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アスペな私に教えて下さい!~命は何より大切なのか~
- アスペルガー症候群の私が命の大切さについて疑問を感じる
- 命の価値は相対的で絶対普遍の価値を持っていないと思う
- 死刑反対論者などが命の大切さを本気で信じているのか疑問
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質問者が選んだベストアンサー
>「命は何より大切」という建前と「命の大切さは相対的なもの」という本音の違いは何故おこり、社会の中ではこの二つの違いにどのような整合性をつけているのだろう 要点がしぼれてきましたね。 結局、殺人うんぬんは各論であって、その根底にあるのは 「本音と建前が併存する二面性への違和感・嫌悪感」 ではないでしょうか。 これを理解することはアスペルガー症候群の根幹にも関わる。なぜならアスペとは、物事に白黒つけずにはおかない、世の中にはどっちつかずの二面性(ファジーさ)があることを理解できない症状だからです。 たとえば別の例におきかえて考えてみてはどうですか。 ・口では「差別はいけない」と言いながら、世間にはこれほど貧富の差がある。もし本気で差別はいけないと思うなら、金持ちは全ての財産を喜捨して貧乏になるべきだし、学校や会社は撤廃して全員平等になるべきだ。 ・口では 「命を大切に」 と言いながら、平気で牛肉や豚肉を食べている。もしこの文言が本当なら、人類は即肉食を止めるべきではないか。逆に牛豚がよいなら、なぜ人肉はいけないのか。死者の肉はもったいないから皆で食べるか、アフリカへ送るべきではないか。さらに家畜を殺すことを止めるなら蠅や蚊も同じく殺してはならないのではないか。さらに生ゴミ中には多くの微生物が発生しているのだから、安易に焼却してはならないのではないか。病院でガーゼや注射針を煮沸消毒する行為は、みだりに細菌を殺す残虐行為なのではないか。ナチスのやったホロコーストとどう違うのか。 ・口では 「法令順守」といいながら、一般道を車が80キロでびゅんびゅん走っている。なぜ警察はスピード違反で捕まえないのか。法定速度を1キロでも超えたら違反ではないのか。 ・口では 「原発反対」 と言いながら、クーラーかけてテレビをみている。少なくとも OKWave をパソコンで見ている連中に原発反対を唱える資格はないのではないか。 ・口では 「地球環境を大切に」 と言いながら、地球に一番負荷をかけているのは我々自身だ。本当にそう思うなら人類は地球上から消えてなくなるのが最善だが、なぜ誰もそうしないのか。 ・口では 「男女平等」 と言いながら、なぜ女性専用車輛というものが存在するのか。女性スイマーをパンいちで泳がせないのか。男性用のブラやスカートを発売しないのか。トイレを男女一緒にしないのか。男子高校生にひざ丈のニーソックスを校則で義務化しないのか。AKBのうち半数24人を男子学生に入れ替えないのか。 いかがでしょうか。しっくり来るもの、来ないものはあるでしょうか。
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- 藻黒 知恵蔵(@ameru1999)
- ベストアンサー率28% (624/2203)
1 私の考えは、異端なのでしょうか(対外的には、私も命は大事といいますが、本音として考えることもおかしいか?という意味でお願いします) 異端ではないです。 2「命は何よりも大切。何があってもうばってはダメ」という人たち(死刑反対論者のかたなど)は本気でこの考えを信じているのでしょうか?建前としてではなく、本音としてです。 死刑賛成です。 3回答者の皆さんは、本音の部分で「命の重さ」について、どうお考えですか?また、建前との乖離はどれほどあるのか?教えていただける範囲で教えていただけないでしょうか? 自分より大切な人はいます。 それ以外はどうでもいい。
- kanuki
- ベストアンサー率55% (11/20)
長文で失礼します。私自身の考えの整理として書かせてもらうので腑に落ちないかもしれませんがご容赦ください。また他の方の回答を拝見していないので考えが重複しているかもしれません。 1 お考えは異端ではなく、「命は何よりも大切」とは絶対普遍の価値で、「誰の命か」という視点でとらえたときに相対的になる、ということではないでしょうか。 「命は何よりも大切だが優先順位がある」ということで、優先順位は自分や家族、友人や知人、民族や国民、といった具合です。ですから、心臓移植でも家族と殺人犯でも誰の命かで大切にする優先順位がありそこは相対的になるということだと思います。 また、「津波で助けを求められても助けない」「相手を殺すために襲い掛かる」と書かれていますが、それは手段で「自分が死なないようにする」「家族を殺されないようにする」ことが目的でしょうから、仮に、「自分も相手も助かれば助ける」でしょうし、「家族が殺されなければ犯人を捕まえて処罰を受けさせる」のではないでしょうか。 2 私は死刑賛成論者ですので参考にはならないでしょうが、自己を満たす目的で他人の大切な命を奪った犯罪者から、そのもっとも大切な命を社会が奪って犯罪を償わせて収めるのはやむを得ない、という考えです。 3 命は大切でその一番は自分や家族です。その命を守るためと、その自分たちの命は他人からみれば他人の命なので、他人も同じく命の大切さ持ち合わせていると考えれば、お互いに命を大切にしなくてならない、という共通認識に行き着くのではないかと思います。 その意味で、今回の高校生は自己の好奇心を満たす目的で友人の命を奪ってしまったようですので、彼女自身だけの命の大切さで止まってしまい、相互の命の大切さの理解や共感をさせることができなかった状態だったのかもしれないと思っています。
お礼
回答ありがとうございます。 結局、私が疑問に思うのは、「普遍的価値」が「相対化」するのはなぜ?という事のように思います。普遍的価値が建前として「相対化」が本音とすると、その間の折り合いを、皆さんはどうやってとられているのか、が分からないのです。 仰ることは分かるが「理解」は出来ていないのだろう思います。申し訳ないことです。 回答ありがとうございました。
- one12
- ベストアンサー率18% (40/215)
質問者様も命の大切さを十分理解した上での質問と思います。 まず、命は全てに対して一番重要で、平等な事です。 ただ、質問者様が例えれているケースが厳しい。 それは、自分の命と他人の命だからです。 自分の命と他人の命を比べたら、ほぼ100%自分の命を 選択すると思いますよ。 そういう意味では1の質問は異端では無いと思います。 3の質問と関連しますが、複数の人が助けを求めている人がいた場合 質問者様は命の重要性で判断しますか。 自分ならまず助けられる人から助けます。 命の重さは平等で、これは不変で、人はこれをベースなんです ただ違うのは、その命は平等ですが、守る順位が違う事です。
お礼
回答ありがとうございます。 例題が過酷状況であることは認めます。私は基本として「本質は厳しい状況の中でこそ現れる」と考えているので、斯様な設定となりました。 平等ではあるが、守る順位が付く。言葉としても、心情としても分かる気はします。でも、モヤモヤします。難しいところです。 回答ありがとうございました。
- ueda21
- ベストアンサー率15% (82/542)
以下の回答の仕方が良いか悩みますが個人的意見を >私の世代では「命は地球より重い」と言われ、当時はその言葉に随分と反発してのを記憶しています。 その言葉の元は、海外でのハイジャックでの日本人の人質に身代金を払う時に首相が言った言葉だと思います。 当時戦後から20~30年程度で国家が国民の命を安易に戦争に使った後でした。なので当時の政府が国民に対して命を守るという姿勢を示す言葉だと思います。 それが言葉として一人歩きしたと思います。 一般人が使うと違和感がある場合もあるでしょう。 なので質問者さんの示した自分と家族やそれ以外の例などは個人レベルの話なのでだれも納得するものだと思います。 そして今回の事件で多くのマスコミで言われる命の教育というのは、これしか方法がないのでこれを推薦するわけです。本音の解決不可能とは言えません。あまりにもショッキングな事例を解決策なしでは不安のままで困ります。 >1 私の考えは、異端なのでしょうか 普通でしょう。 >2「命は何よりも大切。何があってもうばってはダメ」 安易に人を殺すなという事だと思います。 >3回答者の皆さんは、本音の部分で「命の重さ」について 状況で変わるとしか言えません。自分が一番で家族とかが次でしょう。ジンバブエやコスタリカの人の命は感覚的には落ちます。
お礼
回答ありがとうございます。 私の印象では「命は地球より重い」は、子どもの頃すでに個人の言葉として使われていた気がします。現在三十前半ですが、当時のドラマや色んな媒体で見聞きしたように思うのです。元はたしか、中東の赤軍ハイジャック事件でしたでしょうか? 「何よりも大切」なことに例外があることが、落ち着かないのは、たぶん言葉遊びの世界で、仰るように状況で代わるのが当然なのでしょうね。 分かる気はしますが、まだ腑に落ちません。困りました。 回答ありがとうございました。
- Erdbeerkegels
- ベストアンサー率33% (155/468)
1について 自分の命も他人の命も大事。どっちが大事かと言われると自分の命が大事。こう考える人が、大多数だと思います。あなたは異端ではないと思います。 2について 死刑廃止について。私自身、死刑については廃止してもいいのではと考えています。終身刑でいいのではないか、と。理由としては、本音として、『犯罪者を殺せ!』と言ってる人達に異常性を感じてしまうからかもしれません。死刑賛成派の方は、すぐに死ね!殺せ!と言っているように感じます。その事件のことを具体的に知りもしないくせに(ほとんどの人はワイドショーくらいの知識でしょう)、すぐに死ね殺せという感覚が私には理解できません。『日本社会はお前を受け入れることはできない。だから塀の中で一生過ごしてくれ(終身刑)』くらいでいいのではないか、と私は思っています。 3について 命には、絶対的な重さと相対的な重さがあると思います。命は、金では買えません。命の代わりになるようなものは、存在しないと思います。そう言う意味では、命は絶対的に重いものだと思います。 一方で、命と命を比べた時に、相対性が出てしまうのではないでしょうか。どこの誰かわからない命より自分や自身の知り合いの命が大事、という感覚は当たり前であると思いますよ。
お礼
回答ありがとうございます。 命の絶対的な重さと相対的な重さの両立。言わんとすることはモヤモヤとしか分かりませんが、たぶん、そのもやもやが一番大切なところなのでしょうね。 どうにも、今の私ではまだ、そのモヤモヤを「理解した」とはいえないようです。 回答ありがとうございました。
- mstk2
- ベストアンサー率26% (157/588)
アスペルガー症候群ということで、分かりやすい線引きを求めておられるのだと理解しました。 >「社会の風潮として命は何よりも大切。何があってもうばってはダメ」 これでは確かにわかりにくいですね。「法に触れるような形で命を奪ってはダメ」 と理解してはいかがですか。 ・恨みや金銭、悦楽目的で人を殺す。 → ダメです。よい悪い以前に、刑法199条に定める殺人罪に違反するからです。(私刑または5年以上の懲役) ・見ず知らずの天才に自分の心臓を移植して欲しいと頼まれると断る。または、津波から逃れようと急いでいるとき助けを求める声が聞こえても助けない。 → 構いません。よい悪いという以前に、そうせねばならぬと法律のどこにも書いてないからです。 ・正当防衛の状態で通り魔を殺す。 ・死刑執行人が死刑囚を殺す。 ・戦争状態で敵兵を殺す。 → 構いません。それは法律の定める殺人にあたらないからです。 ・助けられる立場に立てば、たぶん恨むと思います。 → 恨むのは自由ですが、聞く責任は必ずしも相手にはありません。助ける助けないは義務ではなく任意だからです。
お礼
回答ありがとうございます。 仰ることは分かりますが、正直言うと私が知りたいのはたぶん、法律の先のことだと思います。ひかりごけ事件が、この例題に適切かは自信がないですが、あの船長は法律的には「遺体損壊」程度の罪でしかないですよね。でも、一生苦しまれたようですし、周囲もそれを当然と考えていた。 これは法律では許されても「建前」としては社会から許されなかった事例ではないかと、私は考えています。特異な例でですが、何故法と社会の判断が違うのか、そこが理解できれば、私の「ルールは守るが、守らない人よりも蔑まれる」状態の理解の助けになるのではないかと考えた次第です。 回答ありがとうございました。
補足
おそらく、私が知りたいことは、法律的に正しいとか、道徳的に命の価値を考えるというようなことではなく、「命は何より大切」という建前と「命の大切さは相対的なもの」という本音の違いは何故おこり、社会の中ではこの二つの違いにどのような整合性をつけているのだろう? という点なのだろうと思い至りました。 その線からのご教授も頂けるとうれしく思います。
- koakino
- ベストアンサー率44% (22/50)
「(人の)命は(他の人の命以外の)何よりも大切。(奪わなくても済むならば)何があっても奪ってはダメ」ということだと思います。質問者さんだって、自分や家族の命が絶対に安全だと保証されるなら、他人を見殺しにしたり自らの手で殺したりなんてしないでしょう。 法律でも正当防衛という概念はありますが、同時に過剰防衛という概念があります。家族を守るために『やむを得ず』攻撃者に反撃することは許されていますが、攻撃者が気絶した後も死ぬまで殴り続けることは許されないのです。 死刑廃止論については生命至上主義以外にも様々な理由があるので、命の重さを語るときに死刑を例として出すのは少し危険な気がします。生命至上主義ではない死刑廃止論者を怒らせるかもしれません。 ちなみに、倫理学にトロッコ問題という大変興味深いものがあります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%B3%E5%95%8F%E9%A1%8C 記事の最後の方に実際の調査結果が簡単に紹介されています。これを見ると、同じ5人と1人の天秤でも多くの人が「重りの乗せ方」によって評価を変えるようです。従って、命を奪うことについて議論したいならばこの点にも留意しなければ公平とは言えません。命について考えるのは大人になっても中々簡単なことではないですね…。
お礼
回答ありがとうございます。 「(人の)命は(他の人の命以外の)何よりも大切。(奪わなくても済むならば)何があっても奪ってはダメ」はなるほどと思いました。そう注釈を付けてくれれば、私もそんなに疑問に思わずすみます。 死刑云々はそう主張する方が、本音はどうなのかを知りたいということです。これは死刑の賛否ではなく「命の価値の普遍性・あるいは至上性」についてで、死刑制度そのものに関する議論であれば、別で反して分かり合えることもできるかなぁと思っています(できますよね?)。 トロッコ問題というものを、恥ずかしながら始めて知りました。本質は変わらずとも、割れるものなのですね。道徳的判断は、理性と理論よりも直感と感情が優先する。なるほどそれなら、建前と本音の乖離も仕方が無いのかと思います。 私がしたいのは、命を奪ことに対する議論では無く、それを出汁にした本音と建前の違いの考察ですが、仰るように、命について考えるのは大変なことですね。 参考になりました。 回答ありがとうございました。
- toshipee
- ベストアンサー率10% (725/7148)
1.特に異端とは思いません。法でも「カルネアデスの板」論があり、難破した船から投げ出された海で、ふたりが生き残るために一枚の板を取り合って、強い者が奪い取って片方を沈めても、罪にはなりません。時と場所によることは法でも規定しています。 2.これは子どもがいるかによって変わってくると思います。その言葉は、我が子に対して言いたいように聞こえます。それは、ある意味、責任が自分にもかかってくると言うことを考えれば納得はいきます。今回の高1の事件でも、やはり自分の性生活を満足したい父と、そんな姿を見たくない娘が、留学にかこつけて一人暮らしを建前で意見が一致したことは容易に想像できます。親の不始末としか言いようがありません。 3.これも子どもがいるかどうかで変わると思います。冷徹な私も、子どもが助かるなら本気で「I'll be back」ができます。それだけ子どもの命は大事と考えますから、他の親にとっても、どれだけクズと言われていようが大事な命であることは、実感として想像できます。 要は子どもですね。自分いちばんで生きてきた者でも、幸せを経験すれば、他にも守るべき者の実感というものは、殺してはいけないとすぐ繋がります。子どもが嫌がらなければ、喜んで腕もすね毛付きの足も、子どもの手足がなくなれば付け替えてもらいますよ。ただし麻酔はしてもらいますが。
お礼
回答ありがとうございます。 1は法学的には正当防衛や緊急避難として扱われる例題ということで、よいでしょうか。その場では仕方が無いこととして、認知される。これは社会的にも同じ受け取られ方とおもって良いでしょうか。 2については、すいません。意味が良く分かりません。私は、自分の子どもにも「命の価値の相対性」は説明するツモリデスし、たぶん最後は子どもに「自分で考えなさい。でも社会のルールから逸脱すれば、それなりのペナルティはあるよ。その価値があるかも含めて考えなさい」くらいの突き放した言い方になるでしょう。自分でも親としては冷たいと思います。 長崎の事件については、正直あまり続報を追っていないので、よく分からないのです。 3は、私もそうありたいと思います。実際の場になるまで、覚悟が決まらないかもしれませんが、そうありたいと思います。 確かに、子どもの存在は大きいですね。 回答ありがとうございました。
- E-1077
- ベストアンサー率25% (3258/12620)
命は何にも代えられないと思います。 また、自分の命が一番大事で構わないと思います。 私だって津波てんでんこは一番良い教えだと思います。自分の命は自分で守る。これしかありません。 しかし、世の中には人を殺してみたかったという身勝手な思考回路の人がいるので、困るんです。 だからついうっかり殺される。 よって、死刑はハンムラビ経典がそのまま継承されているだけであって、何らの隔たりもないでしょう。 目には目を、歯には歯を、死には死を・・・・。 また、普通に命について考えるのはおかしいことではありませんが、人間生きていることが前提で毎日があるので、死に直面しない限りは「命」つまり「生」」について議論する必要はないと考えています。 命の重さを量ることは出来ないでしょう。それは個々人の物差しがあるからです。一概に言えない。それぞれが大事。 でも他人の領域に踏み込んではいけないという、大前提が周知徹底していることが必要。 おなかがすいていない限り、自然界では同種を殺すことはありません。異種も殺しません。 人間だけです。心の動きだけで同種を殺すのは、人間が愚かだからです。 死んで良い人はいると思います。 しかしその人は自分の命は大切に思っているかもしれません。 よって、話がそれますが、安楽死は果たして殺人なのか救いなのかの論議は結構興味があります。 死にたがる人を生かしておくのは果たして本人のために良いのか? 自殺を止めたところでその人の人生を背負い込むだけの責任が発生したらどうすればよいのか? かといって、自分と同じように他人の命も大事だという観念から考えれば、津波で流されている最中にも助けられる人がいたなら助けてあげる努力はするべきだとも思います。 親になってわかったんですが、避難所で食べ物がないときにも子供には何かしらを食べさせたいと思うんです。 よってやっと配られた小さなおにぎりも子供にやる。自分は高楊枝です。 それでいいんだと思います。 命を犠牲に次世代の子供を救うなんて大義名分はいらないんです。 よって、命が大切なのは個々人の問題。 個々人の問題が積み重なり、全体の問題になる。 よって、全部の命が大事。 という理論が良いかな・・・と考えました。
お礼
回答ありがとうございます。 「よって、命が大切なのは個々人の問題。個々人の問題が積み重なり、全体の問題になる。よって、全部の命が大事。という理論が良いかな・・・」は、建前の「命大事」より、ずっと心に響きました。本当に皆が心からそう思えるようなときが来るといいと思います。 また「話がそれますが、安楽死は果たして殺人なのか救いなのかの論議は結構興味があります。」の件も同感で、私も興味があります。ついでに誰か答えてくる無いものでしょうか? 私は、正直よく、命や生き死にを考えています。別に生死の境を彷徨うとか、そういう経験があるわけではないのですが、自然と考えてしまうわけです。まして、自分がアスペルガーだと分かってからは、自分の物差が他人と大きくずれているんではないかという恐怖もアリ、建前と本音の整合性をとりたいと思っています。 回答ありがとうました。
- kyo-mogu
- ベストアンサー率22% (3398/15358)
命の価値は簡単には決められません。これは相対的な価値を持つからです。 1番に自分の命は変わらないと思います。しかし、その命を使い他の命を助ける事もあります。それは命の鮮度かもしれません。親などが子どもの代わりに自分の命を差し出したりします。残りの寿命が少ないより、新しい命の方が寿命は長いと。また、若いことで命のリレーが出来るからです。年を行くと男性はともかく子どもを作るという事では若い時でないと難しいです。だから、より命のリレーを行う為に若い命が大切にされていくのです。 命があることで、つながる物が有る。人が人に伝える事。命があるから伝える事が出来ます。知識や経験等です。命を奪う事は知識や経験などが奪われることにもなります。 死刑については私は存続させるべきだと思って居ます。命の大切さが有るからこそ意味を成します。しかし、安易に死刑を行うべきではないとは思って居ます。安易になると権力者などによって簡単に排除出来るからです。 それにともなって、失われる物もあるから。 知識や経験など書物などに残しておけば大丈夫と思って居ると、結構伝わっていない事も多いのです。大まかなものは残りだけなのです。技術も人から人へ作業などを通じて行う事で先に進めるのです。ちょっとしたタイミングや心構え等々です。 人は命をつなぐことで多くの事を引き継いできた。また命があることで新しい価値観や技術なども生まれて着ています。命があるから出来る事なのです。 書いて来たことは、人の命についてです。でも命は生命にはつきものです。動物や虫。植物の命もあります。それらも全て命のリレーを行っています。 生き物が避けられないのが、他の命を奪う行為です。それは食料としてであり、また自分や自分達を有利に、守る為に行う行為なのです。それが、人間では殺人などにもなるのです。動物も基本的に相手の命を奪う行為は自分自身をも傷つける行為なので、威嚇などのステップが入る事が多いですが。子育て時期では子どもを守る為に我が身を呈して命を守りますし、威嚇成しに攻撃もしますけどね。 命については昔からずっと考えられてきていますが、明確な答えなどは無いでしょうね。ただ、他人の命を奪う事は、自分自身の命を奪われることにもなるので、平和的に命は大切だという形で伝えて居るのです。 本音でとありますので、私の本音で書かせて頂きました。重さに関しては相対的なので明確には出来ませんが。ただ、命の奪い合いみたいなことは嫌だなぁとは思いますけどね。我が命は年齢も年齢なので軽いですけどね。ただ、神様等が生きていろという事らしいので、しぶとく生きております。
お礼
回答ありがとうございます。 仰ること、理解も納得も出来ます。私も、命の奪い合いのような世界は嫌ですね。 命の価値というのは、結局のところ次世代へ繋がるための力強さという理解でよいのでしょうか。無論それだけで決まるものではなく、様々な因子があるのでしょうが、それが大きな部分を占めると、理解いたしました。 私の考えは、そう逸脱したものではないということでよろしいでしょうか。 でもそうすると「建前」がどうなのだろうという気も致します。結局、私の気にするところはそこなのでしょうね。 回答ありがとうございました。暑いですので、ご自愛のほどを。
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お礼
回答ありがとうございます。 ご指摘のこと、正に正鵠を射ていると思います。皆さんの仰ることは、分かるしたぶんそれが正しい、明確な境界など無いのだろうとも思います。が、そこに納得できないのです。もやもやがあり座り心地が悪いのです。自分でも難儀なことだと思います。これがアスペルガーたる事なのでしょうね。 挙げていただいた各論は大雑把には区別と需要・自己保身などで、自分に納得させることは出来ます。あまり一般的な理解の仕方ではないかもしれませんが、理論武装は出来ると思います。 一度質問を締めて、より相応しい質問文で、もう一度もやもやを晴らすことが出来ないかチャレンジしてみたいと思います。また見かけたらお知恵をお貸しください。 回答ありがとうございました。