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悟りとは主観と客観の一致である。
ある書籍に、「悟りとは主観と客観の一致である」と書いてありました。 これについて、自由な意見をお待ちしています。
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#4さんのお礼欄によれば、森田療法の森田博士の言葉ということですが、 その解釈に限れば、意味はさほど広くありません。 自由な意見を募集してもあまり建設的ではないかと思います。 砕啄同時といって、 雛が卵の中から「狭いよう、苦しいよう、やってらんないよう」と力任せに殻をコツコツし始めると、 親鳥が「もう卵から出る頃かな」と嘴で殻をコツコツしながらついばんでやるのです。 期が満ちて、そのときが来ると、殻を破るためには中と外で同時に働きかけがあるということです。 西洋の精神療法に比べ、森田博士は、主観・観念の打ち消しや矯正をはからないのが特色です。 思い込み、病のなかにある思考や判断といったものが、事実でないことを事実と思い込む、 そのような主観を捩じ伏せることなく、 自然に主観を離れられるような心のしつけを繰り返して、客観的な事実をありのままに素直に受け入れる時期が来る。 粘土をこねながら粘土になりきるかのごとく、闇鍋みたいな心の中を見つめていないでありのままの事実を見られるようになる時が来る、 ご質問のくだりはその程度の意味だと思います。
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真理を世界の根源としたとき 主体は真理です。 我々は客体(現象)にすぎません。 1.主体が真理であるとき 客体(我々)が 自己の主観として 世界を観たとしても それは 真理に対する客観である。 2.主体が現象世界であるとき 主体(我々)が 自己の主観として 世界を観たならば それは 現象世界に於ける主観である。 すなわち 真理を知りえた者が 客観と主観を和解させ 行動(精進)することができるのです。 これが悟りです。 さらに行動(精進)を続けることにより 悟りにも拘らなくなり 空観を得て 楽に生活できる様になります。 ちなみに 精進とは 何の目的もなく 誰の為でもなく ただ黙々と働くことであり 働けることに感謝すること によって幸福を感じることです。 はたしてそれが できるのだろうか? ブータン的な あまりにブータン的な あぁ。
お礼
回答ありがとうございます。 言っていることはよく分かる気がします。 >さらに行動(精進)を続けることにより >悟りにも拘らなくなり 空観を得て >楽に生活できる様になります。 そんなことを夢見ながら、心のあり方を工夫しています。 工夫している間は、悟りから遠いと知りながら・・・
- kadowaki
- ベストアンサー率41% (854/2034)
No.12ですが、再回答させていただきます。 >No.4様の回答 >>悟りとは主観の"主"、客観の"客"が脱落した "観" ですね。 >については、どう思われますが? う~ん、私には、この「観」と主客融合、主客一如との違いがはっきりとは見えてこないのですが。 と言うか、そもそも「観」に執着する限り、それは本当の「悟り」たり得ないような気がします。 なぜって、「観」の土台や背景にあって、それを支えているものの正体、真相が何か?と考えたとき、本当の「悟り」というのは、もしかして「観」をさえ必要としないのではないかと思われてならないからです。 もちろん、凡愚の自分にとっては、こういう「観」に到達することさえ至難の業だとは弁えていますが。
お礼
回答ありがとうございます。 確かに「観」の解釈は難しいと思います。 自分は、「観」とは能動的と言うより、受動的な見るという感じを強く受けます。 能動的なら「観」に執着するという事もありますが、受動的な見る「観」なら 執着から離れているような気がします。 どうですかね・・・
- kadowaki
- ベストアンサー率41% (854/2034)
ある書籍に、「悟りとは主観と客観の一致である」と書いてありました。 世俗的な常識や論理に訴える方便としては、こういう説明の方がそこそこ分かりやすいかと思います。 でも、「主観」も「客観」も「色即是空」の「色」である以上、本当の「悟り」の側から見れば、「主観と客観の一致」にしても、迷妄であるのは免れないと思います。 そうは言っても、『般若心経』では、「色即是空 空即是色」としか説明されていないので、もう少し常識や論理に適った説明が欲しいとなると、私としては、世親菩薩の説かれた『唯識三十頌』が良い意味で理屈っぽく、思考の手順、階梯を踏み、最後に「悟り」(円成実性・真如)に達するための道筋を示してくれているように思われます。 ちなみに、『唯意識三十頌』の冒頭(第一頌)には、「由仮説我法 有種々相転 彼依識所変 此能変唯三」(われわれは仮でしかないものに囚われ、あたかも主観や客観が実在するかのように説く。種々の諸現象が実態として生起しているかのように見えるのは、実は《識》の作用・活動によって生み出されたにすぎない。この《識》は三種に分けられる。)とあります。 ご一読をお勧めいたします。
お礼
勧めて頂いた書籍は入手して読んでみたいと思います。 参考になる情報ありがとうございます。
補足
No.4様の回答 >悟りとは主観の"主"、客観の"客"が脱落した "観" ですね。 については、どう思われますが? 考えを聞かせて頂くと嬉しいです。
- agripapa
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女子と小人は養い難しと昔からいうからな。。 ここで注意する点はあくまでも女子なのであって 母と言ってないってところ ですね ・
- miko-desi
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私と私の死は等価であるかいなか。 死後は想われるという客観のみが人生となります。 想ってくれる人がいるのか。 想われ人はいない。それは生きたに値せずで、死は私と等価である。 もしくは、 想い人の生きている時間や心の自由を私に使わせて 見返りも持たせず奪えるほどに今の私に力があり、生かし合っているのか。
- ukiyotonbo
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「悟りとは主観と客観の一致である」 主と客が分離されたままでの単なる一致ではないでしょう。 これでは、数学とか科学的な理解のことになりますね。 表現としては、悟りの過程において主観と客観の融合、 つまり、主観と客観は同じものであるということに気づくじゃないでしょうか。
お礼
回答ありがとうございます。 自分も似たような、理解をして言います。 自分の主観が自己というフィルターを外して事象を見ることが出来る。 つまり、客観となる。 そう言う意味に理解しています。
- agripapa
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それ さとりの何について言ってる言葉といえるのでしょうか? さとりを開いたということの意味が 語りえぬものついては沈黙しなければならないことのようであって さとりを開くということそのものに意味があるとすれば かつて釈尊がさとりに至る道だけを説いたというのはある意味頷ける話で キリストが世界が闇に包まれる前に現れた未来の希望を指し示す宵の明星に例えるならば 先人が後に続く人の為に、さとりに至る道だけを説いたというのが伝えられるのは暗闇で人を導く明けの明星として後世にわたって人を導く指標となってきたと考えることができます さとりとは何かを知らない”群盲象を評す”っていうのが客観なら主観と客観は必ずしも一致しないということが起るのではないかな? とか 洗脳された信者は主観に対して客観として扱えるのかな? とか 問題だらけで意味がない文章のようですが もしそこに意味があるとすれば仏教界において さとりを開いているとされるその各宗派内の複数人が客観として新たにさとりを開いたというのが本当かどうかを査定する時というのはそう言えるのかもしれないですね はい、お墨付きで~す みたいな お坊さんはそこが終着点 あとは、それぞれの先祖の供養をしながら各檀家にさとりを通して社会を住みよいものにしていく構成員となるよう導いていくのが本来の務めで、それぞれ在家が自らを省みるための回帰点の意味も持っている ただ、それぞれの宗派がさとりに至った人そのものを既に喪失していれば客観による一致自体が単に形式だけの儀式化してしまっているというのはありえることなのかも知れない それに、本来の釈尊の導くところのものから、そもそも教祖から逸脱して仏教にもさとりを開くということとは関係なく、ただ一心に信仰すればいいという宗派も現実に存在しているのも事実ではある それでも山川草木悉有仏性という汎神性の教義によって他の生物種も含めた他者の生を尊重することが基調にあることによって、唯一神系が陥りやすい独善性が排除され、皆で誰もが住みよい社会を構成していこうよと志向するときに、宗教の持つ弊害としてあげられる排他性より他者を尊重する協調性の中に自らも生きる道を模索できるようなものにそれぞれの教義は構成されてきたと考えられます さとりを開きそこに至る道の手掛かりは別途釈尊の言葉として翻訳され製本されて誰もが手に取ってみることができるようになっているのであるし、指標は至る所にある 在家にとっては、さとりを開くというのは一通過点でしかなく、その後にくる生にさとりを開くということの本来の意味があるのであり、そこにはさとりを開いたということそのものが誰かに認定されなければならないというような必要性は何もない さとりを開いていますよっていう主観と客観の一致による認定はある宗派のお坊さんになる時以外あまり必要なことではないのではないかな ・
お礼
>さとりの何について言ってる言葉といえるのでしょうか? 心的・精神状態を言っていると理解下さい。
鈴木大拙が悟りとは、大きな?マークだといったそうです。 また、増谷文雄氏によれば、この大きな?マークが分析され整えられて悟りとして成立した、と言われています。 禅定によって、直観的に得られた真理そのものは、大きな?マークだというのです。 大きな?マークそのものは直接には表現できないが、様々な視点から客観的に示す事が可能である、ということになります。 つまり、真理とは遠回しの表現でしか言い表せないことを物語っています。 言い換えれば 「悟りとは主観によって得たものを、客観的分析により示したもの」 ということなのだと思います。 真理を分析し、分別して概念化することには限界があることから ここにおいて、主観と客観の完全な一致は無理だと思われます。 以上の解釈が、一般的な顕教の「果分不可説」というものですが 密教においては「果分可説」とされています。 >悟りとは主観と客観の一致である この言葉が仏教書において一般的に意味するものは 禅定における直観的把握において、知る働きが対象そのものとなっている、という無分別智の状態を指すことを言っているのだと思います。 つまり、悟りを得る智慧の状態を指している、というものです。 悟りを得る条件、というものになります。 条件そのものは悟りそのものではない事から、この表現は誤解を生みやすいと思います。 「悟りにおける条件とは、主観と客観の一致である」 と訂正すべきと思います。 ご参考にしてください。
お礼
回答ありがとうございます。 >禅定における直観的把握において、知る働きが対象そのものとなっている、 >という無分別智の状態を指すことを言っているのだと思います。 そうかも知れません。表題の原文は宗教者が書いた物ではないので、多少のズレがあるかも知れません。 >「悟りにおける条件とは、主観と客観の一致である」 >と訂正すべきと思います。 とても、有意義な意見。参考になります。
- ga111
- ベストアンサー率26% (247/916)
もし色即是空的な話に限りますと、個人的には、客観は存在しない。 ぜーんぶ主観である。よって存在しない客観と一致することもない。 ここで色即是空が客観であり真であるとか言っちゃうと、もともと真偽決定不可能な命題なのに、それの真偽を不正に与えているということになってしまう(論理的に崩壊)かと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 先の回答者で >悟りとは主観の"主"、客観の"客"が脱落した "観" ですね。 という意見はどう思いますか? 考えを聞かせて頂くと嬉しいです。
補足
混乱させるようであれば、ここの補足は読み飛ばして結構です。 >ここで色即是空が客観であり真であるとか言っちゃうと、もともと真偽決定不可能な命題なのに 物理の世界で、物の形を構成するはずの原子や電子等を観察するとはっきりした実態は無いそうです。 だから、理論物理学では仏教の概念に注目が集まっているというのを本で読んだことがあります。
- 雪中庵(@psytex)
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初めての方なのかも知れないので、私自身のガイドライン違反を 承知でアドバイスいたします。 >答えを深める議論なら、議論も有りだと思いますがね・・・ それをやりたいのなら、どこか別のサイトでお願いします。 禁止事項ガイドラインをよく読んでからご利用下さい。 議論は禁止されております(補足質問は別スレでお願い しますし、お礼を使っての反論も禁止です)。
お礼
過去スレを読むと、結構な数の削除されない、質問、回答のやり取りはありますよ。 内容が深められるので、見ている人も通報しないんでしょう。 それより、一切質問を受け付けないあなたへの批判は多いですよ。
補足
議論という言葉が問題なら、追加質問と再回答とかに置き換えて読んで下さい。
お礼
回答ありがとうございます。 amaguappaさんは、時折回答書き込みを見かけますが、森田への造詣も深いのには驚きました。 >自由な意見を募集してもあまり建設的ではないかと思います。 色々な意見が聞けるので、もう少し回答を受け付けたいと思います。