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悟りとは主観と客観の一致である。

ある書籍に、「悟りとは主観と客観の一致である」と書いてありました。 これについて、自由な意見をお待ちしています。

質問者が選んだベストアンサー

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  • amaguappa
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回答No.14

#4さんのお礼欄によれば、森田療法の森田博士の言葉ということですが、 その解釈に限れば、意味はさほど広くありません。 自由な意見を募集してもあまり建設的ではないかと思います。 砕啄同時といって、 雛が卵の中から「狭いよう、苦しいよう、やってらんないよう」と力任せに殻をコツコツし始めると、 親鳥が「もう卵から出る頃かな」と嘴で殻をコツコツしながらついばんでやるのです。 期が満ちて、そのときが来ると、殻を破るためには中と外で同時に働きかけがあるということです。 西洋の精神療法に比べ、森田博士は、主観・観念の打ち消しや矯正をはからないのが特色です。 思い込み、病のなかにある思考や判断といったものが、事実でないことを事実と思い込む、 そのような主観を捩じ伏せることなく、 自然に主観を離れられるような心のしつけを繰り返して、客観的な事実をありのままに素直に受け入れる時期が来る。 粘土をこねながら粘土になりきるかのごとく、闇鍋みたいな心の中を見つめていないでありのままの事実を見られるようになる時が来る、 ご質問のくだりはその程度の意味だと思います。

noname#150682
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 amaguappaさんは、時折回答書き込みを見かけますが、森田への造詣も深いのには驚きました。 >自由な意見を募集してもあまり建設的ではないかと思います。 色々な意見が聞けるので、もう少し回答を受け付けたいと思います。  

その他の回答 (34)

  • agripapa
  • ベストアンサー率0% (0/46)
回答No.25

そのさとりの境地ってのがインチキくさければ さとりの境地からその後の世界との関わり方への移行も卑小で安直っぽい ・

  • agripapa
  • ベストアンサー率0% (0/46)
回答No.24

そして ;世界に僅かでも手を加えてしまったら、 ;自分と言う視点で世界を観てしまったら、 ;世界に自分の心が反映されてしまったら、 ;もう「あるがまま」では無いんです ;世界に対して、あーだこーだと評価したり、 ;分別、整理などをして、手を加えたりしないんです。 ;それが「あるがままに観る」と言う事なんです っていうのがさとりの境地なら そこから ;その様にして世界の本来の姿を覚知した人、即ち「悟った人」は、 ;世界を解釈するのも、しないのも、自由自在となるので、 ;後は自分の思う様に生きていきます っていうそこが なんか違うんだよなぁ。。。 生に伴う苦は受け入れるだけしか道がなく、どうしようもないものもあるけれども 解決していける苦もあることも事実なのであって。。 ・

  • agripapa
  • ベストアンサー率0% (0/46)
回答No.23

;そういうものがあるとしか言いようがない さとりは信仰とは違う ・

noname#181697
noname#181697
回答No.22

ANo.19です。 「悟り」とは、純粋な知覚に立ち返る事です。 物事を評価分別する前の、個人を超えた意識それ自体を知る事です。 それを知るには、世界に手を加えている自分自身に気付いたり、 自分と言う視点で世界を観ているという事実に気付いたり、 自らが知覚している世界は「あるがまま」では無い、 と言う事に気付くしかありません。 主客の無い「観」は、その様な気付きの結果として実現されるものです。 (本当は実現「する」様なものでは無いのですが) しかし、純粋知覚や、個人を超えた意識とは何か?と問われても、 そういうものがあるとしか答え様がありません。 それはいくら考えても理解出来る様なものでは無いので、 自ら体験して納得してもらうより他は無いです。 自らが手を加え、歪めていた世界の姿、 つまり「自らの病理」に気付けば、 認知の歪みからなる苦しみは雲散霧消します。 その様にして世界の本来の姿を覚知した人、即ち「悟った人」は、 世界を解釈するのも、しないのも、自由自在となるので、 後は自分の思う様に生きていきます。 仏教の悟りと、森田療法の悟りは、 境地の深さと言う違いはあれど、 根本的には同じです。 自らの病理と向き合うのも、公案を参求するのも、 到達するのは純粋知覚と言う「真の自己」なのです。

noname#150682
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >仏教の悟りと、森田療法の悟りは、 >境地の深さと言う違いはあれど、 >根本的には同じです。 そう言ってもらえると、森田を学習する意欲が湧いてきます。

noname#150682
質問者

補足

言葉って便利なようで、具合の悪い物だと思います。 哲学のように、言葉で世界を説明しようとするとどうしても必要な物だし 一方では、世界の認知を歪めてしまい迷いの世界に入り込ませるのも言葉の作用だと思うからです。 (森田では思想の矛盾という言い方をしますが・) 蛇足ですが、コメント頂ければ嬉しいです。

  • amaguappa
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回答No.21

世界に手を加えないというより 認識加工しないといいたいのでしょうけれども。。。 仮構のうえで一致させたいというのが森田博士の大前提なのだから 道理がわかり 有無の分別がつく ということをそれ以上掘り下げる話ではなくて。 観自在に 道理をよく見出し、 観世音に 有無をよく知覚し、 世界、世間に出ても自分を偽らないでいられるように、と。 事象出来事の認識ひとつひとつが砕琢同時の訪れであるように、と。 仮構から吹いて湧く自然を受け入れるというような大上段の心性ではないと まず質問者にわからないとはじまらないのですが。

noname#150682
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 言っていることは、分かると思います。 ただ、 >仮構のうえで一致させたいというのが森田博士の大前提なのだから の仮構というのがよく分かりません。 森田博士の著書にも仮構という言葉はなかったように思います。 そこを、追加説明して頂くと嬉しいです。

  • agripapa
  • ベストアンサー率0% (0/46)
回答No.20

毒矢の刺さった人を見て、ありのままを受け入れ、助けようともしないというのがさとりの境地というなら そんなさとりはドブにでも捨ててしまえ みたいな ・

noname#150682
質問者

お礼

ありのままとは、 「毒矢に刺さった人を見て」 「苦しそう」とか「かわいそう」とか「助けて上げたい」とか そんな、感情も受け入れてその感情を尊重するから、助けるという行為が自然と出てくる。 そんな意味だと理解しています。

noname#181697
noname#181697
回答No.19

厳密に言うと、悟りの世界には、 主観も客観もありません。 主客のどちらも「無い」と言う点では、 「一致」しているとも言えなくもないけれど、 表現としては、あまり適切では無いです。 悟った人は、世界を解釈する事を、やめています。 世界に対して、あーだこーだと評価したり、 分別、整理などをして、手を加えたりしないんです。 それが「あるがままに観る」と言う事なんです。 世界に僅かでも手を加えてしまったら、 自分と言う視点で世界を観てしまったら、 世界に自分の心が反映されてしまったら、 もう「あるがまま」では無いんです。 無知無得 全く手付かず それっきり。 この「あるがままの世界」こそが、 悟りの世界であり、世の実相なんです。  

noname#150682
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 それって、No4の回答者の >悟りとは主観の"主"、客観の"客"が脱落した "観" ですね。 に、近い気がしますがどうでしょうか?

回答No.18

( ´・ω・ )はぁ。みなさん、おつむのよろしいことで。 「悟り」が直叙形で述べられる。こりゃ理性信仰? で、こちとらは変化球に見える直球でいきましょう。 ズバリ、「悟りとは犬のウンチを踏むことである」とな。 通りを歩いていたとき、足にいやな感触が! 私:ありゃ、犬のウンチを踏んづけてもうた。 傍にいた通行人A:あいつ犬のウンチを踏んでらwww 傍にいた通行人B:わーい、犬のウンチ踏んでるよ。 傍にいた通行人C:犬のウンチ踏んづけて、ウンの悪い奴っちゃ! おお、これで「主観と客観が一致した」! よって、 >悟りとは主観と客観の一致である となっ! とある求道者の話し: 厳寒の深夜、山中にある湖のほとり。一人の修行者が湖に向かって座禅を組んでおりました。考えに考えて頭はくたくた、もう空っぽになって端坐しておりました。 「悟り」を開こうと日夜修行に励んでいても一向に「悟る」気配もない。 どれくらい時間がたったろう。 湖畔の木々の枝に積もった雪が、音もなく湖に落ちた。 その刹那、湖に一面氷が張った。 世界がその修行僧の心の中に侵入してきた、音もなく轟音を立てて。 修行僧の心に中から満ちてくるものがあった。 涙が溢れた。理由の分からない歓喜。世界との一体感がそこにあった。 さて、ここに語られなかった「意図」があります。 質問者様にお分かり頂ければ、質問への解答も自ずとそこにあることあることがお分かり頂けるものと愚考しちょります。 おまけ:黙像親方のウィキぺのコピペは曲がなくてつまんないよ。期待してるんだから、もっとしっかりやってよね。

noname#150682
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 確かに「悟り」は言葉で語りがたい物だと思います。 しかし、こういうスレッドの形式上言葉を通さないといけないのも仕方が無いと思います。 意見、参考にさせて頂きます。

回答No.17

 こんにちは。  ★ ~~~~    悟りとは主観と客観の一致である。   これについて、自由な意見をお待ちしています。  ~~~~~~  ☆ 無理です。理由は  ○ 客観とは何か?  ☆ と問うことと同じになる。からです。言いかえると  ○ さとりとは――とうぜんそれを《わたし》がその主観において主観として得ることなのでしょうから わたしが―― 客観を得ることである。さて 自由な意見を述べよ。  ☆ という問いにひとしいからです。  おそらく それよりは ずばり  ○ さとりとは 人間のどういう境地なのか?  ☆ こういった問い方のほうがよいかと考えます。  ★ (No.9お礼欄) ~~~  自分の主観が自己というフィルターを外して事象を見ることが出来る。  つまり、客観となる。  そう言う意味に理解しています。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ だとしますと こう問い返されると思います。  ○ 《自己というフィルターを外して見る》ときも とうぜん《わたし》が大きく広くはみづからの《主観において・主観として》見ることであるはずだ。だとしたら そこのところをどう説明するか?  ☆ ですから むしろもし《客観》があるとするなら それを得て《さとった》というときのさとりとは何か? これを問う行き方が 実りが多いのではないでしょうか?  ★ (No.1お礼欄) 例えば、色即是空なとは、客観的な言葉だと思いますがどうでしょうか?  ☆ だとしますと その空観とは何かを明らかにすることが 問われると思います。  みなさんも さとりという言葉を使っていても それはこれこれこういう内容であるというふうには その中身を明らかにしておられません。  ◆ 砕啄同時  ☆ というたとえにおけるものなどは ありました。  あるいは別様に正面から論じて  ■ (回答No.7) ~~~~  「悟りにおける条件とは、主観と客観の一致である」  と訂正すべきと思います。  ~~~~~~~~  ☆ という助言が寄せられています。つまり煮詰めれば――そのご回答では ひとつには《客観》とは 哲学や科学のように経験合理性で同意しうる言語表現によって明らかとなることと説明しており〔だから さとりそのものではなくそのための《条件》なのだという捉え方が出て来るようです。条件ではなくそのものを言う場合には 言葉によっては表わせないとことわっておられます(=密教)〕 もうひとつには さとりとは何かの問いについてもその輪郭をすでに答えておられますが―― この問いをむしろ先に問えというものではないでしょうか?  それとも 森田療法について問うご質問でしょうか?  世話焼き村の横槍月之進でした。    

noname#150682
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >それとも 森田療法について問うご質問でしょうか? 森田療法についての質問ではありません。 自分自身が長いこと神経症で悩んできて、森田の著書を読んできました。 それなりに理解しているつもりです。 時折宗教の本(仏教の禅が多いのですが)を読むと理解が進む感じでした。 森田の立ち位置から、仏教の悟りを問うていると考えて下さい。  

回答No.16

き悟りとは、自分の「我」 と「自分の命の働き」が出会う事を云います。この場合主観も客観も同じになると言う意味があります。この事を「一致である」と表現していると思います。 人間の脳内には二つの意識が共存しています、一つは「無意識界の自分の主人公です。」ですが人間の自我意識としては、自分が意識がない時の事を知りません、この事を「不識」と表現しています。 無意識の自分が全ての生命活動を管理しています。心臓の速さでも呼吸数でもその場その時に合わせています。ホルモンの調節でも、胃や腸の働きでも全て整えています。身の毛もよだつと言う体験をした場合には、身体中の身の毛を「よだつようにさせている者」です。 その者は、自我意識が気が付こうが付くまいが、自身の環境の番人をしています、全てを監視していて「危険の場合は知らせています」ですがその危険が余りに急な場合では「自我意識に取って代わって」自分の心も身体も支配して、その危険から身を守っている者です。この場合「知らないうちにとか、憶えていない」」と云う事も在り得ます。 その者と自我意識は「意識の根底では」何事においても相談しながら、どちらの出番かを決めています。人間の生活が正常に保たれている場合とは「二つの意識の交替制が」或は「二つの意識が上手く同調出来ている場合」の事です。 二つの意識には「機能面から云うならば」お互いに、補い合っていると言うか、補完関係に在りますが、お互いの機能は、異なっています。 自我意識の機能は「言葉」を持っている事から、判りやすく云うならば、有限の世界からの理解を示しています。つまり割り切って考える機能しか持っていないという意味です。割切れる事しか「言葉にならないからです」 従って「自我意識は」有限の世界しか理解出来ない事を意味します。この事から人間には苦しみが始まる事を意味します。その苦しみとは「有限の壁を越えられない苦しみです。」命のはかなさを嘆く苦しみです。 或は「永遠に憧れながらも、永遠を手に出来ないし、又理解さえ出来ない苦しみです。」 この苦しみから、人間は宗教文化を「知らないながらも、後押しをしてきたという歴史が在ります」 この苦しみを、具体的に脳の科学から説明するならば、かなり分かりやすくなると思いますので、簡単に説明してみます。 人間の脳内に存在する二つの意識の内の「無意識の意識」と言うものを説明します。この意識は「右脳に存在する意識」です。はっきり云うならば「見性」する時に出会う相手です。「自分自身を知ると云う時の」もう一人の自分です。 この意識は、生命が芽生えた時から働き始める働き「その者」です。母親のお腹から生まれ出るや否や泣く事も笑う事も、怒る事も不安や恐怖と云う事まで既に知っている働きその者です。 自我意識が学校で言葉を介して学んで成長してゆくのとは違い、生命として芽生えた瞬間から働き始める働きです。学ぶ必要は無くて、既に脳内に刷り込まれている「意識」と言う方が当たっています。 桜の花が咲く時期も、花の色も形も全て知っているのと同じ働きの事です。昆虫でも、動物でも全てそれぞれの種によって、それぞれの種に応じた形も、動作も全て働いている働きです。 この働きを「一切衆生悉有仏性」とお釈迦様が言ったわけです。 この者は、全ての生命の基本の元になっている働きです。人間以外はこの働きそのもので生きている事を意味します。 幼子はこの働きのままで生きています。この事を聖書では「天国」といっています、何故なら「全てに疑いを持っていない」という意味です。「命の命ずるままに生きている姿」という意味です。言葉を換えるなら、「心に矛盾がない姿」だからです。 ですがこの事実は、赤ん坊が望んでなった事ではありません、只脳の機能がまだ、未発達という事を意味します、未だ心はひとつしかないという意味です。 思春期頃に脳の機能分化が完成に近くなります、そうして「一人の人間には二つの意識が、独立した存在として別々に思考を始めます」この二つの意識の「食い違う事」を聖書では「失楽園」仏教では「無常を感じる」という風に表現しています。 この意味は、今までは何の疑いも持たなくて「心は一つのものとして働いていました」裏を返すなら人生に疑いを差し挟む必要が無かった、という意味になりますが、(脳の機能完成に伴って)自分自身や、人生そのものを初めとして全てに疑いを抱き始めた、という意味になります。 この「心に湧き上がる想い」を知恵が付いた、と表現しています。大人になった脳で「人生をもう一度再認識」」しなおす作業です。この事が成功した場合「アイデンティティが確立した」といっています。 命の働きと、「自我意識」が折り合う作業という意味です。 「命の働き」は生命活動を維持する働きです。単なる生命活動のみを疑う場合では「身体の生命維持のシステムそのものを疑う」という意味になりますので、「身体の機能」を疑う事を意味しますのでこの疑いが「自律神経失調症」を招く事を意味します。 「命の働き」は行動にも心にもその影響を及ぼす事を意味しますので、「命の働き」をその行動面で疑う場合を「神経症」として体現しています。 「命の働き」は当然生命の維持活動全てに働いている事から、心にも作用しています、その「心」に及ぼす影響を疑う場合「心を病む」といっています。言い替えるなら「心の健康を疑う場合」という言い方でも可能と思います。 つまり人間は「自我意識」VS[命の働き]の食い違いを「心の矛盾」として感じていて、その個性によって何処に違和感を覚えるかによって、その現れる、或は感じる事柄が多種多様になっていることを意味します。 これ等の障害の完治が「悟る」ことを意味します。キリスト教的な表現方法を取るなら「(識られざる、内在する)神と和解する」と云う事になります。 仏教的な言い方をするなら「全てに障害として働いていた意識を知る事(見性)によって、全ての障害が取り払われる事(生死の問題が解決する事)」を意味します。 表現方法は違うとしても、内的或は心的な意味は同じです、それは「心の矛盾が解消される」と云う事を意味しているからです。 今までは左脳「言葉によって理解していた世界観」が「言葉によらない世界観を理解する事」を意味します。言葉を替えて云うなら、自我意識が主導権を握っていた生き方が「いきずまった事によって」自我意識が全てを放棄する事を意味します。そうして「新しい秩序」によって生きる事を意味します。 その新しい秩序とは「自我意識が一歩引く生き方です」 命の働きが主導権を握って、「自我意識が」その働きに従う生き方です。聖書によれば「神の御心に従う」息方と云う事になります。 実生活においては「計らいを捨てて」生きることを意味します。具体的に云うなら「計らう(思う)ゆえに生き難かった身が」計らわない事で生き易くなる、という意味ですが、「思わずに行動できる生き方です」 人間の思う事(意識する事)が生きる邪魔をする事を「障害」と書きました。その障害が取り払われる事によって「意識の根底からの安心」が得られる事を宗教は説いています。 人間の自我意識に湧き上がる考えは「頭の中で再考された世界です」その感情を湧きあがらせている意識は、真実の世界を直に見ている意識です。 目の前の世界と「頭の中の、再構成された世界が」一致する時、全ての障害は消えてしまいます。頭の中野湧き上がる考えは「妄想」だった事が分かります。 妄想が消える事によって「全ての障害は取り払われます」是が「心の矛盾が解消された」姿ですが、宗教の本来の目的がこの事にある事を「今の宗教家は忘れ果てているように感じます」

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