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イエス・キリストの規約違反
- 新約聖書でキリストの言動を調べてみました。どれが最大の問題ですか。
- 魚をとるよりも人を釣りなさい、と弟子をそそのかしました。誹謗中傷の投稿もあります。
- 自作自演のベストアンサーが多く見受けられます。福音書のマルチポストも問題です。
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plapota様、面白いご質問をありがとうございます。 >どれが最大の問題ですか。 ⇒私にとって最大の問題、といいますか、最大の関心部分はマタイ福音書の23章ですね。 (1)マタイ福音書は新約の最初であるということもあって、よく引用されます。例えば、5章(失望した時)、6章(不安や心配ごとがある時)、11章(疲労困憊した時)、26章(試練・苦痛・病気にさいなまれる時)、などなど。 (2)問題のマタイ伝23章、このわずか100行足らずの中に、同じ語句「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである」が7,8回出てきます。いずれも、パリサイ人たちを非難するくだりです。 (3)上の訳は「日本聖書協会」からの引用ですが、同じ箇所が「国際ギデオン協会」訳では、「忌わしいものだ。偽善のパリサイ人たち」となっています。また、英語版では、"Woe to you, scribes and Pharisees, hypocrites!"「呪われよ、偽善者の律法学者およびパリサイ人たち!」であり、スペイン語版では、"Ay de vosotros, escribas y fariseos hipócritas, que ..."「汝ら(…するとは)哀れなるかな、偽善者の律法学者およびパリサイ人たちよ」などとなっています。微妙な違いが見られます。 (4)微妙なニュアンスの違いはありますが、共通していることは、いずれもパリサイ人を非難していることです。しかし、肝心なパリサイ人からの反論の類は一切ありません!(もっとも、ユダヤ教側の弁明を収録しては、そこから抜け出して自立するための動機・理由を薄めてしまうことになりかねませんから、「敵に塩を送る」ようなことはしなくて当たり前てとこでしょうか。) (5)ところで、英語の"scribes"、スペイン語の"escribas"はともに、原義的には「筆耕」です。つまり、彼らはもっぱらユダヤ教の律法の「写経」を業としていたわけですよね。その筆耕者が「ついでに」神官・律法学者を兼ねたわけで、ここに保守的にならざるを得ない側面があります。 (6)因みに当時の律法は度重なる改定がなされたようですが、その都度新しいものが加えられるのに、対応する古い部分は破棄されすにそのまま残っていった結果、ものすごく煩雑なものになったらしいです。これをバッサリ切って単純化したのがイエス・キリストの功績だったわけで、彼は「単純化の名人」とも言われますね。 ある哲人は、古来、世界を刷新し、一変させた人を「世界史的個人」と呼び、その人たちに共通することは「単純化の名人」だったことである(とのことです)。 ところで、聖書はよく「永遠のベストセラー」と言われますが、無神論・脱宗教傾向の進みつつある今日、今後のそのベストセラー現象は続くのでしょうか? 以上、雑感風ご回答まで。
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- Nakay702
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再度の「お礼コメント」をありがとうございました。 「白ヤギさんと黒ヤギさんのお手紙」のような感じになってきましたが、1つだけ、お答え申しあげます。 >>くだんの哲人によれば >???だれですか。ぶらげろさんではありませんね。 ⇒確かにぶらげろさんは哲学に詳しい方とお見受けしますが、その方ではありません。 実は、スペインの生んだ、かの有名なオルテガです。クルティウスというドイツの評論家によれば、オルテガは近現代の4大哲人の一人だといいます。それは別としても、私はオルテガのファンでして、彼の「生-理性主義」が大好きです。 ≪「生-理性主義:理性は生の一形式、一機能に過ぎず、それ以上でもそれ以下でもない。"Cogito ergo sum."「我思うゆえに我あり」でなく、"Cogito quio vivo."「我思う、生くるがために」なのだと主張する。生を非合理的な混沌の支配に委ねる発想を論難する一方、生に対する理性の優位性・絶対性を主張する理性主義を批判し、純粋理性は生きた理性にその席を譲らねばならない、とする。「生-理性」の立場の体系としては、存在論として環境の理論を傘下に持ち、認識論として遠近法主義を理論武装の道具として持つ。神が人間を通して見せる「絶対的真理」の把握がその課題であると自覚する。(J. Ortega y Gasset, "Tema de nuestro tiempo", Alianza Editorial,1923. 井上正訳『現代の課題』白水社、1970年。高橋徹編著『マンハイム オルテガ』中央公論社、昭和54年 など参考文献多数)。≫ またまた、当初のご質問からそれてしまいましたね。 plapota様は、いつも柔軟に対応してくださるのでありがたいです。しかもそのご対応がどこか暖かく楽しいものですから、ついつい我田引水したり、余計なところまで波及したりしてしまいますが、「ご無用」の節は、どうぞ悪しからずご寛恕くださいますように。 以上、再々伸まで。
お礼
ぶらげろさんは、冗談です。先日Nakay702さんとぶらげろさんとのやりとりを拝見して笑つたものですから。オルテガには、しばしば言及なさつてゐますね。不勉強な私は1冊も読んだことがありません。 >生を非合理的な混沌の支配に委ねる発想を論難する一方、生に対する理性の優位性・絶対性を主張する理性主義を批判し、純粋理性は生きた理性にその席を譲らねばならない、とする。 このあたりは、ちんぷんかんぷんです。ふだんNakay702さんが投稿なさる内容からは、いつも納得できるものを感じます。 私は限定された答よりも、広い視野からの見解を希望してをりますので、今後も御指導よろしくお願ひいたします。ありがたうございました。 OKWaveの「そう思う」「そう思わない」「ありがとう」「ベストアンサー」などは、Q&Aの邪魔になるだけで、なくしてほしいのですが、運営側からすれば、広告獲得のために必要なのだと思ひます。ボタン件数はテレビの視聴率のやうなものです。単純締切よりは、BAによる解決のほうが、サイトの見栄えがよくなります。サイトを利用する以上は、運営に協力する意味で、「そう思わない」以外はどんどんクリックして、すべての質問でBAを決めてゐます、キリストにならひて。
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10004/12512)
「お礼コメント」をありがとうございました。 >御回答ありがたうございます。gooではあひかはらずスペイン語の質問にまともな回答がつきません。 ⇒そうですか、gooではそんな状況ですか。ヤフーの方はどうなんでしょうね。 私は、OKWaveの社長さんが何となく好きです(会話を交さないまでも、どこかでお顔を拝謁したことがあるように感じてます)ので、もっぱらこのサイトを見ております。 >マタイ23章はたしかに過激な表現で満ちてゐます。一字一句まちがひがないやうに律法のコピーを手書きで作るのは並大抵のことではありません。仕事といつ てしまへばそれまでですけれど。他の古典作品とは比べものにならないくらゐの正確さです。仕事に自信をもつのはよいことですが、イエスの非難の言葉からす ると、慢心があつたのかもしれません。法よりも人間が大切であることを忘れてしまつたのでせう。 ⇒マタイ23章24節に、「盲目な案内者たちよ、あなたがたは、ぶよはこしているが、らくだはのみこんでいる」とあります。これだけ見ると、「何のこっちゃ」ですが、英文("Blind guides, who strain out a gnat and swallow a camel!")を見ると分かってきますね。といいますか、「はは~ん、あれと関係あるな」ということに思い当たりますね。すなわち、"Strain out a gnat and swallow a camel."「大事を見過ごして小事にこだわる」です。 ところで、勝手ながら我田引水させていただいて、「律法の煩雑化とキリスト教出現の関係」をひとくさり。 紀元前2世紀以前、ギリシァ人は「理性」に、ローマ人は「法と国家」に、ヘブライ人は「律法」に依存して安寧に暮していたという。ところが前1世紀頃の地中海周辺世界は、法や律法の肥大化による「文化的繁茂」の中に溺れるようになる。つまり、時の人々は、いわば情報過多症を患って、その中で自己を喪失してしまう。法や律法は慣習の一つなので、新しい部分が付け加わったからといって古い部分は必ずしも整理されない。従ってそれが文化の過剰な繁茂を引き起こし、機械的に「大衆に注入」されるようになる。大衆は、ある種不感症ないし判断中止の人となって、ただ呆然自失する。地中海周辺の諸国家・諸文化間の差異は水平化し、ガリアからメソポタミアに至る地帯の文化が等質化する。交戦・道路建設・支配・交易などが同質化を促進する触媒となっただろう。 くしくも、このような危機の様相が瀰漫し、人々が心の平安を渇望し、神々が一元化する途上に出現したキリスト教は、実に時宜を得た登場であった。しかもそれは、パウロらの努力で、「愛」を基本に据えて万人受けする形態に成長する。古代ローマ帝国は、属州に対して、当初ユピテルなどのローマ神と皇帝を崇拝するよう強要したが、諸地域の反抗、各種密教の存在及びそれらとの習合現象などによって譲歩を迫られ、両者を縫合した太陽神の崇拝に切替えた。すなわち多神教が一神教化したわけで、このことが結果的にキリスト教に道を開いていくこととなる…。(お粗末) >>「単純化の名人」とも言われますね。 >おもしろい指摘です。特に食事制限に関する律法は好ましくないと思ひます。青魚や豚を食べてはいけない、といふのは流浪の旅のときならともかく、定住生活であれば問題ないはずです。 ⇒まったくおっしゃるとおりだと思います。「○○を食べてはいけないという理由は何ですか?」と尋ねたら、何と答えるつもりなんでしょうね。 またまた我田引水して、「単純化の名人」について敷衍させていただきます。くだんの哲人によれば、近代以前の「単純化の名人」はイエスとデカルトだといいます。 法や律法の肥大化による文化的繁茂の中で、イエスは明快な単純化を実行した。ただ一言、「信じる者は救われる」と。使徒パウロはさらに激化する。「錯綜した律法を棄て去れ!」。この単純化は、キリスト教普及の第一の要因であった。文化的繁茂の中で溺れる人々にとって、それはまさに救いそのものだった。一方、古代末期に、地中海の西側諸都市において、ユダヤ神学とギリシァ哲学とを結合する試みが展開し、イエスと同時代のフィロンがこれを頂点に押し上げた。「ヘレニズム的なロゴスの媒介によって、ヘブライズム的な神が世界を創造し、神自身が世界に啓示される」。この折衷主義の業績がキリスト教普及の第二の要因であった。また、使徒パウロが、「キリストの福音はユダヤ的律法を条件とせず、それゆえ、人種・社会の差別なく全ての人に伝えられねばならぬことを確信した」時に、キリスト教の普遍性は確認され、保証された。この、異邦人・異教徒への布教が、キリスト教普及の第三の要因であったと言える。 「単純化」。イエスの、「必要なことは信じることのみ、信じる者は救われる」といった言行や、デカルトの、例えば、物心二元論などにうかがえるように、確かに両者とも単純化を行った。後者の場合、「普遍数学」や「誇張懐疑」などに象徴されるように、その方法論の全体を単純化の思想が貫いている。もちろん、両者とも、時代の要請やその背後にある状況を止揚し、吸収した上での単純化であったに違いない。それゆえにこそ、時の人々の苦悩に対する解答になり得たのではないだろうか。その証拠に、イエスは「信仰のあり方を人々の口に合うように調理」し、デカルトは「思想を合理性に還元」して、「文化活動の焦点を当面の現実に求めた」のであった。 デカルトは、もはや信念の役を果たさなくなったカトリックの教義に変更を迫る姿勢など微塵も示さなかった(示せなかった?)。かといって、無視もしなかった。ただ、おそらく気乗りしなかったであろう神の存在証明(本体論的証明)は、その詭弁性ゆえ、後年カントによって完膚なきまでに論破されることとはなったが。ともあれ、目前の問題について、当事者に改革を迫ることも、それを等閑視することもせず、それに対する回答を含み込むように配慮しつつ、「単純化」をキーワードとする独自の理論体系を創造した、と言えるだろう…。(またもや、お粗末) >>無神論・脱宗教傾向の進みつつある今日、今後のそのベストセラー現象は続くのでしょうか? >私は続くと思ひます。内容がおもしろいので。 ⇒なるほど、そうかも知れませんね。 ところで、聖書に手を置いて、「真実を述べることを誓います」という、あの習慣はちょっと羨ましい部分があります。我々は仏典や般若心経にそれほどの信頼や信仰心を寄せていませんよね。 以上、(ご質問から離れまして恐縮ですが)再伸まで。
お礼
追加回答、感謝してをります。gooは400字制限があつて、お礼のことばを書かないこともしばしばです。ヤフーは利用したことがなく、状況はわかりません。人数が多いので、それなりにレベルの高い投稿があるのではないかと推測はします。誹謗投稿もこことは比較にならないくらゐ多いといふ話もききます。OKWaveは社長やスタッフと会話ができるのが、良いところだと思ひます。 >ギリシァ人は「理性」に、ローマ人は「法と国家」に、ヘブライ人は「律法」に依存して安寧に暮していたという。 このくだりは、興味深く拝見しました。文化の大衆化、均質化による流れに好都合なやうにしていつたのですね。時代に合つてゐた、もしくは時代の流れをよんでゐた、といふことなのでせうか。 >くだんの哲人によれば ???だれですか。ぶらげろさんではありませんね。 >近代以前の「単純化の名人」はイエスとデカルトだといいます。 大衆化したなら、なほさら必要です。いくらか誤解をまねくやうであつても、簡潔なのが受けいれられやすくなります。ただし、その危険性は常に認識しておく必要はあると思ひます。 貴重な御意見をまことにありがたうございました。
- aiarukame011
- ベストアンサー率0% (0/8)
4・4人ともイエス存命中の直弟子でない点ですね。
お礼
福音書の著者については、諸説ありますね。伝統的には「マタイ」「ヨハネ」の福音書は、「存命中の直弟子」となりますが、高等批評支持派は認めてゐません。私としては、伝統的な見方でいいのではないかと思つてゐます。 参考URLの意図がわかりませんでした。松岡繁さんはどなたなのですか。 御回答ありがたうございました。
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
面白いご質問ですね。みんな、いけないことのようですね。ここで聖書が削除されている理由が分かりました。
お礼
御回答ありがたうございます。最近は、教えて!gooへの投稿が多く、OKWaveの質問は久しぶりです。 古い聖書翻訳に書いてある言葉が、最近のものには見あたらないことがあります。これは、写本の異動を精査した結果なのではなく、運営が削除したのですね。
- catpow
- ベストアンサー率24% (620/2527)
最大の問題は、イエス・キリストの教えというか、行動について、教会組織運営を上手くするため、あるいは政治的に利用する時、都合の悪い教えを聖書編纂のときに、捨て去り、「異端の教え」として排斥したことだと思います。 そして、それらの教えを信奉する同じキリスト教信者を皆殺しにしたことだと思います。 ですから、新約聖書には、イエス・キリストの教えの大切な部分が抜け落ちているのが大きな問題ではないかと思います。
お礼
きはめて重大な御指摘をいただき、ありがたうございます。組織宗教といふのは、今も昔も、おおきな問題をかかへてゐます。聖書の正典の決定問題も歴史的、宗教的に困難な未解決課題です。私としては、現在の形でよいのではないかといふ立場です。確証があるわけはございませんので、catpowの御意見も尊重いたします。佛典で漢訳のみ現存してゐる経がありますが、私はそれが佛様の意志であり、不要な経典なのだ、と考へてゐます。同様に聖書も、現在の形式になつたのは、それが神の意に沿ふからなのだと思ひます。文学的または科学的には通用しない方法論ですが、宗教的にはさうみなしてよいのではないでせうか。 パウロの手紙には、すでに分派が生じてゐることが記載され、catpowさんのおつしやることもよくわかります。
お礼
御回答ありがたうございます。gooではあひかはらずスペイン語の質問にまともな回答がつきません。 マタイ23章はたしかに過激な表現で満ちてゐます。一字一句まちがひがないやうに律法のコピーを手書きで作るのは並大抵のことではありません。仕事といつてしまへばそれまでですけれど。他の古典作品とは比べものにならないくらゐの正確さです。仕事に自信をもつのはよいことですが、イエスの非難の言葉からすると、慢心があつたのかもしれません。法よりも人間が大切であることを忘れてしまつたのでせう。 >「単純化の名人」とも言われますね。 おもしろい指摘です。特に食事制限に関する律法は好ましくないと思ひます。青魚や豚を食べてはいけない、といふのは流浪の旅のときならともかく、定住生活であれば問題ないはずです。 >無神論・脱宗教傾向の進みつつある今日、今後のそのベストセラー現象は続くのでしょうか? 私は続くと思ひます。内容がおもしろいので。