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円墳があってその後時代がくだって柵がつくられる
4世紀前半の円墳盗掘なしの円墳で 遺物は畿内方式です その同地域(円墳)から北へ車で30分と南に40分ほどに 6世紀に柵が作られるているということは 大和王権協力者その勢力があったが 後の時代に蝦夷からその地域は 奪い返されたと考えるのか 円墳名 城の山古墳 詳しくはweb検索 柵名 沼垂の柵岩船の柵
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- shirokuro1533
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再度の回答で失礼します<m(__)m> 一つの意見は反論を生みますので躊躇していたんですが、まだBAも出ていない様子。 正直、もうちょっと詳細な分析結果を待ちたかったんですが、プロでもあるまいし、現状の僕の考えをココで示すことも許されるかな?と思い。城の山古墳について私見を述べたいと思います。 ご指摘のように同古墳は畿内方式の円墳ということで、今月初頭より注目を浴びていますが、城の山古墳の断片的な発掘内容から類推するに、もちろん機内の「ヤマト王権」との結び付きがある事は前提ですが、他のそれと比べて強固な結びつきか?といわれれば、現段階では慎重な判断をせざるを得ないかな?と僕は思います。 その理由として先ず挙げられるのが、巨大な木棺の出土ですね。産経ニュースによれば具体的には舟形木棺。 ご存知かと思いますが、城の山古墳築造の推定年代は4世紀前~中期だそうですが、そのころから九州地方などでも石棺が用いられています。 そして古墳時代中期とよばれる時代は、主に「長持ち型石棺」と「舟形石棺」に大別され、それらの折衷方式として「関連組合式石棺」というものもありますが、ここではわかりやすく「長持ち」と「舟形」にわけて説明します。 この両者には著しい違いがあるんですね。簡単な部分では、石材の組み合わせで作られる長持ち型と、石材を繰り抜いて作られる舟形という違い。また、畿内を中心に岡山県あたりまで出土する長持ち型石棺に比べ、実は舟形石棺という物は南は宮崎県、北は茨城県あたりまでの広範囲で、比較的よく用いられる形式の石棺なんです。 そして、ごく稀に九州地方などでも地元の材を使った長持ち型が見られることから、全国的な首長層の序列化の結果として政治的に編成される「首長連合体制」における石棺の持つ意味として、大王をはじめとする畿内の大首長や地方でもごく限られた大首長の棺に用いられる長持ち型石棺は、「畿内連合」ともよべる強固な結びつきを連想させますが、舟形の石棺については、各地域連合において用いられる棺であり、また城の山古墳は前代以来の木棺を用いていることなどから、城の山古墳の被葬者自体は、ヤマト王権内にあっては、政治的にはもっとも遠い位置にあったのではないかな?と僕は思います。 ですから、ご質問の渟足柵に関しても、城の山古墳の被葬者が活躍している時点で、中央との間で特別強固な結びつきを有していたわけではない上に、蝦夷と呼ばれる人々と比べた場合にも、政治的な権威というものについて、蝦夷とは同列には扱えない権威を有していたのだと思います。 そして、そこから導き出される答えの中に、城の山古墳築造時~渟足柵築造時の間で、同地域が支配・被支配といった権力の交代劇のごとき問題があったとは想定できないんじゃないかな?そのような流れの中で生まれたものが渟足柵であるのではないか?というのが僕の回答です。 参考になりましたら…
- Pinhole-09
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仁徳天皇の近辺の時代の研究により 5世紀初めの温暖な気候が急速に寒冷化に 進み5世紀半ばから6世紀にかけ気温の底 になったと推定されています。 世界的に見ても海水面の高さから同様の状態で あったことが判っています。 気温の寒冷化でやまと側が南方へ移動し、その あとにえみし側が移住してきたと考えられます。
お礼
回答ありがとうございます 気候天候説 冬は積雪は少ないほうですね日本一 小さい山脈櫛型山脈越えてませんから 一山超えるとまったくちがいますが
- Verhalten
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白村江の戦い以前までは「えみし対策」は緩やかな物でした。 大和政権と「えみし」は交易がありました。 何故征夷が行われたのか? 新羅と交易をしている「えみし」との挟撃を恐れたからです。 白村江の戦いで国庫が破綻寸前の大損害を蒙った大和政権はと防人を設置しますが、 防人は武器も食事も百姓が自己負担。 それから大化の改新になりますが、 口分田制度と供に征夷事業に着手します。(律令国家) すなわち、政策が変わったのです。 (全てが国の管理地であり、全ての国民は天皇の物。) 従わぬ(家臣ではない)が良いのではないか? こう言う曖昧さが通用しなくなったのです。(律令制度と官位)
お礼
回答ありがとうございます どれも捨てがたいお説で 困ってます
- moto_koukousei
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渟足柵、磐舟柵、秋田に移る前の出羽柵も、存続期間は長くて50年間、当時の平均的な壮年労働力で考えて、世代交代が3~6回程度でしょう。 栄枯盛衰はどこにでもおきます。50年続いて栄華を続けるのもなかなかないことです。一族や地方勢力が滅んでいくのに100年は長すぎるくらいです。7世紀後半の天武・持統天皇の2代の飛鳥浄御原宮も20年で、持統・文武・元明の3代の藤原京も20年にならずに放棄されます。一族が続いても同じ地域にはいなくなります。特に敵の攻撃などなくても、1世紀も時間経過があれば、地域の事情はまったく違って不思議はないです。 柵は朝廷が領地収益の拡大のために作らせる開拓団・開拓地のようなものだから、公民を送り込み収穫を上げさせると共に、軍団兵員を屯田兵のように扱います。そうした柵も建設時の当事者の意気込みはともかく、現実的には20年、30年も持てば良いだけのことで、建設地域の選択も、そのときの都合で決定されるはずです。 蝦夷征討は8世紀末に行われたものです。その中では、坂上田村麻呂(758-811)が有名です。田村麻呂の父が坂上苅田麻呂(727-786)です。坂上苅田麻呂、高麗福信(709-789)、道嶋嶋足(?-783)は8世紀なかばに朝廷で出世した人です。高麗福信はおそらく高句麗の系統の人、道嶋嶋足は陸奥国牡鹿郡出身の豪族出身で蝦夷の人です。また宇漢迷宇屈波宇(うかめのうくはう)という蝦夷の首長も最初は大和朝廷とうまくやっていたようです。http://kotobank.jp/word/%E5%AE%87%E6%BC%A2%E8%BF%B7%E5%AE%87%E5%B1%88%E6%B3%A2%E5%AE%87 大和朝廷も、朝廷に貢献してくれるということなら異民族(?)も積極的に登用するし、居住地を与えていたのです。異民族であれば戦いを挑むというようなことはないから、近畿や伊勢、関東などにも色々な人たちがいたのです。大和朝廷と平等な関係ではないけれど蝦夷は蝦夷で生活していたが、8世紀になって大和朝廷が強行策をとるようになったと考えるのが妥当でしょう。 アメリカも、武力行使を開始する以前は、それなりに平和な関係を中東などでもとっていたのを思い出せば、日本でも6世紀まではそれほど他民族を気にせず親和的で、利益が期待できれば良好な関係でやっていた。朝廷が欲をだして収益拡大を図りだして、7世紀の開拓団(柵)派遣、それだけでは不十分になって他民族も積極的に使って8世紀の高麗郡・新羅郡設置、まだ欲がでて8世紀後半の蝦夷征討開始という流れになるのではないでしょうか。律令制を徹底しようと思うと完全支配を目指すことになるのではないかと思います。 5世紀までと、7~8世紀、8世紀後半以降は、大和朝廷にとっても、時代がまったく違うのだと理解してはどうでしょうか。
お礼
回答ありがとう誤差います 昔の事でこれが決定打でBAはきめられず 多分そのまま締め切りになるとおもいます 想像個人の主観で 発掘担当者に機会がありましたら 質問したいと思いますよ
- tanuki4u
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領域的支配の時代ではないから、なんとも言えない。 1 人口がまばら 当時の越後の人口が 10万人くらいと推定されています。 2 日本海沿岸の交通網として 太平洋側の大和朝廷側の防御拠点が陸路を想定されるのに対して、日本海側では河口部の港湾拠点に設けられている。兵員輸送や食料輸送が海運を前提に、飛び飛びに作られたのではないかとも考えられる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E6%9F%B5
お礼
回答ありがとうごさいます さすがOKの賢人の多さ 某サイトQAじゃ回答なしです あそこは難しい質問はまったく駄目最低です
補足
2関して 近世約100年前までは広大な潟 塩津潟 紫雲寺潟 福島潟 古墳は 築地館 船戸直線の中間点あたり 古墳時代も潟はあったとおもいます http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Satellite/Okuyama/index.htm 岩舟は山形から流れる荒川を超えてすぐです 都岐沙羅柵に関してFM新発田で放送があったそうです ミニFMなので、内容不明 まさに潟を水運とすればそのとうりです
- shirokuro1533
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柵自体は防御のために利用したのではなく、前線基地といった施設を「柵」と言い表していませんかね?ようは城柵でしょうね。 647年に築かれたとされる渟足柵。そしてその一年後に築かれたとされる磐舟柵ですが、例えば蝦夷支配において、その柵自体は初期段階には戦場になっていませんから。 ではその城は何のために?といえば、蝦夷を浮囚化してゆくんですね。なんだか良くない響きですが、ようするに、一般的には朝廷に帰順した蝦夷をさして浮囚といいます。斉明天皇の治世などでは、幾人かの蝦夷が位を授けられた例などが浮囚化された。などと表現されますね。 いずれにせよ、そういった支配領域拡大の舞台になったのが渟足柵などと理解されてはいかがでしょう? もちろん敵地奥深くにポツンと城を築いても仕方ありませんから、渟足柵があった新潟付近は、比較的に安定した勢力基盤が存在していたからこそ、そこに基地を作ったということでしょう。 ご指摘の「城の山古墳」の被葬者一族を主体とした勢力だったのかもしれませんね。とにかく城を築きやすく、かつ政庁としての機能を果たしうる環境。そして天然の河川などを利用した防御性などを勘案し、かの地に「柵」を建てたのでしょう。 ちなみに、こういった蝦夷経営をさして第一次抵抗段階などと呼ばれますね。 ちょっと誤解が大きくなってしまうのは、やはり第二次抵抗段階が教科書に取り上げられるなど、歴史事件として関心が大きいからでしょうね。 代表的なところでは「伊治砦麻呂」(いじのあざまろ)でしょうか?その後の「アテルイ」なども有名かもしれませんね。ただ伊治砦麻呂などは、第2次段階で朝廷より伊治大領といった郡司に任命されたりします。ようは蝦夷の手により蝦夷を制圧してゆこうとするのが第二次抵抗段階初期の朝廷の戦略であり、どうもうまくいかないという事で、大伴家持や坂上田村麻呂などが送り込まれるんですね。 ですから蝦夷支配のため、朝廷はいつもバトってるイメージがあるかもしれませんが、どう反乱は渟足柵の築城からだいぶ時代は下り宝亀11年(780年)の出来事(伊治城包囲、紀広純などの殺害)です、そして坂上田村麻呂がやっとの思いで、同反乱に一応のピリオドを打つのが延暦15年(796年)の出来事ですから。 そして、その後もやっぱり朝廷の蝦夷経営は協調路線になっていきますね。武力制圧がなされるのは江戸期まで下ります。シャクシャインの乱ですね。ですから、ご質問の第一次抵抗段階時点で、具体的に槍をもって戦うイメージから、少し離れた方がそのあたりの歴史を理解しやすいのかもしれませんね。 そんなところで…
お礼
回答ありがとうごさいます 第一次抵抗段階というのですか 勉強になりました
補足
調査報告書によると奈良県周辺の古墳と共通している事から 中央政権との強い結びつきがあったと考えられる後の二回目 回答の弱い結びつきとは考えてないみたいです 銅鏡が三角縁出なかった点と盛り土がどこから とかが疑問だそうです と報告書にかいてありました。
お礼
回答ありがとう誤差います >城の山古墳の被葬者自体は、ヤマト王権内にあっては、政治的にはもっとも遠い位置にあったのではないかな 俘囚であった時代がくだり 支配力は混沌としてた 昔の事でこれが決定打でBAはきめられず 多分そのまま締め切りになるとおもいます 想像個人の主観で 発掘担当者に機会がありましたら 質問したいと思いますよ
補足
自分としては岩舟柵ひとつならお説のとうり 考えますが 南側の沼垂 場所不明の都岐沙羅柵あるもので