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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:長良川の戦いにおける道三の最期と隠居城について)
長良川の戦いと道三の最期|逃亡の意図と隠居城の選定理由
このQ&Aのポイント
- 長良川の戦いは、斉藤道三と斉藤義龍の戦いであり、道三は討ち死にする。道三には尾張への逃亡の意図はなかったのか?
- 道三が岐阜城より北に隠居城を設定した理由には何か特別な事情があったのか?
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質問者が選んだベストアンサー
>道三には尾張に逃亡しようとする考えはなかったのでしょうか? 道三が戦死する時点では、織田信長は尾張を統一していません。 (信長には義龍とまともに抗するほどの力が無い。) 長良川の戦いに1万7千もの兵力を動員した義龍が尾張に侵攻したら、桶狭間以上の奇跡を起こさないと、信長の運命は其処で終わってしまいます。 (道三が尾張に逃げ込めば、義龍が尾張侵攻への大義名分を得てしまう。) 小説やドラマ等の演出では、援軍の為に軍を急がせる信長を巻き込ませない為に、あえて6倍以上の兵力差が有るにも関わらず、道三は野戦に討って出ます。 (実際、信長は清須城を出発して大浦まで来ていた…。) >川を下れば何とかなりそうな気もしてきて、逃亡を企てる気が起きてもおかしくないなと思ってしまいます。 長良川を下る(西南の方向へ進む)ってことは、義龍側に付いた西美濃三人衆の領地近辺を突っ切る事に成りますが…。 >あと、道三は何故、岐阜城より北に隠居城を設定したのでしょうか? 江戸時代の軍記物なんかでは鷺山城に隠居したという記述が有るのですが、信長公記では親子4人で稲葉山城に居城していたと記述されています。 (後の長良川の戦いでも、道三が最初に布陣したのは鶴山と言うのが現在の定説ですし…。) なお、信長へ充てた有名な「美濃一国の譲り状」には、この手紙を大桑にてしたためたと有ります。 (稲葉山城よりほぼ真北に14km先です。尾張に向かう意図は全く無かった様に見受けられます。) 大桑の地の近くには、道三の父長井新佐衛門尉のゆかりの地が有りますから、そこで再起を図りたかったのかも知れません…。
お礼
回答ありがとうございます! まず逃亡に関しては、そういう背景があったんですね てっきり、尾張はもう統一されていたのかと思ってました。 確かによく考えれば易々と川を下れるわけがありませんね そうなんですか!鷺山で隠居したと思ってました 鶴山というのは知っておりました。以前、現地に行ってみて、あきらかに鶴山の方が守りやすいと実感できました。 要するに、どの点から見ても尾張逃亡は考えていなかったと推測できますね ありがとうございました