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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:戦国武将・大名の名前について)

戦国武将・大名の名前について

このQ&Aのポイント
  • 戦国武将・大名の幼名と通称についての疑問を解決したい
  • 土佐の戦国大名、長宗我部元親の幼名と息子の通称が同じだった理由について知りたい
  • 戦国武将や大名の間で幼名や通称を受け継ぐことがあったのか知りたい

質問者が選んだベストアンサー

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  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.2

戦国時代の名前はなんだったか? これは、ソースとしては A 軍忠状とか手紙とか同時代資料 B 京都の貴族の日記 C 江戸時代に編纂されたもの 寛永諸家系図伝 とか 寛政重修諸家譜 史料の豊富さでCとなります。 長宗我部家の場合Cが基本的にはないので、A,Bとなりますが、山内氏が土佐に入った段階で旧長宗我部家の部下を弾圧しているので、Aも少ないし、Bも直接京都との接点が少ないので少ないという状況です。 国親 56歳で死去 一条家庇護下で育つ 千雄丸 千王丸 http://kotatujo.cool.ne.jp/hyo/itiran/itiran/tyosokabe.htm 1560年 死亡 元親 60歳で死去 1539年 弥三郎 1560年 父死亡 1585年任官(45歳) http://www.page.sannet.ne.jp/kuranosuke/itijyo.html 管領細川晴元の偏諱 信親 22歳で死亡 1565年 幼名 千熊丸 1575年 信長の偏諱を受ける。 諱 弥三郎 盛親 1575年 千熊丸 まず ネットをあたったら 千熊丸 千雄丸 千王丸 とかいろいろな表記があります。史料には当て字が多くあるので、「せんのうまる」という音で同じ人を意味しているかと思います。 武家の名前の場合、名前は 1 出生時 2 元服時 3 任官時 このへんのタイミングで変わりますが、1,2の場合、親のその段階における政治的ポジションが作用します。 可能性A 元親の幼名も千熊丸だった。 ※ 長宗我部家の基本は 千熊丸 → 弥三郎 → 受領名とか で、信親の場合任官前だったので弥三郎が死亡時の名前となり、後代に伝えられた。 国親の 諱は伝わっておらず 元親の幼名も伝わっていないという可能性です。 可能性B 信長の諱 三郎をリスペクトして、元親の幼名を使った。

sunnypo
質問者

お礼

詳細に書いて頂きありがとうございます。 可能性Bは思いつきませんでした。確かに偏諱を受けたくらいですから、そういうことも考えられますね。 やはり地方でしかも敗者側となると史料が少なく難しいのですね。

その他の回答 (5)

  • izuhara
  • ベストアンサー率31% (97/310)
回答No.6

No.4です。本多正信の例が出ましたので補足します。 本多正信に関しては、明確に「本多弥八郎正信」と名乗っている史料が存在しており、間違いなく通称だと考えられます。

  • don9don9
  • ベストアンサー率47% (299/624)
回答No.5

本多正信の幼名「弥八郎」は、本多正純の通称になっていますね。 No.4の方がおっしゃるように、幼名ではなく本当は通称なのかもしれませんが 一応、長宗我部元親・信親と同じパターンです。

  • izuhara
  • ベストアンサー率31% (97/310)
回答No.4

ウィキペディアの出典となっている山本大『長宗我部元親』の年表に「幼名弥三郎」と記述されていますが、ご疑問の通り幼名というのは不自然です。幼名というのは何かの誤りで、通称と考えたほうが自然だと思います。 従って、元親の通称「弥三郎」を嫡男である信親が継承したと考えて差し支えないはずです。 仰るようにきっと元親の幼名を示す史料がないため、何らかの誤解で通称の「弥三郎」が幼名となった説が流布しているのでしょう。長宗我部元親の生涯を書いた本は他にないようですから。 今後新しい史料が出てくれば、元親の幼名がわかるかもしれませんね。それは仰るように「千雄丸」の可能性が高そうですね。 以上のことから言うまでもありませんが、親の幼名を子が通称として名乗る事例は元親・信親の例も含めてないと思います。 幼名の継承、通称の継承はいくらでもありますが、質問者様はよくご存じだと思いますので省略いたします。

sunnypo
質問者

お礼

確たる史料がない以上、断言は出来ませんが、やはり親の幼名を子の通称として使うという事は(実際にあったとしたら)かなりのレアケースになりそうですね。 ひとまず自分の感じた違和感が間違ってはいないようなので安心しました。 ありがとうございます。

noname#139854
noname#139854
回答No.3

松平家は代々後継者を「竹千代」と呼ぶならいで、松平信忠も清康も広忠も皆「竹千代」、家康も息子の秀忠も孫の家光もひ孫の家綱も「竹千代」。 秀忠は一説では、対外的には長丸(兄の秀康が豊臣家にいるため人質の価値を高めるためという説も)、家中では竹千代と称したという説もある。 武田家は太郎が後継者、親戚の穴山氏は勝千代、隣の北条さんのところは千代丸と新九郎、今川家は竜王丸(義元は嫡男ではないので違いますけど)。 むしろ親が自分の幼名を息子に付ける例の方が多い気がする。

sunnypo
質問者

補足

後継者に同じ幼名をつけることには、相続権をはっきりさせるねらいがあったようですね。 親の幼名を子の元服後の通称とすることにも何かそういった理由があったのでしょうか?

回答No.1

こんにちは。 有名なところでは・・・ 徳川家康・・・幼名・・・竹千代(通称・・・次郎三郎とも呼ばれた) 徳川家光・・・幼名・・・竹千代 家光は祖父と同じ幼名をもらったため、父の秀忠よりも家康を慕って、死んでからは家康と同じ日光に埋葬するよう遺言をしています。 縁起の良い名前は、幼名として代々受け継がれることが多くありました。

sunnypo
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 確か徳川秀忠も竹千代だったと思うのですが、いずれも幼名に限ってですよね? 長宗我部元親と信親の場合、親の幼名が子の元服後の通称とされているので、なんとなく不自然な感じがしたため、他にもそういうケースがあれば知りたいと思った次第です。

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