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正しさを言い切る根拠について
私はこの世界において絶対的な善や正しさ(誰がどんな価値観で見ても、どんな状況においても完全に善であるということ)は実はあるにしろそんなものは無いにしろ、なんにせよまだはっきりしていないと思っています。なので正直、あれが正しいこれは良いことだ、という言葉には「(個人的に)あれが正しい(と思う)」「(私が思う限りの社会において)これは良い(と私は思う)」という内容が常に付いて回るように感じています。あらゆるものに影響されない絶対的な価値の存在がはっきりしない以上は、価値はその場その状況により影響される人間の、さらにその価値観によるある種の偏見にも左右されるような相対的なものでしかない。…という考えもやはり絶対的である根拠はないので、全く個人的なものであるのですが。とはいえもし絶対的な何かがあったなら、絶対的であるが故にすべての人がなんの疑問もなくすんなり受け入れているように感じますが、その様なものは思い浮かびません。あらゆる価値にあらゆる疑問がついているように思えるのです。 個人的な見方による(視点が自分にあるにしろ、擬似的に集団にあるにしろ)善悪判断しか今のところ無さそうだ、という意見とは別に、誰か他の人間に対し「これが君にとって絶対正しいんだ」、と胸をはって言い切る人は珍しくありません。いうなれば、「これはあくまでも私個人の善悪判断でしかない(絶対的ではない)」という前提が薄い、あるいは無いというのか。それというのは、例えばどういう根拠からそういった正しさの確信を得たのでしょうか? それとも、善悪に根拠などなくてもいいのでしょうか。それはなぜでしょうか?
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- unko789unko
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それは、お前らには正しさの前提とする定義がないからだよ。 それがなけりゃ答えなど無いに決まってることを馬鹿みたいに永遠に論じるしかない。
再度お邪魔します。 ちと詳しく言います。 多分、人は3種類に大別できると思います。 1,絶対価値を信用できない。 2,胡散臭いと感じている。 3,絶対価値を信じて疑わない。 太平洋戦争下の日本を例にしましょう。 絶対価値は、天皇陛下です。 1の人は、非国民扱いです。今の時代から見ればナンセンスですが、これを貫き通した人は、極少数です。 2の人は、疑問を抱きながらも、いろんな理由から、それに従って、戦争に参加しました。大多数がこれでしょう。 3の人は、天皇陛下の為に生きて死ぬ、と言う価値にどっぷり浸った方たち。所謂、軍国少年です。これも少数派かな? 問題は、2の人の幅が広い事です。 家族の為に、天皇陛下万歳!で死んでいった方もいれば、天皇陛下万歳!で部下や住民を無駄な死に追いやった方もいます。 何を感じ取るかは、個人の感性で、千差万別。 感じたものをどう扱うかは、個人の生き様で、千差万別。 感性に善悪もないし、優劣もないでしょう。 生き様は、自分で責任取らされますからね、最後には。 人は、世の中を見て、自分の感性を磨き、自分の生き様の覚悟を据えていくものだと思います。 個人的には、絶対根拠とかは怖いですね。戦争、魔女狩り、ホロコースト、全て絶対根拠の下で起きてます。 どうしても、誰かを殺さなきゃならないとしても、絶対根拠の為ではなく、個人的な理由を探したいです。
- NemurinekoNya
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《正しさを言い切る根拠》は、結果でしょ。それも目的論的な結果。結果が正しければ(目的に合致していれば)、その出発点である仮定や根拠が正しかったとみなされる。 自然科学では、結果の予測や現象の説明という目的にかなわない理論は、その体系がいかに整然とし首尾一貫していても、何の価値もありません。 結果がすべて。結果を伴わない空理空論をいくら唱えても、実社会においては無意味だと思います。 ところで、 懐疑主義は哲学の出発点ですが、懐疑主義からは何も生まれませんよ。 また、《絶対》や《絶対的な》という言葉を濫用するのは、正直、感心しません。もし、《絶対》と言えるものがあるとすれば、それは《神》のみでしょう。わたしたちは、相対的な世界に生きているのですから、価値観をはじめとして、その相対性を前提にして議論をしなければならないのではないでしょうか。私たちに言えるのは、どちらがより目的にかなっているのか、正しいのか、くらいだと思います。
- freulein
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余計なことを申し上げます。そのようなお人に対して「どんな根拠を持ってそのような強い主張をなさるのか?」とお考えになるのをちょっとだけ止めて、「どんな目的を持って、そんなに断定的な物言いをなさるのか?」とお考えになっては如何でしょうか。それなら多分かなりはっきりした回答が得られるでしょう。 「私の主張にケチをつけるな。私の主張に従え」が目的でしょうね。
- 来生 自然(@k_jinen)
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何らかの「善・悪」といった価値判断がなされるとき、必ず「○○にとっての」といった限定がかかります。同様に「○○といった条件の下で」といった限定が、必ず付きまといます。これらは通常、暗黙裡の内に想定されていたり、共同体内部で共通認識されるゆえ(空気みたいな)「当たり前なもの」として無意識レベルにあったりします。 そういった意味で、「絶対的はありえず相対的」という認識がなされるでしょうが、逆説的に言えば「○○にとって、○○といった条件の下で」の「善・悪」は、そういった前提条件を共有する集団内部では(ある意味)「絶対的」になりうるわけです。 では、「○○にとって、○○といった条件の下で」というものがまったく無い状況は想定されうるでしょうか? 「人間にとって」 「動物にとって」 「植物にとって」 「地球の北極という条件の下で」 「1900年の日本という条件の下で」 「火星という条件の下で」 価値判断が存在するためには、価値判断が必要な認識主体があり、上記のような制約は認識主体が存在する限り、その存在条件そのものが相当するのではないでしょうか?
- hanniyagi100
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言い切るとは、言葉による表現であり、多くは、思惑が含まれている。言ったから、当人がそう思っている、認識と表現が一致している、とは限らない。これが正しい。と言い切る、とは。本人はそう信じている。場合もあれば、相手にもそう思わせよう、思わせよう、という思惑が強い故、の場合もあります。 人の失敗やミスばっかり取り上げ、あいつは馬鹿だ。としょっちゅう言っている者を知って忌まず。 結局何が言いたいのか。人を馬鹿だと言う、のは、自分は利口だ、と言いたい、そう思わせたいだ、の事でしかない。また、あいつは利口だ、頭がいい、と評価している時も、やっぱり、自分はあいつの利口さが判る、ほど利口だ、頭外衣のだ、主張しているに過ぎない。としか思えないのです。 人を誉めたり、けなしたり、するものではない。とは、釈迦も老子も言っているようです。 ・・と悟った者は、世間の非難と賞賛を無視する(釈迦) 大器晩成、大き過ぎる器は形が見えない。人間も世間から非難な賞賛を受けるようでは、たいした人物ではない。(老子) その「老子」が 人々は善は善だと考え、善が悪であることを知らない、美は美であると考え美が醜出有ることをしらない。、、・・これら、二つの概念は、互いに対立し規制しあいながら、一つの統一体となっている。 つまり、善がなければ悪はない、愛がなければ憎はない、正しいがなければ、間違い、はない。 これら二つの概念は表裏一体として、一つの思惑、である。 これが善だと思う者が、その反対、逆のものを悪と名付けるのです。 人を愛する心が人を憎む心であり。人を愛さない者が人を憎む事はないし。 神を信じる者は悪魔を信じるのです。 老子の基本的考え方は いわゆる 道(トウ、世界の在り方、起こり方の法則)は道にして常の道にあらず、名は名にして常の名にあらず。 善に置き換えると 善=善 では。善-善=0 となり、何も起こらない。概念としても存在にならない。 善× (1/善)=1 となって1(イツ)なる存在単位となり。 この 1/善 が、悪、と名付けられるものとなる。 という考え方です。 と言い切ってはいけないのかな? しかし、いちいち、と思う、と考える、私は、などと書くのは。面倒だし、そんなのは当たり前、なのでは? 老子が出てくる、古典に(烈士?} 子供の頃は優秀な子であったが、長ずるにつれて、何でも世間と反対の認識を持ち主張するようになってしまった。父親は困り果て。識者に相談したところ。魯の国(孔子の出生地)には高名な先生が多くいるそうです。相談に乗ってもらったらど゛うでしょう。と言われ。 父親は、旅支度をして出かけた。 途中、荷物を広げて休んでいるところへ。老子が通りかけ、そんなところで何をしている。と声をかけられ。訳を話すと。老子は 何が正しいかなど、誰に判ると言うのだ、私にも判らない。ましてや、魯の国の先生の言う事など、 出鱈目もいいとこなのだ。行くだけ無駄だ。さっさと荷物をまとめて、帰れ帰れ。と言った。 道家、道教、が非難する、孔子の思想(儒教)は。あるアメリカ人が、 インディアンの酋長のお言葉、と評していますが(孔子も西洋思想には言われたくない?)。 かく有るべし、の形而上学であり。 学問によって、人の思想を集めた、知識、が認識なのであり。認識以前の、知恵、何故そうなるのか、 の考え方、つまり、哲学、方法論、がないのです。 「明日に道(トウ)を聞かば、夕に死すとも可なり」と論語にあるように、道(トウ)が全く解っていない のです。 しかし、それが、アリストテレスの、形而上学(概念統一、は考える事を放棄させ、知恵を知識に置き換える、知恵の消滅の意味があります) から、キリスト教形而上学、スコラ哲学、となり。知恵の暗黒、ヨ-ロッパの中世、が千年以上続く事になります。現代日本人は形而上学の知識を、正しいと受け入れ。愛とは、神の実体、とはなどと、スコラ哲学、を、 哲学、だと思っているようです。ギリシャ哲学に、神や宗教を論じたものは、全くと言っていいほどないはずです。哲学と宗教は、反対のもの、なのです。昔見た、日本の国語辞典には。 真理とは、対象と認識の一致である。(スコラ哲学の定義)と載っていました。 アカデミ-な知識、定義、を学校で教えるのは、仕方のない事でしょうが。 道教民族、と評された。かっての日本人は何処に行ったのでしょうかね。
- shift-2007
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絶対善はありますよ。 http://okwave.jp/qa/q6178389.html
- Mokuzo100nenn
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正しいというのは、ある基準に照らして、基準に合致している状態を言います。 例えば英国ではクルマは道路の左側を走るのが正しいが、米国ではクルマは道路の右側走るのが正しいというようなものです。 人が正しいと言うとき、あくまで暗黙の基準(上記の例の道路交通法)に依拠して正しいとか正しくないと言っている訳であって、絶対的基準なるものを仮説して話しているわけでありません。 絶対的基準が無い=全く個人的なものである、という極論はいけませんね。 実際のところ米国でだけ通じる相対的な道路交通法でも3億人に共通する訳ですから、「全く個人的なもの」であるケースを探す方が難しいと思います。
- wiz0621
- ベストアンサー率42% (182/430)
基本的に、人は水面に立つことができません。 もし、両足をささえる土台が水面の如きあやふやなものであれば、 そのまま沈んでしまうでしょう。 では、水面に船をうかべればどうでしょうか? 地面と同じく、人は船の上に立つことができるのです。 根を張る土台ではありませんから、確実とは言えない。 しかし、人の世を収める器としては充分なほど確実と言える。 人の世が呼ぶ確実とは、つまりこの船のごときものであるのです。 船は嵐や事故で沈む不確実性を内包していますが、 船乗りは、確実に船の上で立つ方法を知っているのです。 ですから、こういった船乗りの助言を 水面に立つ術を知らぬ愚かなものと断じるのも自由ですが、 船の上での生活方法についてよく聞き、酔わずに立ち続けることにも、 意味があると思うのです。 もちろん、その上で船が気に入らないならば、火をつければ簡単に沈めることができるでしょうね。 そのとき、新たな船を用意できないのであれば、あなたごと沈むことにはなるでしょうけれど、 まぁ、それはそれで面白いんじゃないでしょうか。
どの地域・人種でも共通して「悪」とされるものの中に、殺人・盗み・強姦・放火・・・などがありますね。ですから、たとえ文化や言語が異なっていても、人間にはある程度共通の価値観が存在します。では、その仕組みは? 要するに、「他の人の正当な権利を侵害する行為」、これが悪と言えます。 また、善とは、「他の人の福祉に貢献する行為」と言えます。 悪人は自分の利益を優先させ、実現させるために、他者の正当な権利を侵害し、つまり、命や財産を奪ったり、だましたり、利用したりします。 しかし、他者の正当な権利を侵害する悪人は、社会的なペナルティーとして、その悪人自身の正当な権利・自由が拘束されます。つまり、罰金・投獄などによって。 ですから、この社会の秩序は、他者の正当な権利を尊重する(侵害しない)ことにより、自分の正当な権利が保障されている、相互信頼に基づいているというわけです。 しかし、個人や組織によって善悪の基準が異なるのは、その個人・組織の思惑が関係しているからです。彼らは自らの理想や主義、目標などを遂げるために、たとえ他者の正当な権利を侵害するとしても、それは正当化されるという論理を展開します。 善悪の基準はいたってシンプルです。しかし、人間は自らの欲望とその基準が矛盾する場合に、後者を切り捨て、こうして、「善悪の基準などない」、「それは相対的なものに過ぎない」と主張します。 ですから、心の純真な人ほど、利己的な欲望のない人ほど、その善悪の基準に基づいた生き方・考え方をします。しかし、正直者は馬鹿を見るというのは、長い目で見ると真実ではありません。悪を犯す人は、つまり他者の正当な権利を侵害するわけで、結局、そのような被害者からの恨みを買います。あるいは、その悪人は警察・裁判所などから処罰されるかもしれません。 このように、悪にはその代価として、復しゅうや処罰が控えており、未だそれを受けていないとしても、いつそうなるだろうか?と悪人はいつも心配して過ごし、人間不信・極度のストレスを抱え、精神的に病むことでしょう。一方、いつも他の人の福祉に貢献する善を施す人は、他の人から感謝され、敬われます。また、たとえ苦境に立つことがあっても、恩義を感じている人々が助けてくれることでしょう。その人の気持ちは寛大・穏やかで安定しています。物があるなしに関係なくその人の心の状態は幸福です。 しかし、一時期、善人が善人であるがゆえに忍び、悪人が悪人であるがゆえに喜びを得るということもあります。とはいえ、最終的には、長い目でみれば悪人は不幸になり、善人は幸福になるということができます。
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