結論から言えば、源義仲は源頼朝の政権簒奪計画に利用されただけだったということになります。
源義仲は、政治センス0の軍事馬鹿だったのです。後白河院から京都の治安回復を期待されたのに、それを果たせず、平氏追討の為に出陣していってしまいました。後白河院は源義仲が行政能力が無いことに気づいて見放したといったことです。居ても役に立たないから、いなくなった方がよほど安全だと考えたのかも知れません。源義仲軍は無頼のチンピラの集りで、実務能力などまるでなかったのです。後白河院にすれば、平氏を討ち取ってくれるのは有難いが、この馬鹿には到底政権は託せない、どう始末してくれようかというところだったわけです。そこにちょうど良いタイミングで、源頼朝が名乗りを挙げるのです。代官として軍を指揮したのが源範頼と源義経でした。源頼朝は源義仲とは逆で政治家タイプだったのです。
平氏討伐は源義仲に任せ、自分は関東で地盤を固める。どうせ田舎者の源義仲は後白河院の不興を買うだろうから、そこに付け入れば自分が源義仲に取って代わって、後白河院の関心を買うことができる。打倒源義仲は、代官の源範頼と源義経にやらせて、自分の地盤が固まれば、後で源範頼と源義経を粛清してしまえば良い。そうなれば、もはやライバル不在で政権は自分に転がってくる。
といったことをどこまで事前に計画を練っていたかは分かりませんが、史実はこのように推移していきました。
強大な敵がいる間は敵も味方につけておかなければならない。しかし強大な敵を討ち果たせば、今度は味方が敵になる。
古今東西の歴史の政権の変わり目はいつもこうしたものなのです。単純馬鹿はいくら手柄を立てても、最終的には裏切られてしまうのです。
補足
よくあることなんですか!びっくりです。ありがとうございます。