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『絶対的な叡智』の悟り
エデンの園で『善悪を知る木の実』を食べますと、(【本音と建て前】の都合で)判断が相対化され得ますので、【絶対的な叡智】からの乖離を防ぐ為に、神はそれの摂取を禁じたのだろう、と考えられますが、そう考えています内に次の疑問にぶつかりましたから、教えて下さい。 Q:「【絶対的な叡智】は、価値判断を介さず、暗号の様に、【無心状態】の者達によって直観的に閃かれるのでしょうか?」
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私の勝手な解釈ですが。 人間の脳は、本能を司る旧い部分と、理性を司る新しい部分 とからなっています。 この新しい部分こそが人間を人間たらしめている訳ですが 知恵の実を食べた、ということは、人間には理性が備わった ということだと思います。 そして、人間の悩みは総てこの新しい部分に起因する ものです。ミミズは悩んだりしないでしょう。 知恵の実を食べて、人間は初めて、死の存在を知りました。 そして、死を怖れるようになりました。 京都大学でチンパンジーを研究しているグループがおりますが、 そこの責任者によると、チンパンジーの記憶力は一部人間を上回る。 数も解るし、人語もある程度解することができる。 ただ一つ、人間と異なるのは、チンパンジーは将来を考える ことが出来ない。 だから悩みはない。 人間だったら自殺するような眼にあっても、ケロッとして脳天気に 過ごすことができる。 私は、旧い脳は神によって与えられた部分であり、新しい脳は 人間が勝手に発達させた部分であると考えています。 事実、よく勉強したり、考えたりする人は、この新しい部分が 発達しているそうです。 そこで私の勝手な回答ですが、絶対的叡智が旧い部分を意味する ものであれば、価値判断を介することはない、ということに なると思います。 それこそ、機械のように外部信号によって、自動的に反応する だけとなるでしょう。
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- BuffaloAndJtp
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他の方が既に此処で仰って下さっている通りに、 【無心状態の閃き】は衝動的な振る舞いと直結していまして、 ストアドプログラミング方式になっていますね。
お礼
http://okwave.jp/qa/q6902888.html 此方でも御教授を賜れますと幸いです。
補足
自己目的的な手段とは違うのですね。
- tumaritou1
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『善悪を知る木の実』を食べると言う意味は、我流ですが?脳の機能分化が完成すると言う意味があると考えられます。 ひと頃もてはやされた右脳左脳の研究成果に、右脳の機能と左脳の機能には根本的な違いがあり、更にその二つの意識は『全く違う人格である』と結んでありました。 この研究成果を今の人は『嘘のように解釈していますが』事実を事実のままにその成果を発表したと考えられますので、その成果を元に『絶対的な叡智』の悟り を組み立ててみたいとい思います。 悟ると言う意味は、『自分自身の働きの意志』と出会うと言う意味があります。言葉を替えるなら『自身の中の二つの人格が、出合うという意味です』ですが人間は誰も自分自身は一人しか存在していないと感じています。 ですが『東洋の思想』の中には『無』と言う概念が存在しています。人間の『自我意識』が介入しない『無為自然』と言う思想です。 そうして若き道元は『一切衆生悉有仏性』と言う意味を知りたくて、仏門に入ったと記されています。全ての人が持っていながら、修行しないと分からない存在とは何か?という素朴な疑問と言う意味です。 お釈迦の言う『一切皆苦』或は、悟りを得るには『死を思う事が大前提』と云う言葉を見た事があります。普通一般では『苦が在れば楽がある』或は、『明けない夜はない』と言う考え方です。この意味は健常者の考え方です。 『一切皆苦』と言う意味は『意識地獄に陥った考え方です』今で言うならば、精神疾患とも言える事に感じます。或は『死に対する恐怖症』いわゆる「ノイローゼ」になった状態と考えられます。 このノイローゼの状態と、エデンの園で『善悪を知る木の実』を食べたと言う意味が重なっていると思います。何故ならば、失楽園の反対は『天国』と云う事になるからです。そうしてその天国に一番近い存在を『幼子』と書いて在るからです。 幼子と、大人の違いは『脳の機能が未分化か、或は分化が完成したのか』と言う違いがあります。その分化と云う意味は左脳の機能と、右脳の機能の分化が完成したと言う意味です。 癲癇治療の目的で左右の脳を繋いでいる脳梁が切断された大勢の人達を対象にして、数多くの実験結果から導き出された結論です。 誰でも右脳と左脳を繋いである脳梁を切断した場合には、左脳に一人、右脳に一人『全く別な機能を持った人格が存在している事』を多くの実験結果が証明しています。 子供が天国に住める理由は『心が、脳の未分化によって、未だ一つしかない』と言う意味になります。大人になる頃つまり思春期頃、脳の機能分化がほぼ完成に近くなる頃に、『二つの脳の人格が、別々になって働き始める事』を意味します。 その別々になった機能(人格)がお互いに矛盾を起したり対立したり、分裂した場合その程度に応じて、悩む苦しむ事、或は心を病む事、或は精神を病む事になると感じます。 左脳の機能は『五官から入る情報を言葉に置き換えて(翻訳をして)自我意識として感じている機能です』 右脳の機能は『五官から入る情報をそのままダイレクトに左脳に送っています』その送る情報とは、『自我意識に感情が湧き上がるための情報です。』高い所の場合ではその高さに応じた感覚で、狭い所でも同じです、スピードを出した時はそのスピードに応じた感覚で、納期が迫った場合や、時間が迫った感覚など、自我意識には『何処から送られているのか分らないけれども、身も心もその者からの情報を感じています。 身の毛もよだつような場合、右脳からの情報を自我意識も身体も受け取っている事を意味します。 思春期頃に二つになって分かれて働き始めるもう一つの人格は『意識の根底に封印されてしまいます。』意識の根底と言う意味は『無意識の底に沈みこむ』と言う意味です。右脳の意識は人間の記憶が刷り込まれた存在です。 桜の花がその遺伝子のお陰で、親の代と同じ色と形を保存する働きです。麒麟には、その麒麟としての『働きを』脳に刷り込まれて生まれています。全ての生きとし生きるものが、過去からのその情報を刷り込まれて生まれています。 人間も例外では在りません、細胞分裂から始まる『命そのものの働き』を働くその働きを右脳に保存されて生まれていると考えられます。その働きは命そのものを直に働かせる働きとも言えます。 危険が迫った場合では『自我意識』をそっちのけにして働きます。この場合『思わずにとか、我を忘れて』と形容しています。ホルモンの調節や腸などや、心臓や肺など生命活動に関する全ての営みを『他の動物と同じように』働かせています。 汗を流す仕組みや、血管を収縮させる働きもその者が一手に握っています。目にゴミが入りそうな場合『意識ではとても出来ない速さで』体を自由に動かしています。 その者は『体と心』を両方とも自在に出来る機能を持っています。そうして人間の行動も自在にしてくれています。 ですがその働きが自在になる時とは『自我意識が意識しなくなった時の事です。』人間の意識が『生きる事を邪魔する場合があります。 大きく分けるなら、 I『心に関する場合』人間の意識がその者の存在に違和感を抱く時です。その者に交替している間は『心は休まっています』ですが、その者の存在自体、或はその者の情報、或はその二つの事に『違和感を抱く場合です』 二つの意識が交替制によって成り立っているそのシステム自体に違和感を抱く場合、無意識に交替することが出来なくなる場合があります。その場合を『意識地獄』『一切皆苦』と言う世界になります。この場合『元のような上手く行っていた状態を取り戻すべく、自我意識に働きかけています』この情報を理解出来なくて、受け取ろうとしない事が『生き難い想い』となって、自我意識は圧迫と感じています。心の健康がなくなったという勘違いが生じています。 II『行動に関する場合』行動が出来なくなったと思います。何をするにしても力を入れて計らいや、『意識しながら行動をしようとしています』行動の自由や心理的な自由が束縛されたと感じて、事実身体も心も自由になり難くなります。神経症の症状や病名が当てはまりますが、全て『意識した事』がその病名や症状名に当てはまります。 III『身体に関する場合』体の機能が正常には働かなくなったと勘違いが生じます、実際では検査をした場合異常がないにも拘らず、意識が頭の中に異常な感覚を作り出しています。この場合を『自律神経失調症』と呼んでいます。 どちらの意場合も、自身の心の矛盾を違和感として感じて、症状らしきものにまで高め?(大きく)ています。 これ等の障害の完治を『悟る』と言います。自分の感情を湧き上がらせていた者の正体がわかると言う意味です。自身の命の働きの意志と仲違いしていた事を知るという意味です。 自身の心の内部にその原因が在るのを『うすうす気が付いている場合』その事実を神経質と言っています。或は不安になり易い性格と言う言い方も出来ます。 悟る瞬間と言う場合、『意識の根底で交替が成立するその刹那』二つの意識が『同居している場合が在ります』その時には、『今さらお前は誰かと聞く必要などはなかった事が分ります』 その経験以後二つの意識の間には『ホットラインが構築されています』幼子のように『心は一つのものとして働き出します』交替する時の軋みがなくなるという意味です。 心の矛盾が解消されたと言う意味です。キリスト教的な言い方をするなら『神に会って和解する』と言う意味です。二度と心は争わなくなると言う意味になります。強迫観念がなくなると言う意味にもなります。 心が限り無く平和になって、静寂を取り戻す事を意味します。涅槃と言っても、神と和解するといっても、その心的な意味は同じです。右脳の意識と左脳の意識の間にホットラインが構築されたと言う意味になります。それが『悟り』です。 感情を湧き上がらせる方の意識(命の働き)を立てて、自我意識が一歩引く、生き方をするようになります。言葉を替えるなら『神の僕となって生きる』と言う意味になります。 自我意識が一歩も引かない生き方の誤りが『不眠症の原因や神経症が治らない事の原因です』自我意識の機能には身体を健康にする機能は入っていません。 心も身体も行動でさえも『自我意識が介入した場合、もう自由はなくなっています。』我を忘れた時、或は無意識の自分に任せた時『心も身体も行動でさえ』自由に出来るようになります。 意識がでしゃばらない様を、『我を捨てよ』と言っています。それは欲しがらないですっと手に入れよ!と言う意味です。欲しいと言う意識が人間の本当にほしい物を遠ざけてしまう場合を言っています。
お礼
これと関わっている質問を別のページ(http://okwave.jp/qa/q6884638.html)にもスピンオフさせて頂きましたから、其方でも御教授を賜れますと幸いです。 因みに、色々な場所で引用なさっている分離脳の話題は何故に現時点で批判されやすくなったのでしょうか?
補足
丁寧な解説は非常に有り難いと思われますが、内容を主観的にややこしくしていらっしゃいませんか? 達人の方々の危機回避能力は【無心】によって半自動的に発動されていますので、小規模集団の建て前的な価値判断への依存は『先の先』の発動を邪魔しやすいと考えられますから、不完全性定理からも窺われます通りに、分別の尺度の学習的な取得が望ましくないのでしょう。
古典的な解釈に推測を加えてみます。 瞑想の段階は、八種あり、前段の四種は静慮といわれているもので色界を観察するものとされています。 後段の四種は等至といわれているもので無色界を観察するものとされています。 さらにその上には想受滅といわれる、精神活動がすべて停止する境地があるとされています。 釈迦が出家直後に師事した二人の仙人は、第七及び第八段階に到達していたとされています。 釈迦が瞑想のどの段階に於いて悟りを得たのかは伝えられていませんが、直観によるものであったと推測されています。 この直観による智慧は、無分別智ともいわれているもので 知る働きが対象そのものとなっている状態であるとされています。 分析や価値判断という働きは分別智であり、直観の後にくる働きです。 始めに直観による把握があり、その後に分析的思惟によって整えられて、悟りが成立したとされています。 以上が古典的解釈です。 私達が脳裏に閃くといった段階によるものは、真理を悟るほどの直観の働きとは、あまりにかけ離れているのではないでしょうか。 仮に閃きであったにしても、主観の全てを覆い尽くすほどの閃きを得るという体験をしてみなければ分からないものと思います。
補足
有り難う御座います。 『無分別知』の考え方は此処の質問への適切な回答だ、と思われますので、そういう解説を賜れまして非常に嬉しいのですが、次の疑問が残りましたので、畏れ入りますが御伺いを致します。 武芸の達人の方々が先の先で危機回避手段を突発的に見出す、という【無心】の在り方は、真理の悟りと疎遠なのでしょうか?
絶対的な叡智(一切知)は、閃いたり、目覚めたり、得たり、知ったりするものではありません。悟りとは、価値判断の正体を見極めたり、絶対的叡智そのものに立ち返る事であり、無心はその結果として達せられる(立ち返る)ものです。 悟りの世界は、既存の価値観と似通うものや、相対化する(比べる)ものがないので、いくら考えても理解する事は出来ません。また、我々が叡智を手に入れるのではなく、叡智が我々を手に入れるので、「叡智を知る者」は居ません。故に不可知です。
補足
有り難う御座います。 無心状態ではアウトバウンドの能動的な思考が停止されていて、寧ろインバウンドの感受性が高揚していますので、其の御蔭で達人の方々が周囲からの不意討ち的な殺気を予測し得る様になっている筈ですから、それとの違いの有無を知りたいと願いまして、此の質問を試みましたが、質問の内容が複雑過ぎますでしょうか?
補足
有り難う御座います。 仰る通りに、【無心】の危機回避機能はロボット的な働きですよね。 従いまして、其処の環境が与えてくれ難い情報の模索の為には、たとえ分別・分析の尺度の機能の限定性が露呈し兼ねないとしましても、それの採用による自立が必要になるのでしょう。