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宇治川の戦いについて。

源義仲は源範頼と源義経に殺されてしまうと教科書にのっていたのですが、なぜ同じ源なのに対抗してしまったのでしょうか?おしえてください。

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  • mekuriya
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回答No.4

結論から言えば、源義仲は源頼朝の政権簒奪計画に利用されただけだったということになります。 源義仲は、政治センス0の軍事馬鹿だったのです。後白河院から京都の治安回復を期待されたのに、それを果たせず、平氏追討の為に出陣していってしまいました。後白河院は源義仲が行政能力が無いことに気づいて見放したといったことです。居ても役に立たないから、いなくなった方がよほど安全だと考えたのかも知れません。源義仲軍は無頼のチンピラの集りで、実務能力などまるでなかったのです。後白河院にすれば、平氏を討ち取ってくれるのは有難いが、この馬鹿には到底政権は託せない、どう始末してくれようかというところだったわけです。そこにちょうど良いタイミングで、源頼朝が名乗りを挙げるのです。代官として軍を指揮したのが源範頼と源義経でした。源頼朝は源義仲とは逆で政治家タイプだったのです。 平氏討伐は源義仲に任せ、自分は関東で地盤を固める。どうせ田舎者の源義仲は後白河院の不興を買うだろうから、そこに付け入れば自分が源義仲に取って代わって、後白河院の関心を買うことができる。打倒源義仲は、代官の源範頼と源義経にやらせて、自分の地盤が固まれば、後で源範頼と源義経を粛清してしまえば良い。そうなれば、もはやライバル不在で政権は自分に転がってくる。 といったことをどこまで事前に計画を練っていたかは分かりませんが、史実はこのように推移していきました。 強大な敵がいる間は敵も味方につけておかなければならない。しかし強大な敵を討ち果たせば、今度は味方が敵になる。 古今東西の歴史の政権の変わり目はいつもこうしたものなのです。単純馬鹿はいくら手柄を立てても、最終的には裏切られてしまうのです。

その他の回答 (3)

回答No.3

一族で争うのは昔から ちなみに木曽義仲の父は 頼朝の兄に殺されたのだ 足利尊氏も弟殺してるし  織田信長も伊達政宗も弟殺してる 一族でのあらそいは数え切れません

parucoara
質問者

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よくあることなんですか!びっくりです。ありがとうございます。

  • mpascal
  • ベストアンサー率21% (1136/5195)
回答No.2

源 義仲、木曽義仲と言ったほうが解りやすいかもしれませんね。 wikiに詳細に出ていますよ。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E4%BB%B2
parucoara
質問者

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わざわざありがとうございます!理解しました!

  • jasko
  • ベストアンサー率24% (478/1966)
回答No.1

平家討伐を命じた公家たちは 義仲が平家を京都から追い払うと 義仲が邪魔になったのです。 義仲が源氏の頭領になることを潔しとしなかった頼朝は 弟たちに命じて義仲を打ちます。 まぁ、源氏内部の仲間割れでしょうかね。 本来、頼朝は義仲とともに平家の息の根を止め、 公家(や天皇)を倒し、王になることもできたのにサブライに徹してしまった。 天皇制を廃止するよい機会だったのですがねぇ。 以来、サブライの精神が日本人に定着してしまい、 日本人の心は侍になってしまった。 花は桜木、人は武士。 今でも心は侍だから、王になる気はない。よって天皇は安泰なのです。

parucoara
質問者

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とてもよくわかりました!ご回答ありがとうございます( ^^)