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仏教が教える煩悩とは何でしょうか
仏教が教える煩悩も時代とともに変わってきたのでしょうか。 昔の坊さんたちは煩悩をどのように考えていたのでしょうか。 現代の坊さんたちは煩悩をどのように考えているのでしょうか。 それとも現代の肉食妻帯坊主はもはや煩悩のことなど気にしないのでしょうか。 あの世のことは知らず、この世を楽しむことは煩悩でしょうか。 あるいはそれは逆でこの世のことはさて置き、あの世のことだけを願ってせっせとお題目を唱えることが煩悩なのでしょうか。 あるいは単に心の平安を阻害するものが煩悩ということでしょうか。
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あるいは単に心の平安を阻害するものが煩悩ということでしょうか。 はい。 ご参考までに http://matome.naver.jp/odai/2135693108754921701
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- ways
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108つの煩悩を、大晦日の除夜の鐘で滅します。 欲望のことでしょう。 愚かしいことに走るのではなく、自分を律して節度ある毎日をということを説いているのが、仏様の教えです。
- kurinal
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人の道さま、こんばんは。 >「あるいは単に心の平安を阻害するものが煩悩ということでしょうか。」 厳しいことを言えば、「あらまほしき」も煩悩、でしょうか。 (「小乗」ですね・・・「ワカラン」とか言わないでね)
- 畑 茂夫(@Flareon)
- ベストアンサー率28% (459/1605)
今回はまともな質問の仕方だね。 ご褒美をあげよう。 君が実在する悪の組織になってまでもいい思いをしたいと言うならね、LOTO7を買いに行きたまえ。 1.2.11.20.21.25.30 次回の抽選だ。 もし当たったなれね、それは私のおかげではない。 君自身の実力だ。 これはよく当たるポケモンカード占いという、現在試行中の占いで試しに占った結果だ。 既存の悪の成功例にちなんだ、大金のチャンスだ。 もし当選したら、君は本物だ。 その代償として、私は君の身代わりに死ぬ。 そして君は私に所有される。 面白い駆け引きだろ。 成功を祈るよ。 抽選結果が出たら補足欄で私に報告してくれたまえ。
- a_hona
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職人などの所謂こだわりは、安らぎの邪魔にはならないような気がします。煩悩とは違うのではないでしょうか。 道具や素材に拘ることはあるかもしれませんが、本質的にその技術は拘る対象に由来するのではなく、当人の腕にかかっていると見れるからです。 しかし、こだわり、執著と煩悩は近しいところにあるとは思います。 仰るところには一理あって、こだわるゆえに上達し、最後には当初あったこだわりも超えてしまうのかもしれません。 仏教には煩悩即菩提という言葉もあり、煩悩をきっかけにして覚るものなのかもしれません。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 ★ 煩悩 ☆ とは 苦( dhukka )として捉えると分かりやすいでしょう。 苦とは この世では人間は自分の思うようにはならないということを言います。 それは――ここからは ブディズムの延長線上の議論になりますが―― ひとにはそれぞれに自由意志があるということと密接に関係していると考えられます。 要するに 他人の意志を自分の思うようにあやつることは出来ないという意味になります。 早い話が 神については誰でも好きなようにその名前をつけてもよろしい。神は無いと言っていてもだいじょうぶです。そのことによって消えてなくなる神ではないからです。 ただし そのつけた名前の神だけが神であると言うようになっては おしまいです。 なぜなら 人びとの意志自由をすでに踏みにじるその敷居にまで足を踏み入れているからです。 おれは この神のこれこれの名で呼ぶかたちでしか 神はいないと思うと言っても そう思っているだけなら 構いませんが その主観を共同化することはかないません。かなわないどころか してはいけません。人の自由意志は――良心・信教の自由の核心なのであり―― 無根拠においてとうとばれ守られるものとなっています。 おれの呼び名の神を みんなよ 受け容れよというのは それが 《神はこの神しかいない》という見方のもとに提示されるなら アウトです。それが 苦ということであり その苦の中にいつづける自由意志は 自由ではあっても 煩悩そのものです。 はやく解脱してください。
- titelist1
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煩悩とは生きている証だと、私は思っています。ただし、煩悩によって恥ずかしい思いはしたくありません。僧侶も生きているのですから、死にたくはないだろうし、食欲も性欲もあるのです。それは釈尊でも同じであったと思っています。若い時には枯れた生き方はなかなかできないものです。そのようになれる人が高僧になるのでしょう。 仏教の教えでこの世とあの世のことは、各宗派で大きく分かれています。議論しても所詮は水掛け論です。場合によっては相手も自分も不愉快になるだけです。自分が信じる立場で生きて行けば良いと思っています。
- 177019
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私は小さい頃、お念仏の家に生まれて、人間には108ツの煩悩があるから、除夜の鐘で懺悔するような事を聞きました。しかし、他宗派においては「煩悩即菩提」という事を聞きます。この意味は、「煩悩とは真理を正しく認識しない事、又は自らの生命の濁りによって生ずるところの心を煩わせる身を悩ませる心の病の事、菩提とは、煩悩から開放された悟りの境地の事、しかして、煩悩即菩提とは法華円教の教えで、煩悩を禁じ尽くしていくのでは無く煩悩を持った姿のまま、むしろ煩悩があるが故にこそいよいよ強盛に信心に励んでいくそこに煩悩が菩提に開かれるいう、この関係はちょうど薪と炎に譬えられ、薪が多ければ多いほど炎が燃え盛るごとく、煩悩がそのまま菩提を生ずる因となっていく」という事で、先ほどの回答者はお坊さんの妻帯について疑問を投げかけていましたが、お坊さんも一人の人間です。子孫繁栄も大事で、その事を菩提に変えて行けば良いのであって、肝心な事はどのような教えを信じているのか、であり、正しい法門を正しく見れないところに三災七難が起きると私は思います。
- a_hona
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世間は煩悩で燃え盛っていると言われます。 あの世のことばかりを考えてせっせとお題目ばかり唱えるのは煩悩に支配されているからです。 お金のことばかり考えて守銭奴になってしまうのも、煩悩に支配されています。 時間がない時間がないといってあくせく動き回るのも、煩悩にせっつかれているのだと思います。知りたい知りたいと言って、世界の果てや世の終わりのことばかり考え、日々のことをおろそかにするなら、それもまた煩悩の諸行なのではないでしょうか。 煩悩とは、本能に基づく心の動揺と言われており、それを制することこそが徳の働きです。大概は、行き過ぎこそが煩悩の現れです。食べ過ぎ飲み過ぎ、買い過ぎ、動き回り過ぎ、感情を昂らせすぎ、過ぎたるものの大概が煩悩の現れではないでしょうか。 また、原始仏教では肉食は禁じられていませんでした。そこでは、美味に耽溺することこそがなまぐさいと言われていたのです。美味に耽溺するのは欲深で、煩悩に囁かれているのではないかと。 それら煩悩が無くなると、何事も適度に至るようになり、安らげるようになるのだと思います。
- WhatisLOVE
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京極夏彦の小説の登場人物が、お釈迦様は物事への執着を捨てろと教えている場面があります。 おそらく執着というものが煩悩なのではないでしょうか。 極論を言えば、生への執着というのも捨てろというのですから、すなわち死こそが目的であるとも解釈できると思います。
- terebidesu
- ベストアンサー率33% (1/3)
どの時代でも 「欲」 ・・だと 思います。
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お礼
>それら煩悩が無くなると、何事も適度に至るようになり、安らげるようになるのだと思います。 つまりこだわることが煩悩ですか。 一流の職人も、一流の料理人も、一流のスポーツ選手も、自分の技術や技について何がしかのこだわりがあるものです。 人間何かを極めようとするとこだわるものです。 しかしそのこだわりが煩悩ってことでしょうか。