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天皇という存在はいつ発生した?
お世話になります。 天皇についていくつか疑問があるのでよろしければお答え下さい。 ○今上天皇は初代神武天皇から数えて125代目になられるということですが 現実的に考えて有り得ませんよね? 本当の所、実在する可能性が極めて高い天皇のみをカウントすると、現在の天皇陛下は何代目にあたるんでしょうか? ○江戸時代の天皇は今のように庶民から持てはやされる存在では無かったと聞いたことがあります。 これは本当のことなのでしょうか? 天皇が直接政治に関与していた飛鳥~平安、明治~昭和以外の歴史の中で、 天皇が庶民の崇拝対象だった時代はあるのでしょうか? ○天皇という制度はいつから誕生したのでしょうか? 神武天皇はもちろん神話の中だけの存在ですし、 どういった経緯でそのような制度が完成したのでしょう? かなり間違っているとは思いますが、私が今まで思っていたのは、 卑弥呼の死後、日本のそこかしこで豪族が発生 ↓ 豪族同士で争い、領土を広げる ↓ 様々な豪族を倒し、勢力をグングン伸ばしていく豪族が誕生 ↓ 結果的にその豪族がほとんどの豪族を倒し、奈良に都を作る ↓ 飛鳥時代の始まり(事実上初代天皇の誕生) というような感じなんですが、 詳しい方、よろしければご回答願います。
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最初の疑問は、私も解りません。私も知りたいです。 もっとも、下記に記したように、神話から続いているので、神武天皇の存在の証明が難しいです。 次の江戸時代ですが、その通りです。 家康から天皇より幕府を重んじるように仕組んだ政策の表れです。 軍隊を持たない、領地もない、ただ金持ちの布施から生活していたそうです。 崇拝対象は、主に地元の京都の庶民がしていたそうで、他の地は明治になるまで、崇拝対象になっていません。 最後のは、仮説ですが、最も有力視されている説です。 宮崎の豪族が近畿まで移動したともありますが、確証となる遺跡や古文書は見つかっていません。 あまり回答になっていませんが、駄文をお読みくださりありがとうございました。
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- poccuru5
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記紀において実在したであろうと考えられている最初の天皇は、15代目の応神天皇でよいと思います。ただし確実視されているわけはありません。 一説によると奈良時代、当時の天皇家にとって、直接的にたどれる最古の天皇は雄略天皇と考えられていたふしがあるそうです。『万葉集』の筆頭に雄略天皇の歌が載っているのはそのためだそうです。 始祖王的な天皇として考えるには系譜的にかなり曖昧な位置にいるので、こういう考え方はどうかと思うのですが、その存在が確実視されているかどうか、という点だけを取ってみれば、雄略天皇はその存在が確実な最初の天皇なのではないかと思います。 また、さすがに25代目の武烈天皇の実在を信じる人はいないと思うので、雄略天皇が21代目ですから、125―(20+1)で104代目…かな? もちろんもう少し増減する可能性もありますが…。
お礼
今分かっているだけでも およそ100代は続いているのですね… それだけでも十分凄いと思いますが。 一体本当は何代男系直系が続いているんですかね… ますます歴史のロマンに魅せられた気がします。 返事が遅くなりすみませんでした。 ご回答、本当に有難う御座いました。
- Roman0
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「天皇」号についてのみ。 「天皇」号は、シナの皇帝による冊封体制からの独立を主張するために、聖徳太子が使った言葉です。「東天皇敬白西皇帝」という言葉を、シナの皇帝に宛てた国書で使っていますから。 ちなみに、これに疑義をはさむ根拠は、「天皇」という文字列が日本での方がシナより古いから、なんて話です。これはそもそも私から見れば変な話で、日本オリジナルだと考えることが出来ない人なのでしょう。 「神経」とか「経済」とか、日本発の熟語が現代中国でも使われている現状があるわけですし。 つまり、聖徳太子はわざわざ新しい称号を作ったわけです。なんでそんなことをしないとならないか、という疑問がわきます。聖徳太子ではなく他の時代だったとして、誰がなんでそんなことをしたのか、という説明が必要ですね。 この疑問に対しては、「天皇」号が対外的に名乗る際の称号である点から、外交関係上の要請があったと考えられます。国内でなら、「お上」とか「ミカド」で十分なわけですし。 そしてこの対外とは、対シナのことです。聖徳太子は、シナの皇帝による支配から離脱することを考えていました。その戦略の一つとして思想的根拠を作る必要があり、そこで「天による徳の認定」を権威の根拠とする皇帝と、独立・対等の存在として「アマテラスの神勅」を権威の根拠とする日本のトップというコンセプトを作り、それに対して「天皇」号を作ったという説明ができます。 なお、「大王」を「オオキミ」として天皇の古称とするのは、ある意味トンデモです。教科書にも載っているのでタチが悪いのですが。 シナも含めた用例を探し回っても、「大王」という表現を、King of Kings という意味で使っている事例はありません。「王」の美称として「大王」という事例のみです。 アレキサンダー王を、アレキサンダー大王と呼ぶようなものですね。別にアレキサンダー王がたくさんいて、その中のトップがアレキサンダー大王だというわけではありません。美称とは、そういう意味です。 古称が何であるかは、はっきり言って、分かりません。 可能性が高いのは、「王」ですが。 聖徳太子以前は、聖徳太子が打破しようとした冊封体制下にあったのですから、日本のトップはシナが認定した「王」だったと考えられるからです。 卑弥呼の親魏倭王、北九州出土金印の漢倭奴国王、金石文の「ワカタケルオオキミ」などの称号が、そう考えられる根拠です。
お礼
そのような経緯があったのですね。 中国かあ…とても面白いです。 ご回答本当に有難う御座いました。
- Kiriyama-taicho
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少しは本をお読みになってポイントをしぼって質問されたほうがいいと思います。 ご質問の内容はいずれも歴史系の文庫本にでも諸説出ている事柄ですから。 さて「天皇」という称号をおそらく最初に使ったのは天武天皇と言われています。 これは考古学的に発掘品により証明されています。それ以前は大王やスメラミコトと 呼ばれる天皇位があったとされていますが、最悪の場合、天智天皇以前はすべて 現在我々が知る史実は事実ではないという説もあります。今我々が知らされている 歴史は日本書紀に基づくものです。日本書紀は天武天皇の命によって編纂が 開始されたものですから、それ以前の史実はその時に作られたというのです。 そのような歴史観によると蘇我入鹿や聖徳太子も天皇であったという説も存在します。 実際、中国の歴史書に遣隋使の来朝時に使者が語った所では日本の支配者は 男性であるというような記録があるそうです(当時の天皇は推古女帝)。 トンデモ説の類かもしれませんが、古事記にも出てくる神武天皇より先に大和を 支配していたと考えられるニギハヤヒの命を始祖とする物部一族の系譜が 天皇一族とは別にある時代まであったと類推する説もあります。 古事記や日本書紀はそれ以前に存在した諸豪族の一族の歴史を語った記録や 神話をすべて1本の系譜にまとめたものという考え方もあります。そうすると 我々が大和朝廷と認識している天皇の系譜と同時代に物部だけでなく、 出雲や越、尾張、吉備などにも別の王朝の系譜があった可能性も想像できます。 そのような発想から神武天皇の次代、綏靖天皇から始まる通称「欠史八代」は 崇神天皇を始祖とする巻向丘陵の王朝(大和朝廷)と並行的に存在した 葛城地方の王朝(葛城王朝)だったとする説もあります。 一般的な説としては実在の天皇の初代は崇神天皇ですが、崇神王朝は景行天皇までで 成務天皇、仲哀天皇が天皇位になかったという説もあります。続く応神天皇を 開祖とする応神王朝と崇神王朝が直接垂直的つながりがないとする説もかなり 一般的です。応神王朝は雄略天皇までが実在でその後武烈天皇までは実在しない or天皇位に就いていないという説もけっこう言われていることです。継体天皇は 日本書紀にすら越後の豪族出身であると書かれているほどで応神朝とも崇神朝とも 血縁関係がないと見るのが定説です(日本書紀には応神天皇五世の孫と書かれています)。 また継体天皇の子どもである安閑天皇と宣化天皇も実際には天皇位に就いていないと 推定せざるを得ない史実があります。 ですから即位がほぼ確実視される現在の天皇にまでつながる系譜の最初は 欽明天皇ということになります。
お礼
最初から他力本願で申し訳ありませんでした… これからはある程度本を読み、ポイントを絞って質問したいと思います。 ご回答並びに忠告、大変参考になりました。 有難う御座いました。
- グイン リアード(@guin_riard)
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実在の最初の天皇は、第十代、崇神天皇であるという説が有力です。 そう考えると、125-9で、116代目になります。 以下の文章は、定説ではなく、仮説です。 第15代応神天皇は、14代仲哀天皇の子供ではないという説があります。 古事記と日本書紀では、父仲哀天皇が死んだ日付が違う。(古事記が5ヶ月早い) 古事記だと応神天皇の父は、仲哀天皇だと日付があわない。 神功皇后は、石を巻いて出産を遅らせて応神天皇を生んでいる。とあるが。 日本書紀の日付でゆくと、死んだ日からちょうど10月10日で応神天皇が生まれている。 日本書紀の日付は、あまりにも作為的であるため、どう考えても応神天皇は血がつながってないと考える方が自然です。 そう考えると、125-14で、111代目かもしれません。 他にも、天皇家というのは、三王朝(崇神朝・仁徳朝・継体朝)交代説と言うのがあります。 ただ、私は、応神天皇ほど、説得力がないと考えますので、省略します。 この説で行くと、125-25で、100代になります。 庶民の天皇に対する感覚は、わかりません。 しかし、実際に権力を持った時代というのは、大変短い物です。 これも、考え方次第ですが、藤原良房が摂政となった時から、実権はなくなったと思います。 つまり、858年です。(平安時代初期、56代清和天皇時代) 室町末期頃から窮乏等により、大嘗祭さえ行うことが困難な状態になりました。 天皇家に好意的な徳川綱吉により1万石から3万石に増え、大嘗祭等を復活する事が出来ました。 このように、名前だけで、実質が伴わない時期の方が長いのです。 天皇の制度の成立については、天皇家のルーツがはっきりしない上、上記の三王朝交代説があるように、諸説ありすぎ、また、そのいずれも決め手に欠くため、わからないのが実情です。 天皇陵の調査が許可されれば、おそらく一挙に解決するような気がするのですが。 (今年、ごく一部の調査が許可されました)
お礼
ご回答有難う御座います。 私は天皇否定派でも何でもないし、 それなりに天皇陛下には敬意を払っていますが、 やはり歴史の真実を紐解くためにも 天皇陵は全て調査されるべきだと思います。 たとえそれで残念な結果が出たとしても、 嘘を世界に誇るよりマシだと思いますし 天皇陛下はその人格だけでも大変評価される方だと思いますので…
中国の書物に18代の人の記事が見られるそうです。だから100代は確実な可能性が高いかも。世界で一番続いている「皇室」と言われてますから。他国は侵略などを受け滅ぼされたりしていますが日本は「ニッポン」という名で1300年程度生きてきています。四千年とか言ってる中国もヂンギスさんに支配受けましたし。「日本」という名で1300年続いているなら天皇も125代あったって不思議ではありません。支配されたことがないので滅ぼされることもないし… でも第一代が137歳まで生きたこととする皇紀2667年説はウソですよ。 ちなみに仮説によると天皇は日向で船出して奈良に来たようです
お礼
遅れてすみません。 参考になりました。有難うございました。
お礼
布施だけで生活出来たんですね~ それほど多くの京都人が当時の天皇を崇拝していたんですね。 明治時代に明治天皇が東京へ「行幸」される際も わざわざ京都から東京へ引っ越した人もいたと言う話ですから それも納得がいきます。 とても分かりやすかったです。有難うございました。