからは離れています。 問いはこうです。 1. 現代日本人の社会に オシコモリという現象は見られるか? 2. 見られるとすれば それは 人びとの中にヒキコモリという反応を起こさせているのではあるまいか? 3. ぎゃくに言えば ヒキコモリは オシコモリという現象が 社会力学として有力であり ときに支配的なクウキをかたちづくっていることを感じてこれを嫌い 無言のうちに――そしてしばしば本人も意識しないまま――抵抗しているのではないか? 4. だとすれば ヒキコモリは オシコモリを克服した未来社会をすでに先取りしている。ただし今はまだその描像は絵画けてもネガの状態である。と考えるが どうか? たとえば 質問者はこういう質問をすでにしています。 ○ 【Q:KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6117420.html (趣旨説明) ~~~~~~~~ 民主制には わざわざ空気を読む必要はなく 空気をかたちづくる必要もない。それこそ民主制の雰囲気は 空気のようなものだ。 KY というときの空気は このいわば白紙であるという意味での空気のさらに上に別の訴える手段を持ちこもうとしたその結果であり その手段じたいであろう。 いろんな意味での党派の意向を 民主的な対話や話し合いという過程にいまひとつ別の手段を持ち込もうとするときの思潮のあやつり手段である。 さいわいこの国には お上には逆らえない・長いものには巻かれろ・寄らば大樹の陰といった《アマアガリ・シンドローム(公民アマテラスへの出世志向)ならびにアマテラス予備軍症候群(アマテラス公民の無謬性神話を無条件に信奉する)》なる風潮がはびこっていて この風潮に乗れば KY 〔を否定するかたち〕としての空気も 上昇気流となること請け合いであるようだ。 たぶん その場合にも KY としての空気も読むことだけは読んだほうがよいはずだが 読んだ結果として KY という現象が起きても構わないし 起きたほうがひとは よりいっそう自由である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ○ 【Q:ニート・引きこもり・あるいはうつなど精神の傾向は ふつうの社会現象であるに過ぎない。】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6242183.html (趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~ まずつぎのような随筆を見かけました。その場合は表題としても《精神疾患は社会の病気》というものですが その《病気》の部分を社会思潮であり社会現象だとして読んでみてください。 ◆ 大野裕:精神疾患は社会の病気 ~~~~~~~~~~~~~ 〔こころの健康学・日経2010・10・08夕刊7面〕 ――立ち場によって男女比変化 しばらく前 このコラムでうつ病になるのは女性が多いと書いた。うつ病と診断される女性の数は 男性の二倍であることが分かっている。アルコール依存などは男性が女性の二倍になっている。 女性にうつ病が多いのは 月経や出産 更年期などの女性ホルモンの変化が影響するからだと考えられている。そうした体の仕組みの違いだけでなく 社会的な立場がそれ以上に強く影響している。 ところが その立場が変わってくると 精神的変調の表われ方も違ってくる。世界保健機関( WHO )の国際比較研究を見ると 女性の社会進出が進めば うつ病やアルコール依存の男女比の差が小さくなってくる。うつ病では女性の割合が減り アルコール依存といった男性に多い精神疾患では女性の割合が増えてくるというのだ。 この傾向は国際共通だが 女性が社会進出するようになると ストレスへの対処の仕方が違ってくるのではないかと考えられる。 社会的な立場が弱いときには 内向的になって心の中で悩む傾向が強くなるが 社会のなかで自分の立場を主張できるようになると 行動を通して悩みを発散する傾向が強くなるのかも知れない。精神疾患は単に脳の病気や心の病気だけでなく 社会の病気なのだと思えてくる。 (大野裕:慶応義塾大学保保健管理センター教授) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ さて 一般に上に立つガミガミ役に対して下に身をおくアース役。前者が一般に 意識の排泄をおこない 後者がこれを受けとめる。 この関係を広く 《アマテラス( A )公民主導‐スサノヲ( S )市民従属》連関 と呼ぶことにします。これは そもそもふつうの主権在民=スサノヲイズムをさかさまにした連関関係ではないでしょうか。 この《逆立 A - S 連関制》から成る社会のあり方によって――《アース役》であることを通じて―― 世間でわざわざまちがって《精神疾患》とさえ呼ぶような精神にかんする社会現象のすべてが起きている。のではないか? アース役である人たちから 主婦である女性 あるいは 子どもたちへといわゆるしわ寄せが行くのではないか? この見方について 見るところ感じるところ考えるところをお聞かせください。 引用の随筆について解説をしていただける方は おしえてください。 この質問は 【Q:ニートや引きこもりは 未来社会への陰画だろうか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6191141.html 【Q:・・・うつなど精神疾患は 社会源病だ。】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6236569.html を継いでいます。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ ですから この質問は ひとえに《オシコモリ》と名づける現象が いま起きているかどうか。これを尋ねています。起きていると見るなら おそらくヒキコモリとつながっているのではないか? こう問うています。それ以外のことは 付随することや派生することとしてなら 受け留めてまいりますが それだけを投稿されても 雑談になりますので 困ります。 でも これだけのご回答から察しなければならないとすれば 次のようなご主旨になりましょうか? つまり ★ 籠もる問題というか特徴をどちらもかかえているんじゃないでしょうか。 ☆ というところまでは 認識している。けれどもそれ以上のことは 判断しかねる。問いに対して ずばりの回答は し難い。周辺のことがらを捉えて その傾向や問題点を取り上げ広く深く分析しないと 結論は出せない。と。 それはそれとして 了解しました。ありがとうございました。
- heart_mind
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すいません。本当によくわからなくなりました。 私はモラトリアムが一方的に悪いといいたいわけではないし、 ガリ勉に問題なしともいいたいわけでもありません。 ただ、社会に望まれたい、期待されたい、役に立ちたいと思うのは、 社会的動物としての自然本性ではないでしょうか。 その社会的動物としての自然本性を社会構造が抑圧した結果が ガリ勉やオタクという子供に閉じこめさせている結果であれば、 それはやっぱり見直していった方がいいと思います。 どんな人間もやっぱり霞を食べて生きてはいけないし、 人権は守られなければならないと思うからです。 ミートホープ事件がありましたよね。自分は絶対食べたくない様なものを 確信犯的に生産して、安価である現実をリスクテイクする顧客の責任である という生産者側の販売契約の不当性な言い分に対して、 その頃の世論は道義的問題意識をもって、まだ健全に批判できていました。 しかし、今はどうでしょうか。新自由主義的な価値観が蔓延して、 原発問題を例にしても、誘致した側のリスクテイクの責任が クローズアップされたり、近代においての公正な「契約」における 企業側の責任は、利益追求の為には反故できるかのような、 アンバランスな価値観が社会を浸食しようとしています。 人間の飲み水が作られる場所かもしれない県境の谷という 直接利害関係には問題にはならない場所に核のゴミを、 捨てることはただ財政と大衆の折衷案ということでないと 願いたいばかりです。 今日もテレビで医療についてやってたけど、嫌なもの見ちゃった感じ 見なきゃいいんですけどね。
お礼
ええっとですね。 まづは ご回答をありがとうございます。 なのですが 質問の趣旨をずばり言います。 ★ ~~~~~ その社会的動物としての自然本性を社会構造が抑圧した結果が ガリ勉やオタクという子供に閉じこめさせている結果であれば、 それはやっぱり見直していった方がいいと思います。 ~~~~~~~ ☆ この《・・・結果であれば》というその仮定が すでに実際のこととなっているのではないか? どうでしょう? という問いなのです。 オシコモリが ヒキコモリを生みだしている。と見るが どうお考えになりますか? と問うています。 むろん オシコモリという仮説じたいをまづ問いたいという回答があっても おかしくありません。まぁ 受け留め得るという場合には それでは そのオシコモリが じつは 人びとの一定の部分をヒキコモリへと促しているのではないか? という問いにも答えていただきたい。という質問です。 なお ガリ勉は わたしの場合は あくまで経済行為のひとつの形式として ガリ勉資本主義というふうに言って持ち出しているのみです。 いわゆる勉強の態度としてのガリ勉のことは 触れていません。 ただし それが オタクと同じようにコモル(籠もる)かたちであるなら 同じように扱うこともあり得ると思いますが。 ですから さらにつけ添えるとすれば ヒキコモリは 決して疾患なのではないということ。 また 仮りにたとえ症状のごとき様相を呈しているとした場合にも それでもそれは 社会源病のごとくあるということ。決して個人が個人の行為として問われるような問題ではないであろうと見る。 こういうふうに命題を提出して その当否を問うています。
- heart_mind
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そういう見方も勿論あると思いますが、それを一般的には、モラトリアム状態 といったりします。つまり、自分はこんなもんじゃないんだ、いつかはきっと、 っていうのですよね。 こんな社会状況だから、そういうのも仕方なしとも思いますが、全体として見て も健全な状態ではないですよね。
お礼
ご回答をありがとうございます。 はあとまいんどさんの思想として 今回は 分かりました。 ひとことで言って こうだと思います。 ○ ~~~~~ ヒキコモリについての見方としてですが まづわたしのほうから 今のジョウシキとは別の見方を提出しました。《コミュニケーションのあり方として時代の先取りをしているが 今はそれのネガの状態にある》と。 これに対して 《ネガの状態》は 《全体として見ても健全な状態ではない》と見るのだと。 ~~~~~~~ ★ そういう見方も勿論あると思いますが、 ☆ ほんとうに《あると思》っておられますか? ★ それを一般的には、モラトリアム状態といったりします。 ☆ 違います。つまりここで 百八十度の志向性の違いが見て取れます。(もちろん 事実認識のみとして言っています。そういうご回答であるという意味ですが)。 つまりは 何かたどり着かなくてはならない状態が先にあって そのことへの努力を怠っている。その努力を猶予されている。 これが その昔説かれた《モラトリアム人間》のことです。その初めから ただし小此木啓吾は これをむしろ歓迎すべき傾向として捉えていたかと思います。時代が変わり人間があたらしく生まれ変わるという方向においてです。 ★ つまり、自分はこんなもんじゃないんだ、いつかはきっと、っていうのですよね。 ☆ ではないはずです。最初に前提として敷かれた《あるべき人間像・社会人像》じたいを忌避しているのです。忌避しているのですから 《いつかはきっと すばらしき人間になってみせるぞ》という考えは いっさいありません。ひたすら――自分たちは―― ネガの状態にあります。そのこと自体が 人間としての生き方であり 延いては社会への貢献なのです。という見方を提出しています。 だって 《のぞまれる人間像》の路線に乗ってやっこらさと昔の人間たちと同じように生きていたら どうなりましょう? と問題提起もしていましょう。そして それだけです。つまり あほばか路線を行く確信犯です。 ★ こんな社会状況だから、そういうのも仕方なしとも思いますが、全体として見ても健全な状態ではないですよね。 ☆ 《仕方なし》とは思わない。ゆえに 独自の路線を行っています。健全な自然本性を守るためにです。健全な自然本性でいつづけるために。 つまりは 現行の社会力学からクウキとしていだかれている《期待される人間》 これは《健全ではない》と言っています。 このようにお互いの思想の違いが分かってよかったと思います。なかなかはっきりせず やり取りも長引いたようですから。 これからは このあらたな出発点に立って 対話をつづけることが出来ると思います。
- heart_mind
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ヒキコモリ(オタク)もオシコモリ(ガリ勉)も、子供っぽい性格という 共通点はあるけど、現代にあっては、ガリ勉のほうが社会との接点が強い という性格において大人になれる(つまり社会的負荷の)経験を積む チャンスがまだまだあるので軍配がありそうです。 ただ問題はそこではなく、経済活動は全体の生産性を上げる負荷をおうこと (つまりチャンスを他の人のために広げる)だから、 スポーツのように勝ってよかったね、がんばったね、おしまいでは まだ、子供の世界にこもってる状態ということでしょうか。
お礼
さらにお尋ねしてもよろしいでしょうか? すなわち おっしゃっていることは 或る程度一般的なジョウシキを持つ人なら言うことであるように思うのですが もうそれだけなのか どうかです。 すなわち 趣旨説明の後半に ジョウシキとは別の見方を提出しています。それについて どうお考えになるのか。今回のお答えで もう変更はないのか。なのです。 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~ ちなみに 《引きこもり》の場合は あくまで 時代の・つまり未来社会の先取りである。 現状の社会力学のあり方に対してすでにそれを乗り越えて 将来のコミュニケーションのあり方を見つめつつ 時代を先取りしている。ただし わづかにそれは 今は陰画としてである。 言いかえると ヒキコモリは 未来社会のネガとして いまは生きている。 KY の場合も同じようである。 現状としての社会力学つまりそれとしてのクウキについては すでにそのような人間的交通のあり方を超えてあたらしいコミュニケーションのあり方を先取りして見つめている。現在のクウキなどは あほらしくて読めない。というところがある。 言ってみれば アマテラス普遍語(科学語および人格語)を ただしきわめて訛って 政治(立法)・行政・メディアあるいはその種の企業の世界それぞれにおいてじつは方言として使っている。それぞれの世界の方言をつくって使っている。 KY は その人間的交通のあり方をすでに飛び越えている。そのアマテラス語諸方言は 読めない。読み取れない。読み取らなくてもよいとすでに考えた。 つまり 未来の先取りであり いまはわづかにまだ陽画としては成っていないネガの状態にある。 したがって もしこうだとしたら 《押し籠もり》は このようなヒキコモリをむしろ生んでいる。ヒキコモリへと人びとを促す作用を専門にしている生き方になる。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ つまりは ヒキコモリは 子どもの状態に《敢えて》とどまっているという見方です。それは いまの人間的交通(まじわり)のあり方はお呼びでないと感じ そうではなく 未来のあたらしいコミュニケーションのあり方を――直感として――先取りしている。それをむしろ守ろうとしている。ゆえに 子どもにとどまっているのだという見方です。
- heart_mind
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ご説明ありがとうございます。 でも、まだ正直あまりピンときてないです。 オタクの目的もやはり、自己目的だと思います。 ただ社会構造から逃走しているように見えるので、無目的に近く見えますが。 そして、ガリ勉もやはり、同じように、自己目的が無目的化したものだと 思います。点数やお金は励みにすぎません。 つまり、がんばったね、えらかったね、すごいねっていう、社会的報酬を を数値にして分かりやすくしているだけです。 オタクは、完全にそこから自立というか自閉しているので、栄光も名も 残さない自己満足な趣味の世界の学者や芸術家とみなしていいと思います。 そして、両者の特徴である、無目的というのは、子供の学習態度としては 望ましいあり方ですよね。つまり、好奇心がいっぱいということです。 最近テレビをみていたら、日本人は不安物質というものが高いそうです。 なんだ、やっぱり国民全員、子供で、自閉症っぽいってことで、 ある意味優秀で、ある意味ちょっとだめだなってことみたいなんですね。 だから、社会的負荷を自覚した大人がマクロ的に供給不足ぎみになるん でしょうか。
お礼
そして オシコモリをめぐっては いかがですか?
- heart_mind
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すいません。 たぶん、理解していると思うんですけど、 なぜ、それを批判しているのかが、よくわかりません。 もう少し分かりやすく説明していただけるとありがたいのですが。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★★ ~~~~ 自己目的が動物的自己目的(欲望の充足)、人間的自己目的(リビドーの情動) いづれの場合でも、それを「ガリ勉」と否定しすぎるのは、暴力的すぎると 思いますよ。 ~~~~~~~ ☆ まづ 自己目的は 自分の資本の増殖だと見ます。付加価値を生むという事態です。それを拡大させていく過程です。 ですから そのおカネの自己運動過程の中で 余裕があれば・そしてまたさらなるおカネの自己増殖につながるのならば 《動物的欲望の充足や リビドーの発動》をも取り込む。という行き方ではないでしょうか? これが ガリ勉資本主義だと見ます。 《否定的》な見地からモノを言っていますが ほぼ事実認識だと思います。ただしその定義の内容がじっさいにこれこれの人間に当てはまるかと言えば それは 少し観点が違います。つまりは 上に述べた定義は 類型的に抽象的に捉えたものですので おおよそ筋として当てはまることをねらったまでのものです。 言いかえると 定義はいわゆる一般論であり その意味では必ずしも《否定的》でもなければ 《批判》のために批判しているのでもない。こう思います。 そうして オシコモリというのは そういったガリ勉資本主義の思想を それは いまの社会の主潮なのであるから みなは とうとべと言ったりする。そのとき同時に もはやそれに対する反論はいっさい聞かない。そういう態度のことです。引いているのではなく押しているが すでに心は籠もっている。 それにくらべるなら ヒキコモリの場合は たしかに引いていますが そして事実としてはオタクに籠もってもいますが 心はむしろ開かれている。未来社会へと・という意味は 長い目で見た人間性へと 開かれている。こういう現状ではないか?
- heart_mind
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自己目的が動物的自己目的(欲望の充足)、人間的自己目的(リビドーの情動) いづれの場合でも、それを「ガリ勉」と否定しすぎるのは、暴力的すぎると 思いますよ。 「おさんどん」という機能を、自己目的化してついつい遊んじゃって、 「キャラ弁」つくちゃったら、「ガリ勉」だといったら、それは言い過ぎ ですよね。 今まで極端すぎたという反省は、少なからずある程度の熟年以上の世代は もっていると思いますよ。メディアはいつも極端をあおるけど、だったら たまには極端すぎ批判を極端にあおってみてもおもしろいとおもいますけ どね。
お礼
☆☆(No.3お礼欄) ~~~~ 互いの利益を求める・もしくはほかの人びとの損失にならないようにして自己の利益を求める そうして生活全体をよくしつつ人びとと共生する。これが勤勉であることだとしますと ガリ勉は ≫共存共栄という経済的な目的を第一の目的としまた人生そのものとすることだ≪ と見ます。 ≫そのためには経済的な利益の機会を決して逃さないし そのことをも第一目的とする。そのためにこそ生きている。≪ ~~~~~~~~~~~~~ ☆ このように規定して・つまり《共存共栄ということ およびそのもとでの経済的な利益の追求を第一の目的とする》と規定して 誤解をまぬかれようとしたつもりですが ここから ★ ~~~ 自己目的が動物的自己目的(欲望の充足)、人間的自己目的(リビドーの情動) いづれの場合でも、それを「ガリ勉」と否定しすぎるのは ~~~~~ ☆ と受け取られてしまいましたか? わたしのイメージとしては ガリ勉資本主義者というのは 札束が背広を着ているといったものです。言いかえると アマテラス語を駆使するという点からでも 洗練されてはいるのです。 そうして ★ 動物的自己目的(欲望の充足)、人間的自己目的(リビドーの情動) ☆ これらの欲望とその充足も いづれもすべからく 資本の自己増殖なる運動の中でその自己運動のためにあるという生活態度のことを言います。 ですから ★ 自己目的 ☆ は 資本の自己増殖なる運動そのものとみづからの生活および人生の全体が化すこと。これです。
- heart_mind
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そうでしたか、すいません。 今後の建設的な課題として、キーとなってきそうなコミュニケーション は、やはり、マイノリティの勝ち組とマジョリティの負け組の 和解ではないかと感じています。 (マジョリティの勝ち組とマイノリティの負け組においては伝統的に 解決されているだろうと想定しています。本当はわかんないけど) 両者の組み合わせは、共同体において、マクロ的に、いい結果を もたらさないと思われてきたのではないのでしょうか。 しかし、今後は現実的な視点で克服しなければならない課題かもし れません。 <マイノリティの勝ち組の言い分として> 誰も助けも借りずに自分の力だけで成り上がってきた。 なかよしこよしのアホたちは、努力もせずに、あまえているだけだ。 <マジョリティの負け組の言い分として> 一人で幸せになる価値などあるものか、何のための人生なのだ。 例えば、このような状態の生産性の悪さがあったと仮定して、 それを克服するには <マイノリティの勝ち組> マーケットが冷えているのは、デフレが原因なのは明らかだ。 今後の成長を社会的な負荷なしで考えるのは、長期的にみても 持続可能ではないだろう。 <マジョリティの負け組> コミュニティの為に、正論的に有益であることが明らかな 場合と思えても、否定的な空気が支配している場合は、 一度、肯定的内省の目で疑ってみる試みは、共同体の利益を 考えることに反することと言えない場合もあるだろう。 保守的になる理由が、情緒的理由ばかりだとは必ずしも言いきれないの ではと思います。仮にそれが情緒的だと思えても、情緒には合理性が あります。 犠牲という不備が予め予想される案件は、設計段階の論理矛盾という 不具合を取り除けていない為、それをどのようにメイキングしても、 根本的なアウトラインとして組み込まれている不具合が取り除かれる 道理は見つからないということじゃないでしょうか。
お礼
ううーん。とまづ うなりましたが それは きわめて微妙だと思ったからでした。 ご回答をありがとうございます。 どういうことかと言いますと ひとつに ヒキコモリとオシコモリの対立(もしくは 掛け合いの関係) もうひとつに 社会における勝ち組と負け組との対立(もしくは 住み分けのような関係) これらふたつの座標のいづれとも 微妙にズレているのではないか。こう思ったからです。 ひとことで反応すれば ★ ~~~~ 今後の建設的な課題として、キーとなってきそうなコミュニケーション は、やはり、マイノリティの勝ち組とマジョリティの負け組の 和解ではないかと感じています。 ~~~~~~ ☆ という場合の二項関係は その両者が 思想つまり生活態度としておおむね同じひとつの基礎に立っていると見る場合に限ると思われるからです。 ところが ヒキコモリとオシコモリとの関係は もともと思想が違う。社会においておもに経済的に勝ち負けの組に分かれるその関係も やはり思想が違う。あるいは一般に資本主義という地面は同じだとしても そこに思想的な基礎にかんして断層が出来ている。 ですから 話の前提が違う。これらについて 説明して行きます。 足が立っているその場は 同じ資本主義の自由市場経済であるとしても 一般に生活態度として 勤勉とガリ勉とでは その地面に断層が出来ている。こう考えます。 互いの利益を求める・もしくはほかの人びとの損失にならないようにして自己の利益を求める そうして生活全体をよくしつつ人びとと共生する。これが勤勉であることだとしますと ガリ勉は 共存共栄という経済的な目的を第一の目的としまた人生そのものとすることだと見ます。そのためには経済的な利益の機会を決して逃さないし そのことをも第一目的とする。そのためにこそ生きている。 勤勉と 勤勉を自己目的としたガリ勉とです。そしてそこには 断層が出来ている。両者は同じ地面に立っているけれども 思想において必ずしも地続きではない。最少の費用で最大の効果を上げるという資本主義の方程式をすでに観念としても生活形式としても身につけたガリ勉の場合 どこか地面から浮き上がっている。 そうして ガリ勉の成功には さらにいろんな意味での政治的なチカラも作用している。社会力学上の優勢なチカラに寄り添いその流れに沿って動く。その意味では 一階の生活文化とは一たん切れたお二階さんの権力や権威と《提携》し《協力》しあっている。ゆえに この一階二階という意味での断層も出来ている。 ヒキコモリは いますでに遥かな未来に目を馳せ このようなガリ勉資本主義による社会の先導をきらっている。そうではないのだよというのが オシコモリです。そしてオシコモリは ★ ~~~~~ <マイノリティの勝ち組の言い分として> 誰も助けも借りずに自分の力だけで成り上がってきた。 なかよしこよしのアホたちは、努力もせずに、あまえているだけだ。 ~~~~~~~ ☆ とも言うでしょうね。つまり ヒキコモリ側から言わせれば このとき《努力》の仕方が カテゴリとして違って来ている。断層が生じている。ということだと考えます。 ヒキコモリ派は ガリ勉主義なる思想をわが身には押しつけることが出来ない。その出来ないという能力がある。自然本性においてそなわった能力によって ガリ勉思想を身につけることは出来ない。ゆえに 断層があります。地続きではないのです。 いわゆる負け組は つねに誰れもがヒキコモリになるわけではありませんが おおむねヒキコモリと同じように考えていることになると思われます。つまり 籠もっているわけではなく ふつうに働いていますが ガリ勉人生に籠もって行く生き方には その能力によって就かない。 ガリ勉主義者のあいだでも 勝ち組と負け組とに分かれる場合については 触れません。放っておきます。 ガリ勉主義という思想は 言わば象徴の世界に生きているのだと思われます。アマテラス普遍語――ないし実際にはそれが方言化したアマテラス語ですが――の世界に入って生き その象徴を経済活動なり政治活動なり文化活動なりの分野で生きる生き方として身につける。そうしてあとは その象徴を押し抱き 自分からはそれを擁護する発言を活発に押しすすめ じつは籠もりつづける。押し籠もり。 ただし 問題はあって 資本主義は 法人資本主義が経済を先導するという意味で基本ですから いま述べたような個人としてのガリ勉が どこまで 人間の思想としてあり得ているかは これも微妙なところになるかと考えます。つまり 個人としてガリ勉になるというのではなく やむを得ず組織の永続のために組織人としてそうするという側面があると思われるからです。 こう見てみた場合には たとえば ★ 犠牲という不備が予め予想される案件は、 ☆ うんぬんと言っても この《犠牲》は 初めに想定されているのではなく あくまで結果として出るものだと考えられます。 あるいは ★ ~~~~ <マジョリティの負け組の言い分として> 一人で幸せになる価値などあるものか、何のための人生なのだ。 ~~~~~~ ☆ この言い分についてみて 微妙に違う感覚を持つのですが どうでしょう? マジョリティの負け組は うらやましいという気持ちは 生活水準としてあっても 生き方としてはないのではないでしょうか? ですから マイノリティの勝ち組に対して・その言い分に対して 真っ向から言い返すというような応答をするとも思えないのです。持ち前の人間の能力によって そのような勝ち組の生き方にはならないのですから。 マジョリティの負け組は すでに自分自身の心のあり方としては 世界と和解していると思いますよ。 個人的にいろんないざこざや恨みつらみはあるかも知れませんが 思想としての迷いはないと思うのです。 ゆえに ヒキコモリに対して オシコモリなる社会現象はじっさいに起きている。と見ますが いかがでしょうか?
- heart_mind
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押しこもりの、例になるのかどうかわからないけど。 「大衆を扇動しようとする力学」のようなものには、個人的には少し懐疑的 になります。 最近のメディアや、橋本氏がいい例になりますが。 賢人と呼ばれる専門家がいつも全て正しい見解をだせるとは思いませんが、 そうかといって、ことを実感している大衆がいつも正しいわけでもない とも思うのです。 教育に保護者の生活感や企業家のマネジメントを持ち込んでいいのかという ような話でいうと。 昔の話ですが子供会というコミュニティ団体が教育に口をだしていた時代に、 大きな自然科学の世界観をもってるんだけどちょっと世間離れした理科の先生 がいて、保護者の大衆の圧力に負けて学校を去っていったという苦い思い出が あります。子供の方はただ無力だった。本当になんていったっけ、あの映画に そっくりだった。逆に迎合するいやな感じのタイプが受けがよかったりして。 そうなっちゃうと、魚屋や農家の子供には音楽の単位を免除しろとか、そういう 話になりかねない。大きな理念や理想はしだいに軽視されていってしまいます。 市場価値や大衆の意見が反映されるべき場面と、そうでない場面というのは、 難しいけど、適格でないとあまりよくない結果をまねいてしまいます。 ちょっと、ずれましたか。
お礼
はあとまいんどさん ご回答をありがとうございます。 そうですね。 しょうじきに言って 個人の問題にかぎれば オシコモリからはズレたかも知れません。 橋下徹が 弁護士か知事・市長かあるいは維新の会の主宰者であるかどうかにかかわらず その発言したことに対して批評や批判が寄せられたとき それに答えるかどうか これが オシコモリであるや否やを決めます。半鎖国状態であれば 押し籠もりだと見られます。 極端に言えば 《扇動》的な発言であっても それに対する批判にきちんと最後まで答えて 人びとを納得させ得るならば 人間とその社会にかんする限り 問題ないとして通って行くかと思います。 このように個人について言うのが 基本ですが ただしそこには 付随する側面があります。 なぜかと言うと オシコモリの場合は いくら発言しても批判に答えないどころか 相手の言うことは 自分の主張に合っているもの以外は 取りあわないという状態なのですが もしそのようなことが実際に起こるとすれば――起こると見ているのですが――それは 現行の社会力学上有力な勢力に乗っかっていると考えられるからです。一般に社会全体としてなら お二階さんの勢力下にあるということでしょうし コミュニティや職場などの小さい範囲の社会的な集まりとしても 権限関係の上からその言わば社会的な磁場を作り出して行く側に身を置いているという側面 これがあるからだと推測されるからです。 〔あるいは 別様に捉えるなら 学問上の定説をつねに持ち出したり道徳規範をつねに言っていたりして それ以上・それ以外のことは言わないというような場合もあるかも知れません。哲学ならそこから――つまり広い意味での常識から――出発するはずなので しかもその《はず》ゆえに だからあんたは どう考えるのかといったように自分自身の判断はどうかと尋ねられても いっさい答えない。相手にしない。こういう場合も オシコモリだと見ます。〕 で その前の《社会における力学上の磁場をかたちづくる勢力の下にある・あるいはつまりクウキの流れに棹差す》といった側面が 個人の姿勢や態度のほかに付随して来ますので そう考えると たとえば ★ コミュニティ団体 ☆ の事例は 広い意味でのオシコモリの類型だと見られるかも知れません。 ★ ~~~~ ・・・大きな自然科学の世界観をもってるんだけどちょっと世間離れした理科の先生 がいて、保護者の大衆の圧力に負けて学校を去っていったという苦い思い出が あります。 ~~~~~~ ☆ というように行動が起きたら その起きたままに放りっぱなしにしておくというところが オシコモリつまり半鎖国状態に当たると思われます。 話し合いをせよ どこまでも対話をつづけよという問題なのですが――けっきょくはそうなのですが―― ヒキコモリ擁護論の一環として じつはヒキコモリを起こすのは オシコモリがのさばっているからだという社会時評のようなものです。その当否をたずねています。
お礼
これはこれは ここまで賛成の一票を投じてくださるとは まだまだ早いと思っていましたので ぎゃくに少々面喰ったほどでした。それに 質問を挙げてから二日も経っていますので そろそろ引き上げようかとも思い始めていたところです。 くつるつむどさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。じつは ヒキコモリやニートは 社会が原因で起こる現象だとか KY は 未来社会の第一歩だとか そういう見方はすでにして来ていたのです。ここでは 《押し籠もり》 これがあらたな視点です。 これを 打ち出したいと ふと思ったものでした。 お一人でも賛同していただけるなら さらに推し出したいとも思うのが 人情のようで わたしもその例に漏れないみたいです。つまり うれしいです。 【Q:ニート・引きこもり・あるいはうつなど精神の傾向は ふつうの社会現象であるに過ぎない。】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6242183.html 【Q:KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6117420.html ★ そうですね。とても興味深い考察、楽しんで読ませて頂きました。 ☆ いえいえ。でも 《楽しんで》というところが いちばん うれしかったです。 ★ 押しこもりは引きこもりを醸成する苗床…という意味に感じました。確かに全ての場合においてそうかはわかりませんがわかります。面白いですね。 ☆ たしかにおっしゃるように 《苗床》だと思います。まだまだ にわか仕立てだったのですが 行けそうだと思いつつあります。 ★ 確かに全ての場合においてそうかはわかりませんがわかります。 ☆ ここんところは さらに詳しく規定して行かねばなりませんね。 ★ クウキに関してはアホらしくて読めない…確かに人間成長の機会を促す事も有るので全てがアホらしいと言ってしまって良いか?はわかりませんが ☆ ここも同じくですね。精確にですね。 ★ コミュニケーションやクウキに関して日本ではちょっと偏りのある場合(利己的な都合上必要とされる)が多く感じられる気がしますがいかがですか。 ☆ おおよそその特定の場ごとに ボスはいると思います。在席していなくても そのボスの意向をになった人物がいると思われます。そして しばしば自分の都合が どこまで通るかに挑戦していると見えるほど 厚かましい場合もあるようです。 そこで こう規定しています。 ○ (アマテラス-スサノヲの連関制) ~~~~ 1. 一般に《上司( A )-部下( S )》の関係を アマテラス( A )-スサノヲ( S )連関と言う。 2. 社会の成り立ちとしては 一階スサノヲ市民圏‐二階アマテラス公民圏 の連関制である。 3. この《一階‐二階》の連関制に似せて 職場などなど仕事や生活の場で 上下関係がかたちづくられている。 4. 一般に《お上意識》が 人びとの思いや考えを覆っていて それこそが クウキとしてそれぞれの上下関係の枠組みを成している。 5. A‐S 連関制とは 心的現象としては一般に《ガミガミ電波‐アース役》の関係である。アマテラス役の者は 往々にして 自分の腹の虫の居所にしたがって その意識の排泄をおこなうかのごとくである。アース役はつらいよと 寅さんでなくても 言わなくちゃならない。 6. やがて アマテラス公民圏は みづからすすんで 主権の存するスサノヲ市民圏に 大政奉還を申し出て来るのではないか? もうじゅうぶん好きなようにあそんだのだと思います。千五百年ほど。 7.・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~ こんなことを考えてみています。 いい人もいると思いますが なにせこのクウキなる社会力学は 個人の自由なウゴキをゆるすかどうか。微妙だと思います。 決して 文書や行動でよくないことを言ったとかおこなったとかではない場合も多いと思います。それが クウキによる事の運びでありましょうから。したがって このわれらが日本の社会は クウキという観念の運河が 掘りめぐらされ 縦横無尽に張りめぐらされている。のではないでしょうか。つまり アマテラス圏発行の――見えない――《我れはクウキに従う》という通行手形が必要である。必要であった。 これまでこのクウキ文化――あえて こう言いましょうか――を推進するのは ただアマテラス公民なのだと思っていましたが スサノヲ市民のあいだにも この《押しこもり》なる現象によって 《〈伝統〉を守る》人びともいるのではないか? こう思ったのが この質問です。 ありがとうございました。