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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:狭い門からはいりなさい)

狭い門からはいりなさい

このQ&Aのポイント
  • 信仰に励んでおられます幸いを知る皆様.こんにちは.狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。この文を読んで,なにか深い意味があるのではないか.あるいは、広い門と狭い門は、ひとつの分岐点に両方があるわけではないのではないか,とか考えるところがあって,構図がはっきりと掴めません.しかし人間的に可能なことであるからこそ,書かれているのだと思うのです.稀ではあるけれども,決して不可能ではない狭い門は、如何にして可能であるのか.教えてほしいのです.
  • 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。この文を読んで,なにか深い意味があるのではないか.考えるところがあって,構図がはっきりと掴めません.しかし人間的に可能なことであるからこそ,書かれているのだと思うのです.稀ではあるけれども,決して不可能ではない狭い門は、如何にして可能であるのか.教えてほしいのです.
  • 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。この文を読んで,なにか深い意味があるのではないか.あるいは、広い門と狭い門は、ひとつの分岐点に両方があるわけではないのではないか,とか考えるところがあって,構図がはっきりと掴めません.しかし人間的に可能なことであるからこそ,書かれているのだと思うのです.稀ではあるけれども,決して不可能ではない狭い門は、如何にして可能であるのか.教えてほしいのです.

質問者が選んだベストアンサー

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  • cincinnati
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回答No.6

広い門はその大きさ故に、誰でも通過することが出来る門ということで、比喩的に述べているのですが、多くの人が簡単な道を見た目で選んでしまうということを述べていると思います。一方狭い門は、これも比喩でイエスキリストを選択するということは一見入るのが困難な道で、そのような生き方を選ぶひとは少ないと述べていると思います。 人生の多くの地点で、ある意味で毎日私どもはこのような選択をしなければならないY字路に立っていますが、狭い門は実に狭いもので、多くの人が見落として居られるというのも現状と言えると思います。 >稀ではあるけれども,決して不可能ではない ≪狭い門≫ は,如何にして可能であるのか.教えてほしいのです。 実は「狭い門」は見かけは極めて狭いのですが、そんなに困難な道ではございません。有名な話ですが、ある猿がビンの中の木の実をとろうとして手を入れてつかんで取ろうとしましたが、握っている手が邪魔をしてビンから手を抜くことができません。どんなに努力しても、木の実を握っている限り抜けません。狭い門をはいるのも同じです。あなたはいま背中に大きな袋を背負っておりますが、あまりにも多くのものを背負っているので、袋が邪魔をして門を通ることができないのです。袋の中にはあなたの計画や、希望や、将来の成功などで詰まっております。その内で最も大きなものはあなたが神無しに自由に生きたいという自我です。 猿がビンから手を抜くことが出来るひとつの方法は自分で欲しいと思っている木の実を離すことでした。あなたが狭い門を通る方法はあなたがもって歩きたいと思っている袋を門の外に捨てることではないでしょうか。聖書はあるいはイエスの言葉は逆説に満ちております。あなたが自我を捨てるとき、あなたは本当の自分を回復する一歩を踏み出します。自分を苦しめているのは実は自我だということを聖書は教えてくれています。 個人的な経験で申し訳ございませんが、この回答者も狭い門を通るときにすべてのものを捨てたつもりでしたが、その後に気がついたことは、捨てたもの以上のものが自分に返って来たことでした。以前は腐って滅びてゆくような心でしたが、今は意味と意欲をもった新しい心が返ってきました。虚無的な将来しかなかったものに、辛いとか悲しいとか自分に問う必要のない日々に毎日がかわりました。なにはなくても毎日平安がある人生と、目的もなく不安だらけの毎日とどちらが良いかは明白です。 聖書に以下のような言葉があります。 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしが あなたがたを 休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイによる福音書11章28~30節) ご自分の自我や、ご希望を神様にあずけることは出来ますでしょうか。求めなさい、されば与えられるであろうと述べています。そのイエスに人生を委ねることが出来ますでしょうか。もしイエスがご自分の人生を引き受けて下さると信じたならば、お祈りができなくても、聖書の言葉を全部知っていなくても、あなたは狭い門をすでに通り抜けております。神様を抜きにして自由に行きたいと思っているときに自我の奴隷となり不自由に生きてしまっていますが、この瞬間からあなは自由を取り戻すことが出来ます。 聖書にある通り、「真理はあなたがを自由にする。」という言葉どおりです。回答者はイエスキリストの回し者ですが、どこかの教会の回し者ではございません。それでもお近くのプロテスタントの教会にて牧師とお話をされますよう期待しております。

noname#150036
質問者

お礼

ありがとうございます. 数年前,ある牧師さんから,助手やってみないかと誘われ, あっさりと断ってしまったことがあります. そのときに『真心の受け渡し』という奥義を伝授された のですが,何度やってもうまくできません. ボクは雑念が多いので真心が隠れているようなんです. その雑念の多さゆえに,狭い門を通れないでいるのかも しれません. 回答者様のロジック的な解説を拝読しているうちに 牧師さんを思い出しました. とてもなつかしい感じがしました.

その他の回答 (5)

回答No.5

 こんにちは。  なかなかはっきりしないとまづ思いました。  それは 具体的な生活におけることがらについて語っていると受け取れてしまうからです。人が経験しうることがらについて どういうおしえを示そうとするのか? これは なかなか そのまま受け取ってよいものか迷うと思います。  もし比喩として語っているとすれば あくまで《すくい》は 人間の力や努力によって成るものではないことは 明らかだと思います。努力に応じてすくわれるというのではない。これが 基本だと考えます。  ▲ (ヨハネによる福音書 / 3章 8節)  ~~~~~~   ・・・風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」  ▼ (パウロ:ローマ書9:11-18) ~~~~~~~  その子供たち(双子)がまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、    「兄は弟に仕えるであろう」(創世記25:23)  と〔母〕リベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行ないにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。    「わたし〔=神〕は〔弟の〕ヤコブを愛し、〔兄の〕エサウを憎んだ」     (マラキ書1:2-3)  と書いてあるとおりです。  では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。 神はモーセに、    「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を    慈しむ」(出エジプト記33:19)  と言っておられます。 従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ といった《恩恵》の問題だと考えられます。  でももし具体的なおこないにかかわって語っているとすれば どう受け取るのか。  ルカの並行記事を参照してみました。  ▲ (ルカによる福音書13:23-30) ~~~~  23節:  すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。  24:「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。  25: 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。  26: そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。  27: しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。  28: あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。  29: そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。  30: そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうなのでしょう。考えるにですが:  (1) 狭き門と広き門との対比として捉えるよりも 単純にすくわれる者が少ないことを言っていましょうか?  (2) そして 失望することなかれと つけ添えているでしょうか?  (3) たとえば  ▲(ルカ13:25) 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。  ☆ というようにすくわれることは むつかしいと述べていますが ぎゃくに次のようにむつかしくないと言ってのぞみを持つようにとも語っています。  ▲(マタイによる福音書7:7-8) ~~~~  7節 : 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。  8:だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは どうしたものか?  (4) 困ったときには 先に触れた恩恵説にのがれてしまいますが どうしたものでしょう?  (5) 次の一句に注目しました。  ▲ (ルカ 13:30): そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」  ☆ どうなんですかねぇ。これなら むしろ失いかけたのぞみを取り戻し勇気をあたえてくれるように思いますが。・・・  (6) あとは すくわれることのむつかしさをうたがうことではないでしょうか? めぐみにゆだねているなら だいじょうぶだということではないでしょうか?  おそまつでした。

noname#150036
質問者

お礼

ありがとうございました. やはりなにも見えてこない気がしました. 神は不可知ということで. いろいろとお世話になりました.

  • MOG777
  • ベストアンサー率14% (20/139)
回答No.4

情報を削ぎ落とすから言葉は便利なわけです。 ですから、誰の言葉であろうと言葉のみを解釈することは無駄しか生みません。 キリストの言葉を理解するには、キリストを理解しなければなりません。 キリストを理解するには、当時の社会や慣習を知らなければなりません。 そうなると、素人にはお手上げになります。 しかしながら逆に言えば、それは自己の思考と判断を過信する陥穽を免れることでもあります。 難しいことを考えず、自分の体験により言葉が腑に落ちるまで待つことは大切です。

noname#150036
質問者

お礼

ありがとうございます. 待つことも大切だと思いました. いいかえると,不便さも大切だと思いました.

noname#207138
noname#207138
回答No.3

こんにちは。 これはキリスト教の言葉ですから、キリストを信じて生活してはじめてある程度解る言葉なんだと思います。 他の宗教を信じていても、似た様な事を教える宗教はいくつもありますからニュアンス位は解るかもしれませんし、宗教に限らず世間の荒波を生きる人でもニュアンス位は解ると思います。 しかし、「狭ければ良いというものではない」と思います。 狭ければ良いのであればハーバードとかオックスフォードとかMITとかを主席で卒業した人がそれですから、一目瞭然です。 しかし、キリストの生前、同じ様に当時のエリート層を指して「あなたたちは天から遠い」と言っていますし、もっと酷い事も言っています。 ニュアンスが解るという事と、真実解っているという事は違うと思いますし、頭で解っていなくても魂で理解しており、その通り行動するという意味で理解している人も居ると思います。この場合本人に言葉で問いつめても解っていないので他者からしてみれば頼りにならない凡人ですが、そこらへんの知識的達人を遥かに超えて理解していると言えると思います。 とどのつまり、他人にも本人でさえもそれを理解しているかどうか解らない場合が多いのではないでしょうか。 さらに、キリストは「金持ちが神の国に入るよりはらくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と良い、それじゃ不可能だ!と周囲に居た人が答えた事に対して「人間にはできないが、神には何でもできる」と答えています。 ここから導きだされる答えとしては、「人間には不可能」な事なのです。 神を信じてその助けを得ろという意味なのか、自分が神である事を自覚しその神性を活かせという意味なのか、両方か、はたまた全く別の意味か。 とにかく「人間には不可能」であると明言されています。

noname#150036
質問者

お礼

ありがとうございます. ボクには不可能な気がしてきました.

回答No.2

狭い門とは、困難な道を指し示し、広い門とは、安易な道を示しています。 人は誰でも安易なことに流れてしまいますが、その結果が良いことは稀です。 いのちに至る門とは、キリスト教の場合はイエスの示した道を指します、 イエスのようにあえて困難に身をおくことが、よきキリスト者であると言っています。

noname#150036
質問者

お礼

ありがとうございました. あまりに人間的なボクには,よくわかりませんでした. ボクはキリスト教にむいてないのかもしれません.

  • kqueen44
  • ベストアンサー率43% (530/1214)
回答No.1

Webというずいぶん「広い門」で御質問されましたね。 Webから入る人は多いです。その道も広いです。門も大きいです。 狭い門を見つけるために、広い門から入るのは危険だと思われます。 門の見え方もまた人それぞれなのではないでしょうか。

noname#150036
質問者

お礼

ボクは動物柄が大好きです.

noname#150036
質問者

補足

ありがとうございます. 仰る通り,Webには危険がつきものだと訊きました. それは見知らぬ大衆であるからだと思います. また,知り合いが集まった大衆であっても,多数決 という危険がつきまとうものでもあると思うのです. そうすると,≪広い門≫ は,大衆によって開かれた門 であり,大衆によって踏み固められた強固な道を意味する のではないかと思ったりもします. ボクは大衆のなかに生まれた人間的な人間であり,発想が とぼしいので,≪狭い門≫ は,痩せた人だけが通れる門 という印象をうけたのです. ボクの発想は まちがって おりましょうか?

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