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奈良~平安時代 『租』について
律令制度の始まりに伴い、古代日本では6年ごとに戸籍が作られ、6歳以上の人間には口分田が与えられました。 そして、誰しもが納めなければならない税である、租があります。。 国衙の財源(今でいうと県の財源と同じ)になるということらしいのですが、租というのは米を納めるんですよね。 ・ほぼ全ての人が米を作るとなると、米が余ってしまいませんか? ・私の認識ですと、この時代には貨幣があまり流通していないですし、 基本的に大勢の農民は自給自足だと思っていますが、間違いないでしょうか? ・貨幣が流通していないということは、一部の弓や剣を作ったりしている人々の報酬はお米なのでしょうか? ご回答お待ちしております。よろしくお願いします。
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かつて歴史学者の故・網野善彦は、日本人の生業が米作ではないこと、 しかし歴史的に律令体制以来、米の生産=農民の存在を前提として 税制を中心とした治世観念が続いていることを指摘しました。 質問者さんの「全ての人が米をつくる」というのは、 フィクションであることをまずご理解ください。 (例えば、当時の山村では農業は行えたのか?島ではどうだったのか?と言う問題がありますね) 次に「租」という税目の性格について。 そもそも「租」の原型は、秋に収穫があった際、そのうちの一部を豊作のお礼として神、のちには地域の有力者に捧げる初穂儀礼が前身だったと言われています。 律令を導入するに当たって、中国の税制の在り方によりながら「租」という税目がうまれましたが、 その時点でも初穂儀礼としての性格は存在したことは、税率としては低い(回答者1さんの指摘どおり)事からも指摘できます。 なお、国衙財政は、租ではなく出挙の利稲によって運用されていました。租は基本的に蓄積するだけのものだったようです。 また奈良・平安期における貨幣ですが、ご指摘のように和同開珎などの銭貨は畿内周辺しか流通していません。 現物紙幣として使われていたのは主に布。律令官人の給与は布が主体ですし、中央へ納められる調庸も特産品以外は布です。 律令国家の銭貨発行が958年を最後に終わると、以後は現物貨幣として、東国では米が、西国では布が使われていたことが土地売券等からわかっています。 ご質問の「弓や剣を作ったりしている人々の報酬」は、その人々が何処に拠点を置いているかで解答は変わるのでしょうが、京近辺ならば銭貨、地方ならば布などの現物貨幣であったと考えられます。 さて最後に「自給自足」の問題ですが、これは結構難しい問題です。この時期、他の集落・地域とつながらない生活が可能であったかというと、正直なところ違うのではないかと思います。 地方における市・交易の存在については、『日本霊異記』などの説話からおぼろげながら知ることができます。 そこでは物々交換に近い行為もあったようですから、当時の農民(というか様々な生業を持つ一般の人々)は、完全な自給自足ではなく、 何らかの交易をして生活していたと考えるのが妥当だと思います。 以上、長くなりましたが、お分かりいただけたでしょうか?
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- saisai68jp
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難しい話はわたしもよくわかりませんが、 祖は生産された米の3%ほどだったとのことです。 ただし、奈良時代の生産性は今と比べるととても悪く、その3%でも大変だったとのことです。餓死者が道端に倒れていることも日常だったとのことですから米はあまらなかったのではないでしょうか。 奈良時代は基本的に自給自足の生活です。物資のほぼすべてが官で管理されていた時代ですから、貨幣が流通していなかったというより、貨幣が流通する市場が存在しなかったのですね。 弓や剣などを作っていた人たちは部民といって朝廷の隷属民がほとんどでした。奴隷のようなもので特別に報酬をもらっていなかったはずです。食べさせてもらってただけです。 まちがってたらごめんなさい。そのときはだれか指摘ください。
お礼
素早いご回答ありがとうございます。助かります!! >ただし、奈良時代の生産性は今と比べるととても悪く、その3%でも大変だったとのことです。餓死者が道端に倒れていることも日常だったとのことですから米はあまらなかったのではないでしょうか。 そうだったんですか。今を基準に考えたらダメですね!^^; 思い込みは強敵だ・・・(笑) >奈良時代は基本的に自給自足の生活です。物資のほぼすべてが官で管理されていた時代ですから、貨幣が流通していなかったというより、貨幣が流通する市場が存在しなかったのですね。 納得です!そのとおりですね!面白い時代ですね。貨幣を発行はしたにも、うまいこと機能する世の中ではなかった。 今まではただ単に、人々が貨幣というものを知らなかったために、またそれほど必要ではなかったためにあまり使われなかったのだと思っていました。 人間がやることですものね、ずっと成功なんてないですよね。本当納得です。 >弓や剣などを作っていた人たちは部民といって朝廷の隷属民がほとんどでした。奴隷のようなもので特別に報酬をもらっていなかったはずです。 部民!聞いたことがあります。でも奴隷だということは知りませんでした。これも納得です・・。。 全体を通して、とても私にはびっくりの内容でした! 時代自体の様子については、納得しましたが、びっくりはしません。びっくりしたのは、思い込みって怖い、ということです。 今を基準としたものの考え方・見方で過去の歴史を見ていました。 なんか、この質問をしたことで、意図しないことも理解できた気がします。 本当にありがとうございました。
お礼
詳しい回答を、どうもありがとうございます! 私の質問に合わせてくださり、とてもよく分かりました。 >米の生産=農民の存在を前提として >税制を中心とした治世観念が続いていることを指摘しました。 そうだったのですね。米の伝来なんかも1つの歴史上の重要事項ですし、なんでもお米だ稲だと聞いていましたので、すっかりその考えにハマってしまっていました。^^; 確かにそうですね。でもそうすると当時の人々にはお米なしの食事で生きていた人々もいるでしょうね!それはかなりの驚きです。。 >国衙財政は、租ではなく出挙の利稲によって運用されていました。租は基本的に蓄積するだけのものだったようです。 あ、『公出挙・私出挙』!ありましたー、、そんなの。笑 なるほど~、これを持って収入としていたのですね。 >現物紙幣として使われていたのは主に布。律令官人の給与は布が主体ですし、中央へ納められる調庸も特産品以外は布です。 そ・・・そうだったのですか~~!! そういえば役人が報酬として布をもらうとか、聞いたことがあります。。 >そこでは物々交換に近い行為もあったようですから、当時の農民(というか様々な生業を持つ一般の人々)は、完全な自給自足ではなく、 >何らかの交易をして生活していたと考えるのが妥当だと思います。 なるほど。それぞれ各人の職業などに合わせて、生活に足りないものは物々交換なりをして補っていた、ということですね。 この時代の庶民の暮らしについて、とてもよく分かりました。 質問をしてよかったです!どうもありがとうございました。
補足
出挙について調べました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E6%8C%99