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悟り
『悟り』というものは、 本当に存在するのでしょうか? 『瞑想をする』 『自分の感情を観察する』 『自分の思考を観察する』 という事を普段行っているのですが、 いまだに確信が持てません。 どんなに努力や我慢をしようと、 その努力や我慢をしているのは『自分』です。 その『自分』が無くならない限り、『悟り』は訪れません。 という意見も聞きます。 『自分』の力では、『悟り』は開けないのでしょうか? もっと良いやり方が、存在するのでしょうか? 皆様の意見を聞かせて下さい。 よろしくお願いします。
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- sadori
- ベストアンサー率40% (2/5)
悟りが本当に存在するかどうかは、誰も答えることができません。 答えることができるのは、これが悟りだと自分が確信できたものがあるかどうかだけです。 自力だけで悟りを確信することも不可能なことに思えます。お釈迦様はそれをやったのでしょうが。 私たちにできることは、釈尊の言葉や経典の教え、悟った先人の言葉を反芻し、何をもって悟りと言っているのか探求し、明確にし、自分で確信することです。 これも簡単なことではなく、いくら努力しても成功するわけではなく、試行錯誤していくうちにいつの日か機が熟して、はじめて納得できるというものです。 これ以外によい方法はありません。
- ri-zyu
- ベストアンサー率30% (184/611)
お前みたいなものが悟りを得られる訳がない、そう悟りなはれ!(合掌) 無駄な抵抗は止めなはれ!(合掌)
お礼
(○゜ε゜○)『ri-zyuさん、回答して頂きありがとうございます。』 ヾ(・ε・。)『お前みたいなものが悟りを得られる訳がない、そう悟りなはれ!(合掌)無駄な抵抗は止めなはれ!(合掌)』 (○゜ε゜○)『確かに。_| ̄|○ 無駄な抵抗をやめ、全てを受け入れた時に悟りは訪れると、よく聞きます。』
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
先日の事でした。 やたら目の前が開けた感じがしたのです。 心が無限に広がり、とても平穏な感覚が 全身を満たしました。 悩みなど霧散しました。 争い事がアホらしくなり、世界がバラ色に 輝いたようになりました。幸福感に浸りました。 ああ、これが悟りか、とまで思いました。 しかし、よく考えたら私が悟りなぞ開ける訳がありません。 これはおかしい、と色々調べた結果、原因は 嫁さんの仕業だ、ということが判明しました。 嫁さんは、余った漢方薬を捨てるのが勿体ない、という ので何も知らない私に飲ませたのです。 その漢方は、生理痛用の薬で、精神安定作用がある薬でした。 私は薬など滅多に服用しませんので 殊の外良く効いたようです。 さっそく抗議して止めました。 「何で俺に生理痛の薬なんぞ飲ませるんだ!」 その時考えたのですが。悟りというのは理論では 無いんだな、と悟った次第です。 感覚の問題である。 だからそれには内容が無いのではないか。 内容が無いから、他人には説明できないのだ。 麻薬をやる人は、おそらくそんな感じなのでは ないでしょうか。
お礼
(○゜ε゜○)『hekiyuさん、回答ありがとうございます。生理痛用の薬を飲んで、悟りの経験!! そんな事も起こるんですね!! でも羨ましい!!』 ヾ(・ε・。)『やたら目の前が開けた感じがしたのです。心が無限に広がり、とても平穏な感覚が全身を満たしました。悩みなど霧散しました。争い事がアホらしくなり、世界がバラ色に輝いたようになりました。幸福感に浸りました。ああ、これが悟りか、とまで思いました。』 (○゜ε゜○)『なるほど。でもこういう体験が本当にあるんだと思えるだけで、だいぶ救われます。僕も一度でも体験できれば、確信が持てて、だいぶ楽になる様な気もするんですが。^_^ゞ ぽりぽり』 ヾ(・ε・。)『悟りというのは理論では無いんだな、と悟った次第です。感覚の問題である。だからそれには内容が無いのではないか。内容が無いから、他人には説明できないのだ。』 (○゜ε゜○)『う~む、確かに。こんだけ、いろいろな表現方法があるって事は、言葉では説明できないものなのかもしれないですよね。』 ヾ(・ε・。)『麻薬をやる人は、おそらくそんな感じなのではないでしょうか。』 (○゜ε゜○)『麻薬の話を聞くと、同じような事を聞きますね。でも麻薬の場合って、ハイの後にローになるって聞きますよね。あれはどういう仕組みなんだろう?』 (○゜ε゜○)『でも悟りという体験が存在するという話しが聞けただけで、とても嬉しいです。悟りの体験が出来るまで僕は辛抱です。_| ̄|○ ありがとうございます。』
- MOG56222
- ベストアンサー率12% (6/50)
涅槃を構成する要素は複雑で多過ぎるので、いろいろなマニュアルを探すのだけど逆に混乱という状態でしょう。 性格と能力を考えて、できることから始めるのがコツかと思います。 戒を守ったり、ブッダのエピソードを学んだり、やり方は多様です。
お礼
MOG56222さん、回答ありがとうございます。 そうなんです。 皆さん、本質的には同じ事を言っている様なんですが、いろいろな表現方法があって、頭の中は超パニックです。_| ̄|○ 超不器用な僕は、出来る所からコツコツやっていくしかなさそうです。 回答 ありがとうございました。
- tumaritou1
- ベストアンサー率28% (260/913)
悟りに必要な事は、深刻な悩みです。或いは深刻な疑問です。ノイローゼになった場合には「見性」した場合が完治です。心を病むという場合も、自律神経失調症で苦しむ場合も同じです。 この苦しみには共通点が在ります、その共通点とは「心の矛盾」です。心の矛盾を「生き難さ」或いは「一切皆苦」と感じています。絶えず漠然とした不安にさいなまれていると言う意味です。 一切皆苦という意味は「意識地獄」と言う意味です。意識している間中「心に苦しみを感じている」という意味です。 この苦しみが「自我意識の我」を殺す役割をしています。 人間の意識には二つの意識が在りますが、自我意識は説明する必要が無いと思いますので、もう一つの意識の説明のみにします。 意識する事は自我意識の役割ですが、人間は通常の生活の場合、意識している時間(左脳の意識でいる時間)は20パーセント以下です。 残りの80パーセント以上の時間は「意識していない、或いは半意識」の状態で暮らしています。処が人間には分かりません、何故なら、「意識が無い状態を意識できないようになっているからです。」 意識が無い状態の例を挙げて見ます。優勝が掛かった一打を打つ場合や、オリンピックで金メダルが掛かった演技をするような場合です。この場合に、自我意識が出た時に失敗をする確立が高くなります。 何故なら「自我意識は身体も心も自由に出来ない性質が在るからです」 次に「自我意識が出て」生活さえままならない例です。自我意識が無意識の力を借りようとしない(出来なくなった)例です。 最初に神経症の例です。上がり症も、対人恐怖も、高所恐怖症も、閉所恐怖症も、全ての恐怖症と名が付くものは「意識した内容」が症状名になっています。この意味は「無意識の自分」と上手く同調出来なくなった例です。 人間は眠る事さえ「自我意識単独では出来ないようになっています」健常者という人達や、ぐっすり眠れる人達が眠る場合の例です。 何も考えなくとも、「意識が無くなってゆきます」意識が完全に無くなった状態とは「無意識の自分と上手く切り替わった事を意味します」是は「心に矛盾が無い状態です」切り替りがスムーズに出来ています。自我意識が「安心して、自分自身の無意識に、身体と心を預けている事」を意味しています。二つの心が上手く同調出来ている事を意味します。 そうして朝になった時、無意識の自分が、身体と心を「自我意識に返す」時に、ぐっすりと、良く眠れたと感じています。 反対に眠れない場合です、自我意識が単独で「意識を凝らして」眠りに入ろうとしています。幾等頑張っても出来そうもありません。是は、無意識の自分と仲違いしているために、無意識に身体と心を預ける事が出来なくなっているためです。 禅問答を解く場合にも言えますが、「自我意識が最善、或いは全力で」禅問答に取り組む必要があります。 或いは死に瀕している場合や、ノイローゼなどで、実際に死に瀕していると錯覚している場合では、自我意識は「本気で助かろうとして計らいます」処が如何粘ったとしても、「助からない事は」自明の理です。 助かりたいと願いながら、助かる事が出来ない事は「頭では分かっています」是が人間の苦しみです。是は死を避けようとして「もがいている姿です。」 この苦しみや恐怖感が何処から湧き上がるのかが「悟り」に取っては必要な事です。この苦しみが心の矛盾の正体です。そうして自我意識は「遂に死を受け入れる事を決意します。」 この決心が「大死一番」です。死を受け入れる決心が出来た時(自我意識の計らいでは何も出来ないと観念した時)意識の根底で右脳の意識との出会いが在ります。この経験を「見性」と言っています。 全てを諦めてしまって、全てを受け入れる決心をする事が「悟り」の正体です。その決心が出来た時「恐怖心とは」もう一つの意識(永遠の命)が自分をすくおうとして手を差し伸べていた、その手を遮っていた事が「恐怖心の正体」と分かります。 自身に内在する{永遠の命}が自分を救おうとしている事を、自分の我我「勘違いして受け取っていた事を」意識の根底で知る事になります。 今までは心の奥底から湧き上がっていた「漠然とした不安や恐怖感」で絶えず身体にも心にも「いらない力が入っていました。」その力が、「意識の根底から抜けてゆきます」この現象が心身脱落という現象です。 肩にも、心にも「緊張による」力みが有りました。それが全て抜けてゆきます。永遠の命を求めていましたが、「既に自分の命は」永遠のものと分かります。 それ以後は考え方が変わります。自分の肉体は例え滅びようとも、自分自身は既に永遠の存在だった事が「納得できます。」この事を「身が成る」=『体得』するといいます。 禅問答が解けた場合も同じです。自我意識には出来なかったという事を了解する場合のみ、仏性との出会いがあります。 心を病む事、神経症になる事、自律神経失調症になる事、これ等は同じ事で悩んでいます。 自我意識単独で『心を操作しようとしている事』『行動を制御しようとしている事』体の機能を制御しようとしている事』を意味します。 人間は『意識の力では』本当の意味では何も出来ないように出来ています。人間は『意識の力』と『命そのものの働き』が同調して初めて本当の力になります。 判り難い話をしていますので、簡単な話をします、メンタル面の強化と言う場合、プロのゴルファー達の中で、禅を学ぶと言う話もあります。 この場合では、優勝が掛かった一打を打つ場合『意識が出ないようにする事』を学ぶ事を云っています。」 メンタル面が弱いと言う場合では、『自我意識のみになってしまって』なかなか無意識の動作や無意識の時の心になれないでいる事を云います。 仏性の説明を少しだけしておきます。仏性とは『命そのもの働き』の事です。右脳の意識ですが。蟻や昆虫でも、或いは各種の動物達でも、或いは植物でも同じですが、命在るもの全てでは、命が授かった時既にその働きが『刷り込まれています』 桜の花でもその種独特の花の色や形も、もう既に備わっている働きです。 人間に対しては、心も身体も『命の働き』の影響をもろに受けています。心臓や肺やホルモンや、自律神経も全て『命の働き』の支配下に在ります。汗が出る事も、寒いところで血管が収縮する事も、全て右脳の意識たる『命の働きそのもの』の機能によっています。 寒かったら暖かい所を『探すように』指示さえ出しています。暑かったら、水や涼しいところを探すように指示を出しています。 自分の命の働きと、自我意識との出会いを『見性』と言う風に表現しています。浅い悟りをを繰り返して深い悟りに入ってゆくと云う事は『鈴木大拙博士』の著書には出ていませんでした。 二つの意識が仲違いしている場合『生き難い想い』の中で暮らす事になっています。その解消方法が『悟り』です。心の矛盾の完全解消です。是は人間の心に対する、或いは魂に対する究極的な癒しの効果があります。 今の精神医学は、その反対の方向を向いています。少なくとも『心の矛盾』自体にさえ、気が付いていないように見受けられます。
お礼
tumaritou1さん、いつも丁寧な回答ありがとうございます。 教えて頂いた事を、自分なりに理解して、まとめてみました。 お時間のある時に、見て頂けると助かります。 人間の中には『右脳』『左脳』という、二つの別々の考え方を持った人格が存在する。 『右脳』=無意識。現在が全て。平安で満たされた状態。 『左脳』=自我意識。過去と未来が全て。過去の後悔や未来の不安等、絶えず考え事をし、不安にさいなまれている。 人間の中には、この『右脳』『左脳』という、二つの人格が存在する為に、『心の矛盾』が生じて苦しむ。 この『心の矛盾』が完全解消した状態が『悟り』である。 『悟り』を開く為には、深刻な悩み、深刻な疑問、禅問答など、自我意識(左脳)では解決できない状態が必要である。 自我意識(左脳)では解決できない状態に直面した時、自我意識(左脳)が活動するのを諦め、肩や心の緊張による力みが全て抜けてゆき、無意識(右脳)に歩み寄る。 自我意識(左脳)から無意識(右脳)に歩み寄り、意識の根底で無意識(右脳)の意識とつながった時に『悟り』が起こる。 『悟り』に達した時、自分の肉体は例え滅びようとも、自分自身は既に永遠の存在だった事が納得できる。 人間は自我意識(左脳)の力では、何も出来ないように出来ている。 人間は通常の生活の場合、意識している時間(左脳の自我意識でいる時間)は20パーセント以下。 残りの80パーセント以上の時間は「意識していない、あるいは半意識」の状態で暮らしている。 処が人間には分からない。 なぜなら、人間は無意識(右脳)を意識(左脳)する事はできない。 人間は左脳(意識の力)と右脳(無意識・命そのものの働き)が同調して初めて本当の力になる。 悩んで、悩んで、自我意識では、解決できない状態に追い込まれ、諦め、フッと力が抜けた瞬間に悟りが訪れるんだと理解しました。 お時間がある時に、また書き込みして頂けると、助かります。 本当にありがとうございました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 次の考え方は 参考になると思いますが。 ▲ (中村元:龍樹)~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたものなるものは 存在しない。 《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたものなるものを見る者は 〔実は〕見ないのである。 (ナーガールジュナ『中論』第十八章 アートマンの考察 第三詩) という。これは驚異的な発言である。われわれは平生は我欲に悩まされているから 我欲を離れた境地に到達したいと思う。ところが我欲を離れた境地というものが別にあると思う人は 実は真理を見ていないのである。 (中村元『龍樹』2002 pp.225-226) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 話は別ですが たとえば人に霊が宿るという言葉を聞いて あなたはどうお思いになりますか? あるいは別様に 人にも生物にもあるいは自然のすべてのものに 仏性があると聞いたなら どうですか? あなたの身体は 聖霊のやどる神殿であるとか 人はどんな人でも生まれつき仏性を宿しているのだと言われて どう感じられますか? 霊や仏性などというものは 人類の歴史が始まってこの方 誰も見たことはありませんし その宿ったすがたにしても 確かに誰だれさんには実現したといった伝説を聞いているだけです。 もしそれでも この霊や仏性といったおとぎ話に 何がしかの真実があると思ったなら それは 理性による経験思考によっては分からないけれども それを超えて――つまりは 非思考の場において――信じられるところがあるのかも知れないということを意味します。 それで よろしいのではないでしょうか? その非思考の庭が わが心に成ったとするなら すでにあなたは さとりを得た。ということではないでしょうか? そういうものです。 * 実際の生活においては 段階があります。ただしこの段階は すでに最高の究極の境地に到ったあとの時差をともなった一つひとつの過程だと認識してください。 言いかえると すでに傷は癒されています。完治しています。(わが心に 非思考の庭が成ったその時点で――即身成仏―― 完治しています)。あとは その傷跡の直っていく一つひとつの段階なのだと心得てください。
お礼
bragelonneさん 丁寧な回答 ありがとうございました。 (〇o〇:)『この文章はすげぇぇぇ!!!』 『わがもの』という観念を離れ 自我意識を離れたものなるものは 『存在しない』 『わがもの』という観念を離れ 自我意識を離れたものなるものを見る者は 『実は見ないのである。』 我欲に悩まされているから 我欲を離れた境地に到達したいと思う。ところが我欲を離れた境地というものが別にあると思う人は 実は真理を見ていないのである。 理性による経験思考によっては分からないけれども それを超えて つまりは非思考の場において 信じられるところがあるのかも知れないということを意味します。 非思考の庭がわが心に成ったとするなら すでにあなたは さとりを得た。 ということではないでしょうか? そういうものです。 すでに傷は癒されています。 完治しています。 わが心に 非思考の庭が成ったその時点で ――即身成仏―― 完治しています。 あとはその傷跡の直っていく 一つひとつの段階なのだと心得てください。 ○bragelonneさんの文章を読んで、 自分の中の迷いがスッーと消えていきました。 感謝しています。 速く僕の周りの仲間達にも、 bragelonneさんの 文章を見せたいです。 本当にありがとうございました。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
○追伸まで 「預流向」「預流」「預流果」ではまだまだ疑いが消えるものではありません、その先に一来や一来果があるように不動の信、知恵を得るにはまだまだの道のりですね。人が目指すところは「不還:ふげん」ですね。これが「阿羅漢果」の状態です。その先に菩薩、如来と永遠に続きます。 私の状態は仏陀の裁定に任せるしかありませんが、阿羅漢をめざしていることは間違いないことです。 仏陀の教えに基づいて、世の中の一般の知識程度でしたら良し悪しを瞬時に判断できます。 (ただ付け加えておきますが、私はお寺の坊主の経験は一切ありません。はっきりいってお寺に悟りのよすがはまったくありません。) 「死んだら何もなくなる。」「悟れば何もなくなる。」このような考えが間違いであることは私にとって疑いもないことですが、そんなことに左右されるようでは「預流」にも程遠いということなのです。 さて、「仏陀は宇宙の存在以前に先立ち、悠久の昔より存在し、また、地球人類の魂の親であり永遠の教師でもある。」といえば信じることができましょうか? 何を言わんとしているかといえば、「預流」のまえに信解脱の法門が立ちふさがっているのですね。信なきものは解脱できずなんです。 信解脱の法門を通らなければ慧解脱の法門を通ることはできませんので正しい認識力を手に入れることはできないのです。 前にも書きました八正道は実は十正道が正しいのです。信+八正道+解脱なのですね。どのような知識を真理と信じるかということは、とりもなおさず師である仏陀を信じえなくばどのような知識も認識も砂上の楼閣でしかないということですね。 「預流向」から「不還」への道とは地上の常識との戦いでもあるのですね。 自身の持つ常識を一度全て否定し、そこから正しい知識、智慧を構築せよ。という意味が「諸法無我」という言葉ですが、さて、仏の教えの深遠さの一端が垣間見えるでしょうか。 悟りの道に入りたいならば仏法僧の三宝、まずは現状の仏陀を探し仏陀に帰依することですね。それが信解脱の入り口門です。普通の人が悟りの道に入るにはそれ以外はないように思います。 私の述べることは難しすぎるかも知れませんが日本人ならチャンスはあるということです。
お礼
mmkyさん ありがとうございます。 『信なきものは解脱できず』 まずは信じる気持ちがないと駄目だということなんですね。 私も早速、仏教の勉強を少しづつしていきます。 詳しい回答 ありがとうございました。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
○真の悟りの道は「ニ河白道」の例えの通り非常に細く長く険しいものです。その道に入るには正しい信仰を持ち、正しい知識を得、正しく生活し、正しく念じ、正しく常に入る必要があります。その結果正しい解脱ができるということなのです。その方法論として仏説八正道があるのですが、この前提は仏陀を信じることから始まるのです。仏陀の教えを信じ、その教えを教師として物事を見、物事を考え、言葉を整えて、日々の生活、瞑想を行なって生きること、これが悟りへの道なのです。 この道を外しては正しい悟りは決して得ることはできません。 それ故、悟りを真に求めるものは仏陀を求めるのです。正しい知識は仏陀よりもたらされるからです。そのため、悟りを求めるものは、この身千貫の岩に打ち砕かれようとも,この目鷲に食われようとも、仏陀の時代に生まれたいと望むのです。 さて、悟れば無になる、何もなくなるであれば誰もそのような望みはもたないでしょう。それゆえそのようなものは悟りではなくたんに道を外した者の言い訳程度のものでしかないのです。 私は先の回答に認識力と書きましたが、仏陀の認識力は人間の想像を遥かに超えるものです。例えれば太陽と蟻のようなものです。その太陽の一部を我が物とすることが人間としての悟りということなのです。生まれもって才能のあるものは瞑想の中で新たな世界を知ることができるかも知れません、一方、才能なきものは仏陀を探すしかないのです。2500年の時を経て、仏陀は再誕しています。まずそれを知ることが悟りへの近道でしょう。
お礼
mmkyさん 回答ありがとうございます。 いつも 助かります。 私も『仏教』の勉強を始めてみます。 ひとつ質問させて頂きたいのですが、 『仏教』では悟りの第一段階 『預流果』を体験した時に 『疑い』が消え、 『この道で間違いない』 という確信がもてると 仏教の本で読んだ事があります。 mmkyさんは『預流果』をされましたでしょうか? 『預流果』に達すると、 本当に『疑い』が消えるのでしょうか? 『預流果』に達すると、 どんな気分になるのでしょうか? お時間がある時に教えて頂けると、 非常に助かります。
お礼
(○゜ε゜○)『sadoriさん、回答ありがとうございます。』 ヾ(・ε・。)『私たちにできることは、釈尊の言葉や経典の教え、悟った先人の言葉を反芻し、何をもって悟りと言っているのか探求し、明確にし、自分で確信することです。』 (○゜ε゜○)『おっしゃる通りです。努力して、試行錯誤あるのみなんですね。』