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歴史のことなんですが…
中(2)です。 歴史をやっているのですが、貴族・天皇・幕府・豪族 といったものが整理できなくて、 どれが一番 位の高いものなのかとか、どういう人を貴族(または天皇・幕府・豪族…等)と いうのかわかりません。 教えていただきたく思います。よろしくお願いいたします。
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なぜ権力が必要なのか、根本から考えましょう。 王権などの強力な権力が必要になるのは、大人数の社会を維持発展させるために必要だったからです。 たとえば、農業を主とする社会で飢饉が起きたとします。ぎりぎりの収穫でなんとか1年食べていけますが、それ以上食べると来年の種籾がなくなってしまいます。来年の種籾が無ければ、1年後には全員餓死してしまいます。 そうなると、誰かが種籾を保管して来年の種まきまで誰も食べないように、盗まないように見張らなくてはなりませんし、盗もうとすれば処罰する必要があります。 百人程度の村なら長老会議などで運営できるでしょうが、数万人暮らすような都市では権力を持った人間がいないと、社会自体が機能しなくなります。 このために「社会を統治し、機能するリーダー」としての王が必要になるのです。そして王様一人だけでは何も対応できないため、貴族という有能な人々を配置して社会をコントロールするのです。 ですから王が一番偉くて貴族はそれを支える有能な人々ということになります。 しかし、昔の王族や貴族は基本的に世襲になっています。これも理由があります。一番大きな理由は「教育を受ける機会を確保するため」です。 昔は機械などはありませんから、すべて手作業になります。ですから子供であっても学校などに行かせずに5歳ぐらいになるとお手伝い程度ですが働くことになります。もちろん水汲み程度であっても重労働だからです(水道なんかありませんからね) こうなると、王様一人がいくらがんばっても、みんなが無知では、納得行く統治はできません。たとえば犯罪者を捕まえて裁判にかけるにも知識や見識が必要ですし、種籾を残したり社会全体に満遍なく食料が行き渡るようにするためには、文字を使って記録し計算して管理することが必要だからです。 そのため、王族や貴族という「(庶民のような)労働をしなくてもよい」階級を作ることで、教育を施し社会の要になるようにしたのです。 また戦争時も馬に乗って戦えるように、日ごろから馬を飼育管理し練習するようなことも必要です。そのようなことをするために、だんだんと貴族が整備されていったのです。 日本の場合 日本で最初の統一王朝を作った王族が「天皇家」です。最初といいましたが、実質最後の王家でもあります。なぜならその後の日本では王族の交代が無くいまでも天皇家があるからです。 この下に来るのが統一王朝成立前後は豪族です。 豪族は統一される前の各地域の王様やそれに近い支配者のことです。これをひとつの国の単位にしたのが大和朝廷なのです。 大和朝廷成立後、豪族は(上記の教育機関や知識機関として)京都に入り天皇を助けて、国のいろいろな業務を行います。税金とか警察とか裁判などの仕事です。 もちろん、これらを各地域の豪族(つまり親戚)に伝え、各地域が発展するようにしていました。 これらの仕事をする人々がやがて公家(貴族)になり、有能な公家として藤原家・平家などが輩出されます。 ところが時間がたつと大和朝廷のやり方に不満をもつ豪族などが現れます。京都にいる公家などが権力をむき出しにて、土地を奪ったり財産を没収したりしたからです。 そこで、各地の豪族は大和朝廷以前の自分たちが自分たちの土地を治めていた時代に戻ろうとします。しかし、もどっただけでは朝廷の武力にはかないません。(なにせ武力で統一王朝を作ったのですから) そこで、特に東日本の豪族が支持して出来た新しい統一国家が鎌倉幕府になるのです。この前後から、豪族を武士、武家というように変化していきます。またもともと豪族でなくても新しく地方で有力者になったものも武士になっていきます。 鎌倉幕府は、寄り合いだったために力が強くなく朝廷を倒すまでにはいたりませんでした。そのため征夷大将軍という肩書きをもらって「武士は勝手に社会を作るから、朝廷も勝手にやってください」ということになります。 この後、有名な後醍醐天皇が幕府を廃止して統一王朝に戻ろうとしますが、失敗して南北朝に分かれてしまったりするのです。 そして、鎌倉幕府も求心力を失って次に室町幕府ができます。しかしこれもなかなかうまくいかず、次第に武士たちの不満が高まって戦国時代になっていきます。 つまり戦国時代とは「大和朝廷に変わる、本格的で実力のある、だれも文句を言わない日本の支配者」を決める戦いだったのです。 この結果はご存知の通り、織田信長は途中で殺され、豊臣秀吉は支配者になりましたが2代目への継承に失敗します。そして最後に関が原で勝った徳川家康が江戸幕府を開いて、300年以上の長い支配をつづけるのです。 ただ、世界の歴史と日本が違うのは、天皇を廃止しないで「大和朝廷から日本の支配を任された」と征夷大将軍の地位を守ったこと、各地域の有力者(豪族→武家→大名)に自分たちの地域の支配を任せたこと(実際は領地換えなどもありました)です。 ですから、外国から来た人が見ると「この国は支配者がいっぱいいて、よく問題が起きないなー」という具合だったわけです。 最後に整理すると 世界基準で見ると一番えらいのは 国を支配する王族(日本では天皇家) つぎが王を助ける貴族(日本では公家) です。 各国でさまざまな形態がありますが、日本の特徴として 古代は 豪族=各地の支配者(実質的な王族) 大和朝廷成立後は 天皇家=統一国家日本を支配する王族 豪族=各地の支配者でこの中から武家になるものもいるし、京都に行って公家(貴族)になるものもいた 武士=最初は公家などが地方に持つ領地(荘園)を守る警備員。ここから武家になるものもいた 鎌倉幕府以降は 幕府=事実上の国家政府 武士=事実上の王族(殿様)と貴族 天皇と公家も一応存続(ただし、天皇と公家の下に国民がいないので、権力は実質ゼロ) で江戸時代まで来て、明治維新で 幕府→廃止、武家→廃止(一部は貴族になる) 天皇家→立憲君主制の近代国家元首 そして新しい近代国家なので、学校教育を整備して身分に関係なく、帝大(現在の東大など)から優秀な役人(官僚)を作った。 です。
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- mekuriya
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天皇はいつの時代でも別格の存在です。豪族というのは古代から中世にかけて土地、財産、私兵を持ち実力のあった氏族のこと。貴族は、臣籍降下した天皇の庶子亜流の氏族か、豪族の中から功績を挙げて天皇によって貴族に取り立てられた氏族のこと。幕府とは天皇から征夷大将軍に任じられて事実上、統治権を行使した武家のこと。「どれが」でなく「誰が」位が高いかは全て天皇が定めるところによります。 豪族は一般的な用語であって、側近として天皇を支えた氏族もあれば、只の田舎の暴力団みたいな氏族もあって天皇との距離はまちまちです。そういうものを位が高いとか低いとかで理解しようとする発想が根本的に間違いなのです。貴族は当初は貴族であっても、時代が進むと没落してしまって平民と何も暮らしぶりが変わらないような氏族もいます。朝廷と幕府が対立する概念と考えているならそれは大きな間違いです。朝廷から征夷大将軍に任命されたということは天皇の家臣だという意味なのです。そもそも平氏も源氏もそれぞれ天皇の子孫です。武家は武家でも出自が違う名門の家柄の武家だけが幕府を開くことができたということ。争いごとを収めたり、泥棒を捕まえるためには武力が必要で、それが専業になった豪族や貴族の氏族を武家と呼ぶのです。鎌倉幕府は天皇から平氏討伐を命じられた源頼朝が征夷大将軍に任じられて、それを既成事実として鎌倉幕府を開いたのが始まりです。室町幕府、江戸幕府はそれを慣例として発足した政権。要は時代が進むにつれて争いごとが大掛かりになって朝廷では手に負えなくなって来たということなのです。 日本の歴史の特徴として、諸外国は敵対する外国、敵対する部族に対抗する為に国家制度が整備されているのに対し、日本は当初はその意味もあったけど、中世以降はもっぱら国内事情によって国家制度が整備された点が大きく異なるのです。 日本には有史以前に朝廷に従わない部族だか集団だか異民族だか、正体不明な集団がいました。それが熊襲、土蜘蛛、蝦夷、国巣と呼ばれたのです。それらの民も皆、成敗されて朝廷に従うようになった。それが日本の始まりなのです。諸外国の国民は外国との対抗上、自分たちが何人かという自己認識を持つように対し、日本人は日本は天皇が開いた国だという認識を共有することで日本人という自己認識を持っているのです。 農耕民族である日本人は、人口が増えるにつれて、土地や水の分配や継承を巡って争いごとが起きる様になりました。土地が生産の基盤だからです。水田には灌漑設備で河川から水を引く必要があるからです。洪水を防ぐために堤を築く。灌漑できない土地はため池を作って水を引く。例えば大阪狭山市にある狭山池は7世紀前半に築造されたといわれています。人口が増えるにつれて新しい土地を開墾する必要があるのです。農作業は共同事業です。皆が同じ時期に田植をし稲刈りをするのです。田に水を入れるにしろ、水を抜くにしろ、皆で相談し力をあわせる必要があるのです。 つまり日本列島に政治が必要になったのは稲作が大陸や半島から伝わった後のことなのです。それ以前の日本列島には貴族・天皇・幕府・豪族といったものは何にもなかった。 日本列島には津々浦々にまで神社や寺があります。元は天皇が豪族に建立を命じたものなのです。日本に災いが起きませんように、いさかいが起きませんように、そう祈って神様を祀った。それが神社です。日本人が心安らかに暮らせますように。それが寺です。日本に百済から仏教が伝えられたのは、欽明天皇が日本人には仏教が必要だと判断したからなのです。 今、私たちは当たり前のように漢字を使いこなしていますが、それは漢字が仏典を記述していた文字で、飛鳥時代に天皇が頭の良い人材に仏典を読みこなせるように漢字の勉強を命令させたのが始まりなのです。 後半は余談ぽく聞こえるように思えるかも知れないが、こうした日本の歴史の大きな流れを理解しないことには、貴族・天皇・幕府・豪族といった用語を整理することなど到底不可能だからです。 縄文時代の日本の人口は約10万人です。それが今や1億3000万人弱にもなっている。この意味を考えてみてください。それが日本の歴史を学ぶ意味なのです。
- bara2001
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未開時代に地方に有力氏族が乱立して、各自にその地方を統治していた時代の地方有力者が豪族です。 そのうち豪族の中から飛びぬけた者が他の豪族を切り従えて王朝をたてました。大雑把に言って、それが天皇です。 貴族は早い時期に天皇家に臣従をした者たちの子孫です。実際には結果的に藤原家の一族で独占されましたが。 王朝を開く当時は貴族自身が武力をもって争っていたので、それでおわりです。 ところが貴族政治がつづくと、貴族はそれこそ「貴族化」して自ら血と汗を流すことはしなくなりました。 そのかわりに「さぶろうもの」「さむらい」を使役するようになりました。 幕府というのは言葉の意味としては、武家の棟梁の征夷大将軍の前線基地のことです。 征夷大将軍は朝廷が任命しますが、貴族とは違い武力という実力を保持しているので鎌倉、室町、江戸期を通じて、武家が政治の実権を握りその政治の中枢が幕府となりました。 位ということであれば、日本では官位制がありました。 徳川家康は生前は従一位、死後に正一位になりました。 ただ、武家でそこまでいけるのは稀で、何の生活能力も武力もない世襲の貴族(公家)が官位だけは上だったりします。そういう貴族(公家)は武家政権下では武家に養われていたわけですが。 いまの公務員制度にもその名残がのこっています。 官位と職位が微妙に対応しています。