あなたの、心、知恵、というものにさえ実体がない、縁によつて、
、環境とあなたの肉体構造と脳の回路、によって、今、想起している
だけで、実体としては何処にも存在しないのに。
あなたが考える、悟り、というものが実体として存在する訳はありません。
名、言葉、があるだけです。
名は名にして常の名にあらず(老子)は先日書きましたが。
仏教に12支縁起というのがあります。
無明、行、名、識、6所、・・で、人間の発生成長を言っているのでしょう。
無明(何も知らないまま誕生する)を縁として、行(泣く、乳を飲み、排便をするという)
行、を縁として、名、(マー、とか、アー、とかの、対象)が起こる。
名を縁として、識(対象の特定てしての、概念の構築、としての認識)が起こる。
識を縁として、6所(嬉しい、悲しい、などの感情)感情が起こる。
6所を縁として、執着(好き嫌い、綺麗、醜い、利害、などの)執着が起こる。
執着を縁として苦(迷い、悩みなどの)が起こる。・・・
大体そういう考え方です。最後は、菩薩(悟りを求める者を縁として、悟り、起こり。
悟りを縁として人間(真人、目覚めた人)となる。というようなのと。
餓鬼、畜生、地獄、となる。という裏の?一二支縁起、というのもあるようです。
さて、名、言葉を縁として認識が起こる、という問題です。
認識とは、個人の概念(頭の中でイメージし作り上げた対象)であり。
個人によって違うものであり、変化するもの、なのです。
私など、小学校で、子供の絵に、金賞の金紙、と銀賞の銀紙、が貼ってあり。
私は銀紙の絵が良い、貼ってある紙も渋くて、値打ちがありそう、金紙は軽薄そうだ、
と思い。けっこう高学年になるまで、銀を金、金を銀、と認識していました。
人間の認識とは、大なり小なりそんなもの、「群盲象を語る」なのです。
それではまずい、と考え。概念の統一、を目指したのが、アリストテレスの
形而上学、であり。アカデミーと言われる西洋思想の一方の奔流となります。
(もう一方は言うまでもないでしょうが、ユダヤ思想、キリスト教思想です)
しかし、、言葉に、これはこういうものであり、その属性はこれであり、対義の
言葉はこれである。と定義出来るものでしょうか。変化するものを定義し固定することは
出来ないはずです。マルクスがアリストテレスを知恵を台無しにした。
と批判するように、皆に同じ概念を持たせると、定義が間違っていても、
気づく者がいなくなる。気づいても否定される。知恵の消滅?の社会になるのです。
アリストテレスの形而上学という、ギリシャ哲学の完成=終焉から
スコラ哲学(キリスト教形而上学)となり。西洋は、知恵の暗黒、中世、が1000年続いたのです。
で、悟り、ですが。(子供の頃の)私にとっては、自分が銀を金だと、間違った認識をしていたことに
気づき、概念が変わった、認識が逆になった。
が悟り、という言葉のイメージ、であり。
自分の認識をより、事象と合致するように、改め、認識を変える事、自分を変える事、悟り、だ
との認識は今も大して変わりませんが、悟りとは、と、定義、を試みたりはしませんが。
悟り、と一体で逆の言葉は、迷い、悩み、間違った認識、行動、をする事。でしょうから。
悟り、はその逆の方向に自らを導く縁によって起こる事。
なのでは。
お礼
Flareonさん、回答ありがとうございます。 (  ̄Д ̄) 『やあ。もったいつけて、これだけは応えてやろう。』 ( ̄へ ̄ )『そんなぁ。もったいつけづに教えて下さいよぉ。(涙)』 【自分が無くならない限り、悟りは訪れません。】 (  ̄Д ̄) 『自分を無くす事では無い。自分を解き放つことだ。』 ( ̄へ ̄ )『【自我意識】に負けずに、自分を解き放てみたいな感じのニュアンスなのかなぁ。』 (  ̄Д ̄) 『そうすると野獣が喰らいついてくるだろう。君がそうしたように、野獣はお前を殺してやるとも言うだろう。』 ( ̄へ ̄ )『【野獣】というのは【自我意識】の事なんだろうか?【自我意識】が抵抗してくるって事なんでしょうかねぇ。』 (  ̄Д ̄) 『しかし、いったん解き放ったならば、あくまでも自らの真実を貫く事だ。 ( ̄へ ̄ )『ふむふむ。』 (  ̄Д ̄) 『このような悟りの基ではどの程度悟っているかは一定の目安がある。それは、お前を殺しその肉を喰らってやると現れる野獣をいかに飼いならすかだ。実際は野獣の狂気を飼いならすことである。これが猿まわしだよ。』 ( ̄へ ̄ )『飼いならす。猿まわし。う~ん...感覚的な問題なんですね。きっと。』 ありがとうございました。