キリスト教の場合、基本的な設定が「神と人間」の完全な上下関係です。
人間は神を疑ってはいけない。(キリスト教会を疑ってはいけない、という意味)
しかしながら、エデンの楽園から、人の祖先は追い出されています。
神の教えに逆らい、知恵の実をたべたからです。
これが原罪ということ。
極めて単純な話で、人は教会の利益に反することをしたがるものであって、
はじめから洗脳されているわけではない、だから生まれたままなら罪人である、という理屈です。
「現世での苦痛や矛盾は政治が悪いからではない、教会が悪いのではない、神が無能だからではない、
人は全て原罪を背負って生まれてきたのだから現世の苦痛は我慢しなさい、
教会に従っていれば死後には天国に行けるからね!」
キリスト教が参考にしたのは選民思想のユダヤ教です。
ユダヤの血筋に入れない民族が、己の優位性を謳う基本理念が「原罪」という設定です。
ユダヤ教徒に強姦されても、その娘の子供はユダヤの民にはなれません。
辺境民族を血筋にもつ無数のマリア達の悲しみが、新たな宗教に結実します。
選民思想から離れる為に、「神の愛」という設定を編み出しました。
時は経ち、キリスト教発展の時代、覇権国家であったスペインは海外を席捲していきます。
新大陸も発見したけれど払った代償も大きく、古代インカの民から略奪した金をバチカンに献上します。
現代のバチカンの荘厳は、インカの民衆を差別し殺戮した上での輝きです。
時代に合わせて形を変えた選民思想がキリスト教の正体で、近代以後は奴隷貿易で工業化に貢献していきます。
中世以降では、別の選民思想にも形をかえ、それがイスラム教を生み出しました。
神と人との上下関係は、ユダヤ教からの歴史のなかでも少ししか形を変えていませんが、
荒くれ者が競い合う蛮勇の地で平和を作り出すための、分かりやすい戒律を設定してあります。
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仏教右派の場合、生物としての生業である繁殖行動に囚われての愛という感情は卑下します。
「愛という判断基準に縛られていては解脱しにくいぜ」と教えます。
「食物連鎖の法則からも自由になっちゃいましょうよ」という野心が解脱であり、、
「生物としての愛」や「生活に便利な道具」は全て「色」と呼んで、それらを欲する心をいさめます。
初期の仏教教団すら、仏陀の死から相当な時間が経ってから現れています。
資金を提供していたのは王族や商人です。
戦乱に明け暮れていた古代インドの地に、社会的秩序を構築することが利益につながるスポンサーです。
ですから、民衆が個人的な欲に溺れていたら、略奪や陵辱の社会は変えられません。
仏教教団の林立と繁栄は、こういう社会事情が背景にあります。
「煩悩」に縛られないで心を平和にしましょう。(荒れた世は政治家や教会が悪いからじゃないんですよ)
というのが、当時の仏教教団の方法論だったわけです。
たぶん、仏陀の悟りとは意味が違うと思いますし、そもそも仏陀は他人に説話なんか説いていません。
お礼
ありがとうございます。原罪をキリスト教の「神と人間」の完全な上下関係から説明されているのは共感できるところです。上下関係を維持、強化するためには原罪を声高に叫ばなければならないのでしょうね。それに納得できる人だけが真のクリスチャンといえるんでしょうね。煩悩も悪いものだととらえればいやになってしまいますが、未熟な精神状態だと思えば納得いきます。原罪にはそういう前向き(楽天的)な解釈は許さないところがありますね。