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デカルトの心身二元論
彼が、物質よりも精神が真実に近いと語るのはなぜですか。数学を信じない彼がアプリオリな物が精神に宿るという考えは、どういう流れでの結論なのでしょうか。 あらゆる物の存在を疑問視しますが、それは、アウグスティヌスの説く自由意思とどこか似ていますか?
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- moto_koukousei
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質問履歴を非公開にされているので、質問内容の推定に使えるものが質問文のみです。 できたら、質問履歴を公開するか、質問文を補足してください。 「デカルトが物質よりも精神が真実に近いと語る」と判断されたのは、どのようなことからですか。「数学を信じないデカルト」と判断されたのは、どのようなことからですか。「アプリオリな物が精神に宿るというデカルトの考え」と判断されたのは、どのようなことからですか。できればその具体的な表現とか、質問者さんが考える「アプリオリな物が精神に宿る」とのデカルトの思考・思想の骨格を書いてください。 「アウグスティヌスの説く自由意思」とは、どのようなことに対するどのようなアウグスチヌスの態度スタンスとお考えですか。 「どこか似ている/似ていない」というのは、どのような側面を観て判断・コメントすればいいのでしょうか。地球と火星と月、河原に転がっているこぶし大の球形の石、サッカーボールを「どこか似ていますか?」と尋ねられても、球形をしていることか似ている、違うところはサイズ、重量、、、えーと、なにを回答すれば良いのか、困る人もいると思います。自由意思って、歴史的に色々な論じ方がされているので、質問者の視点がわからないと答えにくいと思います。 質問の表題が「デカルトの心身二元論」ですが、ウィキペディアに次の解説があります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E8%BA%AB%E5%95%8F%E9%A1%8C#.E3.83.87.E3.82.AB.E3.83.AB.E3.83.88.E3.81.AE.E5.BF.83.E8.BA.AB.E4.BA.8C.E5.85.83.E8.AB.96 「デカルトは心を「私は考える」 (cogito) すなわち意識として捉え、自由意志をもつものとした。一方、身体は機械的運動を行うものとし、かつ両者はそれぞれ独立した実体であるとした。ただし、このことは心と身体に交流がないことを意味しない。『情念論』でデカルトは精神と脳の最奥部にある(とされた)松果腺や動物精気、血液などを介して精神と身体とは相互作用すると主張している」 一方は自由意思、他方は機械的運動を担うが、両者は相互に影響し合うと言っていたようです。アウグスチヌスが「神の恩寵なしには善をなしえない=人間にはパーフェクトな自由意思はない。神に従う自由意志は堕落以降に失われている。新生したクリスチャンにのみ「神に向かう自由意志」が存在する」というようなスタンスだとすると、自由意思の見方(観点)は、かなり違う面が大きいと思います。似た部分を探すのもテーマが自由意思なのですから、たくさん似た部分を見つけられると思います。
- el156
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方法序説しか読んだことが無いので答えて良いのかわかりませんが、彼がアプリオリに認めているのは「デカルト個人の」精神で、それが無ければ物質があるかどうかを考えることすらできないからだと思います。それと、方法序説で彼は、数学のやり方が一番確かだからこれから数学のやり方を使って哲学する、と言っていたと思いますので、数学を信じないようには思えないのですが。