• ベストアンサー

相対的な善悪の背徳的な峻別

そもそも善悪の判断は【建て前】上の相対的な基準に立脚していますので、エデンの園で「善悪を知る木の実」を食べてしまいますと、【絶対的な叡智】から乖離する可能性さえもが増します故に、それを防ぐ為に、神は其の実の摂取を禁じたのでしょう。 でも、どうして神はエデンの園からそれを除去し得なかったのでしょうか? 尚、此の質問は下記のページからの続きでもあります。 http://okwave.jp/qa/q6884638.html

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.3

善悪に無関係であることは都合を排してもたらされ、 善悪の分別は、交錯する都合の善し悪しを定める視点に宿るものです。 交錯する都合はすべて存在し、視点も多様に存在するわけで、 これらを不在扱いなどしなくても、都合を一切排するという措定に不都合はありません。 都合を排してもたらされる図形というものがあるとして、わたしたちはそれを想像もできませんが、 交錯する都合のうちにもたらされるわたしたちの世界にある図形は美しいものだと思います。 宇宙が規則と変則をもって運行しているとか、災禍が規則と変則をもって出現するとか、 無限の機構であるとか、時の進行の概念であるとか、テクネーの機構であるとか、 そういった叡智が神与だとすると、 母殺しだとか、父殺しだとか、子殺しだとか、姦通だとか、窃盗だとか、 そういった出来事の都合がどうなっていたかを味わう人間がいればこそ、 託宣は、未来を告げて現在を引き寄せては過去を告げてみたりしながら必然を示し、 悩ましく美しい図形の成り立ちから、はじまりとおわりを見失わせ、 人はあらゆる都合に立ち向かったつもりでも神の都合しかなかったと知らされるので、 世界のあやとしては、 善かれと思う意思決定、意思行為があって、仮にどのように動いても その意思決定をそもそも決定した物理法則が生じて絡め取るといった話と同様、 善悪を知る実の生る木が、あらゆる意思と行為の動きの可能性を内包して、 それらの動きが剥き出しになることで脈絡ある世界がなぜか先だって生じてしまうという、 そんなあやなのではなかろうか。

JidousyaGaisya
質問者

補足

有り難う御座います。 イデアと理想形との齟齬の必要性が、 其処では諭されているのでしょうね。

その他の回答 (2)

  • agripapa
  • ベストアンサー率0% (0/46)
回答No.2

【絶対的な叡智】から乖離する 【絶対的な叡智】の悟り 恣意的だよね 軽く妄想を交えて嘘言ってる `

JidousyaGaisya
質問者

お礼

確かに【不完全性定理】の存在は聖書の教義の相対性をも諭しているのでしょうけれども、前近代に於きましては『聖書無謬性』が基督教信仰の前提条件に掲げられていましたので、彼等にとりましての【絶対的な無分別智】が何なのかを知りたくて、此の質問を試みていますが、そういう内容にも貴方は御詳しいでしょうか?

JidousyaGaisya
質問者

補足

意図的に嘘を衝いているつもりは御座いませんでして、善悪の判断基準が絶対的ではない事情からの類推で『絶対的な叡智』なる表現を用いて『無分別智』のことを表現しましたが、その解釈は冒涜で、【聖書無謬性】の考え方に違反しているのでしょうか?

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.1

どうも、神様は人間に自由の領域を与えて いるように思えるのです。 信じれば救われる、というのなら、初めから信じている 人間だけを創ればよいのではないか。 自殺が悪だというのなら、自殺なんかしない人間だけを 創ればよいだろうに。 そもそも悪い人間など、出現しないようにしてしまえば よいのに。 全知全能なんだからそんなことぐらい簡単だろうに。 神様もサイコロを振るうんではないでしょうか。

JidousyaGaisya
質問者

お礼

http://okwave.jp/qa/q6902888.html 此方に話題を発展させて頂きました。 因みに、具体的に体験し得ないだろう、という意味で、 其処では『ヴァーチャル』という表現を用いました。

JidousyaGaisya
質問者

補足

有り難う御座います。 エデンの園もが開放系なのですね。

関連するQ&A