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主観と客観について
「主観」および「客観」の意味を教えてください。辞書を見てもいまいちよく理解できません。 例えば、物理学の運動の法則の一つに、 「すべての物体は、外部から力を加えられない限り、静止している物体は静止状態を続け、運動している物体は等速直線運動を続ける。」 があります。この法則を一般の方にわかりやすく説明するために 「物体というのは速度の変化を嫌う性質があります。止まっているときはそのままずっと止まっていたい、ある速度で動いているときはその速度でずっと動いていたいのです」 と言ったら、ある文系学者さんから、 「そのような説明は良くないです。主観的だから」 と言われました。 前者の説明は客観的であることは明らかですが、なぜ後者の説明は主観的なのでしょうか?主観と客観の違いは何ですか? 主観性、客観性のそれぞれの定義は国語辞典に下記の通り書かれています。 主観性: 主観に依存する性質。(主観:その人ひとりのモノの見方) 客観性:だれもがそうだと納得できる、そのものの性質。 この定義に照らし合わせると、「いかなる条件下でもいかなる物体は"そのままの状態でいたい"が必ず成立する」であるならば、これは個々に依らないことであり、かつ、誰もがそうだと納得できるそのものの性質を擬人法で表したものなので、むしろ主観性が低く客観性が高いと言えるのではないでしょうか?
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- g27anato
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日本語が国語辞典に基づくのではない。 国語辞典が日本語を解説している。 国語辞典が日本語を定義してるのではない。 国語辞典は著者、編者が日本語を研究して、読者が理解しやすく解釈、解説を加えた物。 国語辞典が日本語より優先する物ではない。 日本人として回答者として、 質問者個人の思い込みや決めつけを無条件で全肯定する事はないと理解願いたい。 …質問は賛同募集ではなかった筈なので。 なお、補足回答として、 ・物理学的な物質、物体の側に「主観」は存在しない。 ・国語学的な表現、文章の側に「主観」が存在する。 上記事実を示す文系学者の指摘こそが、質問者自身による「主観」「客観」の履き違えと混同を明示している。 たったこれだけの質問でも回答者は文系学者の指摘を理解できたのに、 当事者である筈の質問者自身が理解できないという事実は認めるべき。 人の言葉は理解できずに辞典でしか物事の正誤を判断できないという、自らの事実にこそ疑問を持つべき。 言葉の解釈に誤りが有れば、辞典の記述も正しい解釈は不可能。 日本語を知る日本人として知識の範囲で、言葉の解釈に関する事実に基づいた回答は既に済んでいる。 回答者個人が嘘をついてるかのような否定コメントは受け入れ難い。 質問者自身の持論主張は自由だが、議論したいなら別の場を求めてもらいたい。 …これ以上の疑問は件の辞典著作者か文系学者に直接問い質すよう勧める。
- g27anato
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質問のカテゴリーは「国語」。 国語における「客観」とは、 個人の感性を伴わない「現実」のみに基づいて論理的に解決される「事実」。 「続ける」は意思の有無に関係なく「継続」という「現象」に基づく「事実」。 「いたい」は「希望的」意思の下に働く、「精神的」な状態を示す表現。 「物理」の観点において、 物理学上の「物体」には「物質」としての実体は有るが、心理に類する「希望」も「意思」も「精神」も存在しない。 …その事実の下に「客観」的な表現による結論が求められる。 「国語」の観点において、 実体の無いものを有るかのように「擬人化」するには、文章化する当事者の「感覚」による「感性」が織り込まれる事になる。 …そのような手法による当事者自身の捉え方や表現を「主観的」と言う。 この回答も、 質問者自身の主観を主観と認めず、 更なる上に「物理学的」な「客観」表現と、 「国語学的」な「主観」表現とを混同したまま、 質問者個人の「主観」の下に持論を主張するなら、 如何なる論理的解説も意味を為さないものとなる。 物理学的な「運動」に「いたい」とする「希望的意思」は有りえない。 文系学者は「有りえない」事を表現に盛り込んだ「物理的矛盾」を指摘している。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ですが、私が書いた「主観」と「客観」の定義は、「国語辞典」の原文ママです。つまり「国語」としての主観と客観について述べています。持論ではありません。 で、回答者様の、 >「国語」の観点において、 実体の無いものを有るかのように「擬人化」するには、文章化する当事者の「感覚」による「感性」が織り込まれる事になる。 …そのような手法による当事者自身の捉え方や表現を「主観的」と言う。 これは、回答者様の持論ですか?それとも国語における定義ですか?もし後者の場合、その出典を教えてください。学術論文でも書物でも良いです。 論理的に考えて、 国語辞典に記載の、「主観」と「客観」の定義は、回答者様の言う「主観」と「客観」とイコールではありません。 論理的にご回答頂ければ幸いです。 よろしくお願いします。
- g27anato
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簡単には、 「主観」とは …(当事者の)感覚。 「客観」とは …(論理的な)事実。 例えば 「~続ける」が(客観的)事実。 「~いたい」が(主観的)感覚。
お礼
ご回答ありがとうございます。しかし、 >「主観」とは…(当事者の)感覚。 >「客観」とは…(論理的な)事実。 >「~続ける」が(客観的)事実。 >「~いたい」が(主観的)感覚。 これは主観性、客観性の対象とする性質そのものが感覚を有するものに限りませんか? 今回の内容は、物体自体が実際に感覚を持っているわけではなく、感覚や感情を持たない物体に対して人としての性質・特徴を与える比喩の表現として、「速度を変えたくない」としているだけに過ぎません。つまり擬人化による比喩表現です。 擬人化されたものに対して、いかなる物体はいかなる条件下でも速度を変えたくないという性質がある、としています。 このように、明らかに客観性のある性質に関する説明であっても、その説明に擬人法が使用された時点で、客観性を失うのでしょうか? 失うとするとそれはなぜでしょうか? 結局、主観性と客観性というのは、質問文に書かせて頂いた定義に帰着するように思うのですが、違うのでしょうか? つまり、 「個々に依る性質」→主観性 「個々に依らず、誰もがそうだと納得できる、そのものの性質」→客観性 が根本の意味でなければならないと思います。というかそう定義されていますので。で、これに鑑みると、質問文の例文は客観性の方に該当します。 いかがでしょうか?
- hiro_1116
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物体に「止まっていたい」「動いていたい」という意志を持たせるのは、質問者様のモノの見方だと思います。 私もそのように考えたり、説明したりすることはありますが、物体に意志を持たせるのは変だとおっしゃる方もいらっしゃいます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 客観性のある性質の説明であっても、その説明に擬人法が使用された時点で、客観性を失うということでしょうか?擬人法でいくら例えても、それが主観に依存せず、誰もがそうだと納得できる性質であれば、客観性は失われないのではないでしょうか?少なくとも、主観性、客観性の言葉の定義に則ると。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >日本人として回答者として、 質問者個人の思い込みや決めつけを無条件で全肯定する事はないと理解願いたい。 …質問は賛同募集ではなかった筈なので。 いえいえ、思い込みではないです。賛同募集でもないです。それを決定づける論理的根拠は何でしょうか? 私はただ、国語辞典に記載の内容に基づいて論理を展開しただけです。国語辞典が全てではないならそれはそれで良いです。別にそれを否定するつもりはないです。否定できる根拠はないので。 > 回答者個人が嘘をついてるかのような否定コメントは受け入れ難い。 いえそうではなく、論理的矛盾点を指摘したのみです。 > 国語辞典が日本語より優先する物ではない。 では、最優先すべきことはどこに書かれているのですか?「私の言うことがとにかく正しいから、とにかく私を信じなさい」ではなく、回答者様のご説明が正しいことが確認できる書物や論文を教えてくださいと申し上げているだけです。 それとも、「私の言うことはとにかく正しいんだよ。」ですか?私も一学者として申し上げますが、赤の他人が何の根拠も無しに発言した内容をそのまま信じろというのは、いかがなものかと思います。