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斉藤道三の謎

久しぶりに、司馬遼太郎の『国盗り物語』を読みました。 疑問に思ったのは 義龍が土岐頼芸の嫡男という説はやはり誤りで 道三の実子ということが確実ではないのか? ということです。 義龍が頼芸の子であった場合、 道三ほどの野心家であれば 義龍のクーデターが発生したときに 捲土重来を期して尾張に亡命していたのではないのでしょうか? 私が若い頃は理解できなかったのですが 圧倒的に不利な状態で戦い討ち死にしたのは 義龍が実子である という確信が道三あったからではないのでしょうか。

みんなの回答

  • izuhara
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回答No.3

義龍が土岐の子という話は俗説です。当時の史料にそのような記載はありません。江戸時代に創作されたものでしょう。 また、同時代の人間である近江の六角承禎は家臣宛の書状の中で「義龍は父道三を殺した」「義龍の祖父(道三の父)が美濃に来て出世したのが始まり」という認識を示しています。 当時としては親子で戦うこともまれではありません。大友氏・伊達氏・武田氏・河野氏・徳川氏などなど。義龍には道三がかつて対立した旧土岐系の家臣の支援があったようです。織田と結ぶかどうかの方針をめぐる政治対立や、それぞれを支持する家臣団の対立が根底にあったのでしょう。 討死したのは、織田の援軍が間に合えば勝てると踏んでいたのではないでしょうか。戦いを諦めるほど道三は潔くない気がします。 ちなみに義龍は父を殺した後一色氏を名乗っています。土岐氏の子であることを美濃支配の正統性としてアピールするなら土岐氏を名乗っているはずです。義龍本人の意識として自分が土岐氏の出であるとはみじんも思う要素がなかったということでしょう。

  • lions-123
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回答No.2

>斉藤道三の謎 疑問に思ったのは 義龍が土岐頼芸の嫡男という説はやはり誤りで 道三の実子ということが確実ではないのか? DNAや血液型での実子判定が出来ない時代にあって、婚姻の経過や義龍の誕生時期から(成長時には顔や体型)、頼芸の子 では?という疑念を持ちながらも、お家大事と後継者としての目で見守っていたのでは。 また、仮に実子でなくても家督を譲った上は、血筋からも多くの家臣団の求心力と言う点からも斉藤家の発展を願う心は同じだと思います。 >義龍が頼芸の子であった場合、 道三ほどの野心家であれば 義龍のクーデターが発生したときに 捲土重来を期して尾張に亡命していたのではないのでしょうか? 戦国武将としての意地や戦略での彼我の差を考えると必敗とは思っていないし、また、女婿である織田からの助勢は、特に要請しなくとも来援してくるとの読みもあったのでは? 城取りに長けた道三には、義龍如きにたやすく敗れるとは思っていなかった、策士策に溺れるor油断と目算狂い(味方の数や攻めて来る相手の戦力やスピード)が有ったのでは?

回答No.1

でも土岐よりなりの妻をもらったときは既に妊娠していましたよ と いうのが通説ですが 実は私も 義龍は道三の実子では?と思います 安藤伊賀の話では 道三と義龍は似ていたそうですが義龍は土岐よりなり似では無かったそうです 背丈こそ義龍は巨漢でしたが… あと 義龍は道三が尾張に亡命できないように 磐石の態勢にしたから謀反の兵を挙げています 信長が救援に向かったときには国境に義龍の兵がすでに配備されていました 道三は日ごろから 義龍を愚か者と評していたようですが それは道三を油断させるためで 信長がうつけのふりをしていたのと同じだったのです 現に道三の死後 のぶながは美濃制覇に10年近く費やします 義龍の死後あっさりと美濃を征服しました

Ohgimachi
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >道三は日ごろから 義龍を愚か者と評していたようですが それは道三を油断させるためで >信長がうつけのふりをしていたのと同じだったのです 斬新な説ですね。 大変参考になりました。....〆(・ω・。)