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六角氏の浅井長政に対する扱いについて
こんばんは 六角氏の浅井長政に対する扱い方について質問です。 浅井長政は誕生時の浅井氏の状況が極めて劣勢であったため、六角氏の人質として観音寺城下で誕生しますよね? そしてその後も父が地頭山合戦を起こし、殺されてもおかしくない状況などを経験していくわけでありますが… 周知の通り、浅井長政は後に父を隠居させ、野良田で六角氏を打ち破ります。どうして六角氏は人質であった長政を解放してしまっていたのでしょうか?人質として手元においておけば、野良田のようなことにはなりませんでしたよね? 六角氏が人質を手放してしまっていたのは何故でしょうか?
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浅井の年表は以下だと思います。 亮政 永正11年(1514)、亮政は第二次伊庭の乱で伊庭貞隆・貞説を支持する。 時期不詳。田屋明政を蔵屋の婿養子とす。 大永3年(1523)の国人一揆に参加する。 大永4年(1524)頃より小谷城を築城す。 大永5年(1525)9月、六角定頼に敗れ江北より退避(越前?)。 大永6年(1526)、亮政江北へ復帰。亮政の側室尼子氏、猿夜叉(久政)を生む。 享禄4年(1531)4月、箕浦合戦で六角定頼に再び敗れる。 天文3年(1534)8月20日、小谷城に京極高清・高延を招き饗応する。(10月7日)。 天文7年(1538)9月12日、六角定頼に敗れ小谷城に籠城す。 天文11年(1542)亮政正月6日没。 久政 大永6年(1526)誕生 天文11年(1542)家督相続す 天文13年(1544)8月、京極高広に攻められ家臣の国友伯耆守軍が打ち破られる。 天文14年(1545)7月3日、久政軍は海津を攻め落とす。 天文14年(1545)観音寺城下で長政誕生。 天文21年(1552)7月、六角義賢が江北に出陣する。 天文22年(1553)11月、浅井久政は六角義賢に大敗を喫す(地頭山合戦)。 天文22年(1553)11月26日、久政は六角義賢と講和(屈服)す。(六角家の属国並) 長政 永禄 2年(1559)正月、六角家重臣平井定武の娘を妻とする。新三郎は元服後、賢政を名乗る(義賢の賢)。 永禄 3年(1560)久政を竹生島に追放。 永禄 3年(1560)春、妻を離縁し、六角方へ送り返す。名を新九郎に戻した。 永禄 3年(1560)この年、六角承貞(義賢)江北に侵攻し、肥田城を攻撃(8月中旬)する。長政は、高野瀬秀隆救援の為に出陣し、野良田の合戦で六角軍を撃破し、浅井家での長政の主導権が確立される。 永禄 3年(1560)10月を隠居させる。 永禄 4年(1561)名を長政に改める。浅井家は、この年より名実共に戦国大名となる(六角家より独立)。 >そしてその後も父が地頭山合戦を起こし、殺されてもおかしくない状況などを経験していくわけでありますが… 相手に勝つのに人質を殺すようなことはしません。殺したら人質を殺すぞって脅せません。殺すのは相手に滅ばされる前か、滅ぼすつもりのときです。服属させるつもりなので人質はそのままです。 >周知の通り、浅井長政は後に父を隠居させ、野良田で六角氏を打ち破ります。 久政追放>離縁・名を元に戻す>野良田>長政主導権確立>久政隠居 理論的な順序だと思います。 >どうして六角氏は人質であった長政を解放してしまっていたのでしょうか? 人質として手元においておけば、野良田のようなことにはなりませんでしたよね? 六角氏が人質を手放してしまっていたのは何故でしょうか? もう元服させて配下として使うつもりだったのです。桶狭間の松平元康(家康)と同じです。 猿夜叉(後の長政)に六角義賢の"賢"をとって賢政と名乗らせられ、六角氏の家臣平井加賀守定武の娘登代を妻に迎えさせられることになる。 また、浅井によもや負けると思っていません。六角が浅井に負けたことなんてほとんどないです。 野良田でも六角25000vs11000浅井です
お礼
回答ありがとうございます! なるほど、家康のような位置付けでしたか!