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悟りと煩悩について
悟りたいと思うのも、煩悩なのでしょうか。
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- hatokamome
- ベストアンサー率66% (4/6)
悟りの境地を得るには、 相当な努力が必要ですよ。 それに才能がいる。 英才教育を受けて、やっと得られる境地です。 釈迦やキリストが得たのも同じものです。 圧倒的な、オーラを放つようになります。 そこの定義が、凡人には分からない。 哲学者で無いと分からない。 自分に才能がある自信と、定量的に図れる、 総合的な力があるならは、やってみるといいです。 やってできなかった時、煩悩だったと感じる。 煩悩はやってから結果として自分が感じるものなのです。 悟りを開くには昔のような環境が必要だ。 現代社会の情報を遮断しては、 何かと辛いと思いますし。 里売るには難しい時代です。 あと20年後くらいなら、悟りが必要な時代が来るかもしれない。
煩悩です。 一種の知的好奇心だと思います。 でも、悪いことではありませんよ。 人は煩悩、つまり欲があるから、 努力するのです。 煩悩自体が悪いのではないのです。 煩悩の使い方にいい、悪いがあるのです。
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ありがとうございます。
- kanto-i
- ベストアンサー率30% (180/596)
理解したい分かりあいたいと思うのは本能です。 悟りとは、字のごとく吾心(わがこころ)を深く感じ取ることで悟りが開ける。 自分を深めて感じ取り、理解し分かることですから本能ではないでしょうか。 しかし、悟りの形に囚われてるときは煩悩となります。 ただ思いを感じ取ろうとするのか、悟ろうとすることに縛られてしまうかが違うのです。 違いは、その人がその人自身の中を感じて、どちらに自分の気持ちが行ってるかを知ることでしか 分かることは無いでしょう。 言葉の表面より、心の方向性を感じてみるとどちらか分かります。 自分の心を汲み取れるなら分かると思います。 分からなかったら練習あるのみですね。
お礼
ありがとうございます。
- JqqF
- ベストアンサー率24% (159/656)
悟りは自己救済の為にあるので、人の欲求のひとつとして定義してよいと思いますが、煩悩としてある姿は、ただただ、苦しみから逃れたい、この絶望をみたくないという欲得があってのことなので、悟りからは程遠いといえます。
お礼
ありがとうございます。
お礼
ありがとうございます。