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意識はいつ生じたのでしょうか?
1)オギャ~と生まれた時は意識はありませんが、今はあります。 幼いある時期に意識を獲得したはずです。 それは、ある瞬間獲得したのでしょうか、獲得の境界が分からないほどゆっくりと獲得したのでしょうか?自分の記憶を遡って回答下さい。 2)言葉が無ければ、意識はないように感じますがそうでしょうか? 3)記憶がなければ、意識はないように感じますがそうでしょうか? 主に1)が質問です。可能なら2)、3)も回答下さい。
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私自身はNo.4のような記憶はなく、いつのまにか意識を持っておりましたが、ここで語られている意識はヘレンケラーがサリバン先生に教えられて目覚めたもの(自我?理性?)に近いと思います。ヘレンケラーの自伝では彼女が「目覚める」以前の記憶や感情についても多くが語られていて、それ以前にも心はあったことがわかります。質問者の方も、意識が突然に生じたことを覚えているとのことですから、多少なりともそれ以前の記憶も持たれているのではないでしょうか。 この質問を読むまで私は意識、精神、心、魂はどれも似たようなものだと思っておりましたが、「意識」は心や魂よりももっと上位に位置するのかも知れません。少なくとも心に関しては言葉も記憶も、脳さえも必須要件では無いと思っています(No.1に近いです)が、「意識」となると別かも知れません。質問者の方も心と意識を別物と考えられているのでしょうか。 デカルトは方法序説で、精神は動物には無いのだから動物と同じ物はいずれ機械で作る事ができるだろうが人間を機械で作る事はできない、と言っています。これを読んだとき、現代的常識からすれば明らかに間違いだろうと思ったのですが、デカルトの「精神」を上の意識のような意味だとするなら、(機械で実現できるかどうかは別にして)もしかして精神(意識)は人間以外には無いのかもしれないと思いました。そうだとすれば意識には言葉と記憶が必須である可能性が出てきます。 蛇足になりますが、質問者の方にお勧めしたい本があります。上記参照したヘレンケラーの自伝、デカルトの方法序説の他に、「アフォーダンス-新しい認知の理論」「ダンゴムシに心はあるのか」。3冊は古典か、定番に近い本ですが、最後の本は新刊で、今読んでいるところです。どれも安価で簡単に入手でき、うすくて読み易ので、興味がありましたらぜひ読んでみてください。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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人の意識というか、意識内容たる経験内容に関する意識と意識自体を意識することは真に氷山の水面に出ている僅かな部分でしょう。 そして人の意識とその内容たる経験内容にかんする記憶は、まことに絶え間なく移り変わり、薄れ、消滅していく。 そういうように私は考え、経験してきました。 だから回答者の何方かが仰せのように意識がないという存在はありえないということが正しいのです。 万物に意識はあります。無から有は生じない。有なるものは無になりえない。 意識を意識していられないのが人の宿命ですが、それを克服する精進と勉強もないわけではありません。 私自身は、健康のために始めたハタ・ヨガからラージャのヨガに入り、拙い精進で40数年参りましたが、自己の意識の継続は、自己の時間的継続とともに自己の枠の拡大をすることになります。 いろいろなご修行があるでしょうが、私はSelf-Realization Fellowshipという団体の勉強をしています。 先生はパラマハンサ・ヨガナンダと申されます。
- tumaritou1
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意識には二通りのものが在ると思います。一つは『自我意識=顕在意識』と言う意識です。この意識は左脳の機能分化が完成される頃、つまり思春期頃に芽生えると感じます。 もう一つの意識は、命として芽生える瞬間から働いている意識です。人間なら人間としての働きをする意識です、蜘蛛なら蜘蛛として、麒麟なら麒麟としての働きを働く意識です。 この意識は植物にも存在しています、櫻ならその種としての働きを働く意識です。櫻にも沢山の種類が存在していますが、ソメイヨシノならソメイヨシノとして働く働きです。その色として、その形として働く働きです。 この意識を『仏性』とお釈迦様は唱えています。キリスト教なら『神』と唱えている意識です。ユダヤ教では「ヤーウェ」と言っている意識です。 従って『一切衆生悉有仏性』と云う言葉を現代風に置き換えて言うならば、『一切の命あるものは、その命そのものの働きを、細胞の中に、遺伝子としての記憶として全ての働きを蓄えている』と言い換える事が出来ます。 逆説的に云うなら、人間としての苦しみとは、『神の言葉を聴けなくなる、知恵が付いた時から始まっている』ともいえます。その証拠を科学的な観点つまり脳の機能分化の完成という、その機能分化という根拠をウイキペデアから載せてみます。 ”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が『それぞれ独立した意識』を持っていることを実証した。” この研究成果を踏まえて説明すると、人間の精神性や『心』の仕組みが分り易くなりますので、この観点から説明したいと思います。 聖書における『失楽園』と言う人間界の現象は、二つの心の衝突、或は対立、或は分裂から生じ始めます。つまり『人間に知恵が付く』と言う現象は、脳の機能分化の完成を持って始めて生じると言う意味です。 つまり脳の機能が未分化の場合を『幼子』と科学的には言う事になりますが、聖書では『幼子が天国に一番近い存在』と言う記述があります。つまり『心が一つの状態として働いている事』を天国と形容していると言う意味です。 知恵が付いたと言う意味は『心に矛盾が生じ始める』と言う意味です。そうして二つになった心が戦いを始める事を『天国から追放された』と言う意味に使っています。 その意味するところは、『顕在意識たる自我意識が圧迫を受け始める』という意味です。自我意識の何処に圧迫を受けるのかでその、症状群或は、病床群、或は救いを求める所が替わります。人生に救いを求める所が、『昔は病院としての機能がなかった頃に宗教に救いを求めていましたが、今はすっかり宗教に救いを求めなくなった』という現象が、今世界中で起きている事に顕われています。 人間の『意識』に圧迫が加えられる事を、科学が発達していない昔は『罪の意識、或は業』と表現しています。つまり『生き難い想いが、何処から来るか分らない』=『漠然とした不安』の事を総称して『原罪=業』と表現しています。 今は科学が発達して『人間が利口になったつもり』から、宗教が科学的ではないと判断をして、その利口になったつもりで、人間は医師の元にはせ参じています。その証拠が宗教離れが進んで、精神科医達や、医師が繁盛している現象になっています。 迎え入れる医師たちは『精神を病む、或は神経症、或は自律神経失調症』の原因は未だ解明されていませんが、早く治療をするなら治ります。と答えています。原因が分らないにも拘らずです。 従ってその治療成果が『寛解』という現象になっています。寛解という意味は小康状態と言う意味があります。何時ぶり返すか分からないという意味にもなっています。何故ならその原因を究明出来ていないからです。 原因が分からない事から、完治を打ち出せないという意味です。 ですが、人間の『意識』に圧迫が加えられる事を『精神を病む、或は神経症、或は自律神経失調症』と言っているという本当の意味は『心の矛盾』を人間は感じているという意味です。 その心の矛盾を、何処に感じているのかがその分かれ道になります。 『心』に感じている場合を『心を病む』と表現しています。行動に感じている場合を『神経症』と言っています。身体的に感じている場合『自律神経失調症』と表現しています。 もっと具体的な表現をするなら『心の健康を疑う場合を心を病む』『自分の行動を疑う場合を神経症』『自分の身体の健康を疑う場合を自律神経失調症』と表現しています。 この三つの症候群の原因が分かっていないと今の医師は考えています。そうして宗教家達も同じ見解です、何故ならその改善を促すところが存在していない事実が証明しているからです。 ですが、これ等の症状群の完治は、とうの昔に人類は完成させています。その成果を宗教として後押しをしてきたという、宗教文化の発展が物語っています。今の頭だけが良い、賢い人たちはすっかり忘れ果てているだけです。 人間は『心の矛盾』を解消する術を忘れています。その証拠が『寛解』と言うものになっています。 心の矛盾とは、『二つの意識のすれ違いです』或は衝突です、或は対立と分裂です。学ぶ事で解消します。 もう一つの意識とは、『自分自身の働き』です。その意味するところは『自分心の健康を守ってくれている者』『自分の行動を替わってやっている者』『自分の身体の健康を保ってくれている者』です。 自分自身を疑う事が原因です。その証拠は、自分自身の疑いを晴らす事が完治です。それが『悟り』です。キリスト教的な言い方をするなら『(内在する自分自身の)神と和解する』と云う事になります。 その科学的な証拠を再掲します。”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が『それぞれ独立した意識』を持っていることを実証した。” この二つの意識の間にホットラインという情報伝達処断を構築できた事を『悟り』と表現しています。是以後『心の矛盾』が解消される事を意味します。 飽く迄も心の平安が維持出来る現象です。心の中が静まり返っている現象です。心に静寂が訪れます・仏教的な表現をするなら『涅槃』です、成仏です。キリスト教的な表現方法を取るなら『神と和解する』です。心的な内容、或は意味は同じです。 従って、 1)オギャ~と生まれた時は意識はありませんが、今はあります。幼いある時期に意識を獲得したはずです。 この答えは脳の発達状況によっています。 2)言葉が無ければ、意識はないように感じますがそうでしょうか? 言葉を使う脳の成長の度合いによっています。右脳からの情報を『言葉に翻訳をして』自我意識は感じています。 3)記憶がなければ、意識はないように感じますがそうでしょうか? もう一つの意識は『無意識の時の自分の主人公』です。無意識を人間は意識できないようなシステムの中で人間は生きていますが、無意識の自分の頭の中は無限大の記憶の宝庫になっています、その記憶には未来の記憶も含まれています。絶対に消し去る事が出来ない過去と未来の記憶です。この永遠性を体感する事が悟りの実態です。
- 雪中庵(@psytex)
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あなた自身は、赤ん坊の頃の記憶はありますか? 意識とは、脳の神経線維のネットワークであり、ある瞬間にパッと 生まれるものではなく、徐々に深まるものだし、犬や牛にも、 それなりに(希薄ながらも)あります。 言葉は、意識=外的存在の認識において、それに与えられる 符号であり、その逆ではありません。 記憶には、狭義の記憶=後から思い出せるものと、脳の神経 繊維のネットワークに刻まれるような潜在的なものがあります。 前者はなくても意識を保ちえるのは、過去を思い出せない疾病 に見られる通りですが、後者(新たな刺激に対する過去の経験 の蓄積の射影)こそ、意識の持つ意味性の本質であり、これ なくては、脳の作用は単なる条件反射に留まります。
時間の仕組みがわからないので答えようがない と答えます
- carob
- ベストアンサー率36% (27/75)
1)脳(体もですが)の成長と共に自我が芽生えるわけですから、徐々にだとしか考えられないと思いましたが、質問者さんは「意識は突然に生じました」ということなので、脳がある程度成長するまでは眠っているような状態で意識がなく、ある段階で突然目覚めるということもあるのかななんて考えてみました。 確かに記憶をたどると私にも一番古い記憶があり(おそらく誰でも)、それを意識の生じた瞬間と考えられなくもありません。 泣いたり笑ったりミルクを飲んでる赤ちゃんや幼児は意識があるように見えていて、ただの条件反射だったり、寝言や夢遊病者の行動と同じ様なものかもしれないと。 ただ人間の記憶があてにならないのも事実ですから、突然意識が生じたという記憶も本物かどうか確かめようがありません。 世の中には母親のお腹の中にいるときの記憶があると言う人もいます。 忘れてしまったことと意識がなかったことは同じではないので、いくら過去を思い返してあれこれ考えてみても机上の空論でしかないですね。 2)言葉と意識は関係ないと思います。 ケガや病気によって脳に障害を負い言葉(話す、聞いて理解する、読む、書く)を失った人にも意識はあります。 それから19世紀の西ドイツで、生まれてから十数年間ずっと小さな部屋に一人監禁され全く教育を受けずに育てられたカスパー・ハウザーという少年がいたのですが、その間一切人と会うことが出来なかったので言葉を話すことも理解することもできなかったそうです。 発見されたとき人間らしさはなかったそうですが、その後少しずつ言葉を覚え過去のことも話したそうですから、言葉を覚える以前も意識はあったわけです。 三重苦を抱えたヘレン・ケラーだって、アン・サリバンに出会うまでは言葉を知らなかったわけだけど、意識がなければアン・サリバンから何も学べなかったはずですから、やっぱり意識はあったはずです。 3)先ほども述べましたが記憶と意識も直接の関係はないと思います。 生後間もない時期は別問題として、質問者さんは幼い頃から今に至るまで全ての記憶がありますか? 一週間前のことでさえ、一日何をしていたか全て記憶が残ってる人などいないはずです。でも忘れてしまっただけでその時は意識があったはずですよね。 前向性健忘の人にしても新しいことが覚えられず、ほんの少し前の記憶すら完全に失い、健忘になって以降の記憶はほとんどからっぽの世界で何年も生きなければなりませんが、本人は忘れていてもその時々で普通に自分の話をし、相手の話を理解し笑ったり、時には自己について悩んだりしています。 質問者さんの疑問を勘違いしてしまっているでしょうか、逆になぜ記憶がないと意識がないように感じたのか興味があります。 もし一瞬も記憶を保てなければという意味なのであれば、当然意識は生まれないと思います。悪魔の数学のような話です。
1)これは私についてはいやにはっきり覚えています。いつだったかが分からないのですが、多分4歳から6歳までの頃だったと思います。突然「自分は他人と同じように生きているひとりのフツーの人間なんだ」と意識したのです。ある閾値をこえて急に来た様な体験でした。 なにげなく鏡を見ていたのが、これが自分という物だ、醜い奴だと思ったかどうかは覚えていませんが、嫌な感じがしたのも覚えています。 自我の始まりだったと思います。 A 祖父の前で「人間は不思議や、不思議や」と言った時期がそのあとに来ました。 どんなことを不思議だと言っていたのか、よく分からないのですが、事実です。 2)、3) 今から考えてもその時には(当然ながら)しっかりした哲学的な思考力はうまれてはいませんでしたし、もちろん自我と言うような言葉もずっとあとに知りました。それで、私の体験は特殊なものかもしれないとも思いますが、自我という意識は、頭で考えるかぎり言語的科学的な論理的思考(同族的社会の中で客観的に他人と自分を見比べてそれぞれを同等に評価する)から生まれてくるものだと思います。 いわゆる自我のアハ体験と言うものがあるとすれば、そこに至るまでの何らかの(意識無意識に関わらず)疑問が堆積していて、それが急に解けるというものなのでしょう。でも、自我が生まれたあと、それまで自分がどういう風にこれについて考えていたのかという記憶がまったくたどれなかったことも確かです。 A がその前からあったことならつじつまは合いますが、そうでもないようです。よく分からないのですが、ひょっとしたらその前から自分への疑問そのものはあったのかもしれません。
- jimmy12
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意識にもいろいろあるんじゃないですか? 「自意識」自分で自分を見ること考えること。 「美意識」自分なりの美しさを追求考える。 様は、自分からの何か(「明らかに意識してOOした」等)を気にしてるんですね。 と言うことは、アイデンティティの確立時に「意識」も確立することになり、「意識」は理性と言うことになるので、生まれた時から有るのでしょう。 良く考えれば、「無意識」が本能的(「無意識に除けた」「本能的に除けた」)なんだから、「意識」は理性的なのが普通ですね。
お礼
回答ありがとうございます。 質問の「意識」とは「自意識」を指していると考えて下さい。
自意識というものなら、やはり物事に疑問を示し始めた時期かと思いますね。なに?なに?坊やっていうんですか?見る物全てに説明を求める時期ですね。 記憶を辿ると、車のタイヤに興味津々だった頃が私のそれにあたりますね。質問ばっかりで親もさぞ困ったことでしょう。 それ以前のものは、積み木遊びにしても無意識でやってた気がします。自意識獲得後は、積み木にも一定の秩序が生まれたかと。 映像認識能力はは幼少期3歳位までに脳で構築されるそうです。それ以前に失明すると、仮に後に見えるようになったとしても、映像を脳が処理できず、結局盲人のような状態になるそうです。特に3D認識が困難で、段差が認識できないから転ぶとか(聴力についても同じ事が言えるそうです)。 映像は脳の処理の7割以上を占めていますから、やはり視覚情報の処理が確立しはじめる時期までは自身と外界の区別がイマイチついていない可能性はあります。胎内ではまさにそうですからね。
- dondoko4
- ベストアンサー率12% (1161/9671)
意識があるから生きているんです。 意識のないのは死んでいる。 植物人間も、意識がある。記憶も言葉もないが確実に生きている。自力ではないが。
お礼
回答ありがとうございます。 アメーバーにも、粘菌にも珊瑚にも意識があるんでしょうか? 新しい考えですね。
お礼
回答ありがとうございます。 自分の場合も、意識は突然に生じました。それは、はっきり覚えています。 自分だけの特殊な例なのか、他にもその様な人がいるのが知りたくてこの質問を立てた一つの目的です。 意外と、意識って突然現れる物だが、多くの人は突然現れたことを忘れてしまっているんじゃないか? そう言う気もしています。 参考になります。 ありがとうございます。