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奈良時代には都が何度も変わったようですが ・・・
奈良時代なんですが、例えば恭仁京とか難波京とか、あるいは紫香楽宮とか、たくさんの都(?)がありますよね。 これがよく理解できないのですが、例えば平安京と言えば今の京都の場所やイメージを思い浮かべれば、近からず遠からずといった感じかなと思うのですが、奈良時代なんて何度も都があっちに行ったり、こっちに来たりしたようなイメージがあります。 質問 1. そう考えると、奈良時代という 「一括り」 で良いのかなと思うのですが ・・・ なぜ都の地名をとって、○○時代という風に分類しないのでしょうか? 例えば藤原時代とか紫香楽時代とか ・・・ 2. あの狭い地域で何度も都が移動しているのですが、例えば新しい都に移った場合、前の都の状態はどうなっていたのでしょうか? 例えば、誰も住んでいない 「廃墟の町」 になったのでしょうか? そうでないとすれば、新しい都と直前の都の関係はどうなっていたのでしょうか?
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1、先の回答者さんがおっしゃってるように、奈良時代・平安時代という分け方は後世の人がわかりやすいように区分しただけの物です。 その分け方は、都の場所だけでなく、文化的に明らかな違いという事も含まれているんではないでしょうか? たとえば、服装・・・奈良時代と平安時代では明らかに違いますよね? 奈良時代に十二単は着ないでしょ? 食べ物の食べ方や、文学なんかも違います。 質問者さんがおっしゃってる恭仁京・難波京・紫香楽宮は、聖武天皇が天然痘の恐怖から逃れるために次から次へと都を移転した時の都で、最終的に大仏を建立して平城京へと戻って落ち着いています。 この間、文化的どころか、天皇=国家元首すら代わっていませんから、後世で時代を区分をする必要はないのではないでしょうか? たとえば、平安時代でも平清盛が福原(現在の神戸)に都を移していますが、これも区分する必要はないでしょう。 厳密に言えば、現在、都として記録されている場所だけでなく、天皇がそこにいて、そこで宮中祭祀を行えば、そこが都という事になるので、すべての物をいちいち区分していたら、ややこしくて大変です。 維新の時、明治天皇は京都を出て、東京に行くまでに、大阪の守口に3ヶ月間滞在して、そこで宮中祭祀を行っていますが、そんなのも区分しなくてはならなくなります。 また、藤原京より以前は、天皇が変わるたびに都を移転していたので、それも区分しなくてはいけなくなりますので、歴史の勉強がさらに大変になるので、今のままでよいと思いますが・・・ 2、都の移転というと、つい、町全体が移動してしまうように思ってしまいますが、本当は宮殿が移転するだけです。 その周りは、徐々に移転していくわけですので、いずれは廃墟になるかも知れませんが、急激に変化するとは考え難いと思います。 たとえば、平城京・・・現在、公園のようになっている平城宮跡という遺跡がありますが、あの部分は宮殿だった場所で、現代になって発掘されるまでは田んぼや畑でした。 しかし、平城宮跡のまわりには、民家もありますし、東大寺や興福寺などのお寺もそのまま残っています。 薬師寺や唐招提寺は、当時、平城京のド真ん中にありましたが、それも今も残ってますよね。 つまり、移転するのは、宮殿であって都市そのものではないというわけです。 天皇の宮殿が、京都御所から皇居に移っても、京都の人は京都に住み、東京の人は東京に住んでます。 ただ、現在の東京がそうであるように、やはり、政治の中心だと、日本全国からなんだかんだと人が集まってくるという事はあるので、その時の都が、一番人口が多い町になる事は確かですが・・・。
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- tanuki4u
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基本的には物証がなければ何とも言えない。 後の時代ですと、○○城の天守閣は■■城から移築した、なんて資料があり、他の資料でも裏付けされるので、たぶんそうなんだろう!となります。 あとは、仮説が妥当かどうかの話。 810年に薬子の変が起きており、平城上皇は平安京から平城京に移ったとあります。794年に平安京遷都784年に長岡京遷都ですから、平安京遷都から16年経った段階でも、上皇とその配下が拠点とすることができた何らかの建物があったものと推測されます。
- Tacosan
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長岡京から平安京のときは, 長岡京で使ったものを再利用してたんじゃないかな. 難波京からもどこかにリサイクルされてたような気がする.
お礼
有難うございました。 先日のNHKの「その時歴史が動いた」という番組で紹介されていましたが、当時は結構リサイクルがさかんで、大本殿の建物も一旦分解して、また新しい場所に再築されたようです。 おそらく工期の短縮と経費節約の考えがあったのでしょうね。 当時の人の方が今より合理的だったかも知れないですね。
- tanuki4u
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1 奈良時代と呼んでいるのは後世の歴史家の便利さ歴史認識のためです。 奈良時代と呼んでいるのは、平城京が中国方式をまねた本格的な都城制による都で、ここからがそれまでと違う!という歴史観があるからです。 最近、藤原京が「結構、本格的ジャン!」という事になってきたので、もうちょっとたったら、飛鳥時代の本格的な都城制の前と平安京の間という意味で「現在の奈良県に本格的都城制のあった時代」という意味で 奈良時代 694年~(本格的な都城制の元、律令制が具体化された)なんて事になるかも知れない。 そして紫香楽などは、数年だったので、特別に時代として分けないという歴史認識があるからです。 都城のある場所によって時代を分けるというのであれば、東京奠都まではずっと平安時代ですし、考えようによってはまだ、正式に東京遷都してないので、今も平安時代ということになってしまいます。それでは、歴史を語れない。 2 都市としてのインフラが不十分だったとか、燃料としての木々が枯渇したからともいわれています。 藤原京の場合、理念的な都城を作ったので、下水など都市として不便だったらしいです。中国の首都作りの理念としては、同心円的な四角です。なので、大極殿が真ん中にあります。しかしこれでは、実は使いづらい都だそうで、実際に唐の長安を見てきた人間の情報から、大極殿を北の外れに置くという実態を知り、平城京からはそうなっています。 元の都は、田畑に戻りました。
お礼
有難うございました。 都城のある場所で時代を分けた場合は、明治まで平安時代が続いていたとも言えるわけですね。たしかにそうなってしまいますね。 1番の回答者様のご意見でも桓武天皇による平安京への遷都が行われるまで平城から都が移った事はないとの事だったのですが、自分なりに調べてみると、聖武天皇の時代に大阪の難波宮に、744年、恭仁京からの遷都が実施されたとあります。 奈良から大阪というと、山脈を挟んで数十キロの距離があり、当時の交通手段だと、「まるで遠い世界」だったのではないかと思います。 となると、やっぱり大阪湾という海に面した新しい都への大々的な遷都が実施(例えば長岡京から平安京のような大きな移動)されて、それまでの都は捨て去られた時期があったように感じるのですが、間違っているのでしょうか? この辺がよく分からなく質問させて頂きました。
- sudacyu
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何か勘違いをされているようです。 奈良時代とは、平安京の前に(平城京から平安京に移る数年、京都府に長岡京を建設しようとしましたが。)現在の奈良市に都があった時代で、その都を平城京と呼びます。 710年の元明天皇から桓武天皇が遷都するまで、都は移っていません。
お礼
有難うございました。 710年から794年まで都は移っていないとの事なんですが、質問に挙げたような、○○宮とか△△京というのは「都」ではないでしょうか? 何となく、今でいう「首都」のような感じがするのですが ・・・
お礼
有難うございました。 なるほど、遷都と言っても移るのは宮殿だけで、都市機能全体がゴソッと移るような大規模移動ではなかったのですね。 簡単に言えば、天皇家の住まいが頻繁に引越しをしただけの事だという事になりそうですね。 漠然とした疑問がやっと解消したような印象があります。 とても勉強になり、有難うございました。