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戦国大名、六角氏と浅井氏の関係について質問です
- 戦国時代における六角氏と浅井氏の関係について質問です。浅井氏は1532年に六角氏と和睦しましたが、その後も浅井氏の立場は低かったのでしょうか?また、1553年の合戦は長政が脱走し、浅井が六角に反旗を翻した結果なのでしょうか?
- 戦国時代の六角氏と浅井氏の関係についての質問です。浅井氏と六角氏は1532年に和睦しましたが、和睦は実質的には浅井氏の立場が低かったのでしょうか?また、1553年の合戦は長政が脱走し、浅井が六角に反旗を翻した結果だったのでしょうか?
- 戦国時代における六角氏と浅井氏の関係について質問です。浅井氏は1532年に六角氏と和睦しましたが、実際には浅井氏の立場は低かったのでしょうか?また、1553年の合戦は長政が脱走し、浅井が六角に反旗を翻した結果だったのでしょうか?
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>和睦と言っても、実質は浅井氏の立場は低かったと考えて大丈夫でしょうか? 浅井亮政は、「和睦」したとは言え、あくまでも六角定頼(ろっかくさだより)の家臣の一人にしか過ぎませんでした。 六角氏から見れば浅井が裏切らないように、小野殿を人質として観音寺城下に住まわされ観音寺城下で長政は生まれました。そして、二人とも人質状態でした。 長政が元服に当たっては、当主六角義賢の一字をとって「賢政」(かたまさ)と名乗らせる。また、六角氏の家臣・平井定武の娘との婚姻も強いた。 >>あと、1553年に合戦が起きていますが、これは1545~1553年の間に長政が脱走に成功し、浅井が六角に反旗を翻したという感じでしょうか? 地頭山合戦は、長政ではなく、長政の父の浅井久政と六角義賢との戦いですね。 長政はこの時8歳位でしたので、父の謀反に対して殺されたりしてもおかしくない状態でしたが、当時の人質の処置(処遇)は、もし負けたら(負けそうになったら)人質も殺す・・・と言うのが常道で、謀反を起こしたからと言ってすぐに「殺してしまう」ことはしませんでした。なぜなら、人質をすぐに殺してしまえば、久政にとっては、もう何もない状態ですから、思いっきり攻めてくることになるからです。六角氏から言えば「殺すぞ」「殺すぞ」と脅しをかけることで、戦意喪失を狙う戦略です。 しかし、実際は、久政も力量不足ですぐに和議を結んでいますので、結局は長政親子は生き永らえることができたのです。また、謀反を起こす方とすれば、我が子であっても「殺されてもしかたがない」と言う思いはあったと思います。 これが六角氏の失態で、1560年には、ついに浅井長政の手によって浅井家は六角氏から完全独立しました。(野良田の戦い)。
お礼
回答ありがとうございます! なるほど!大変よく分かりました