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下克上について

下克上・謀反を起こした戦国武将は、明智光秀・松永弾正・陶晴賢など数多いですが、いずれもあまり良いイメージがありません。 しかし、武田晴信だけは親を追放するというある意味では主殺し以上に人倫に反する謀反を起こしていながら、戦国大名の代名詞ともいえるほど知名度が高く、かつ人気もあります。 どうして武田晴信は謀反を起こしているにも関わらず、あまりマイナスイメージがないのでしょうか?

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  • tiuhti
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回答No.7

現代人が今もっているイメージについて、「何故そうなったか」を考える際には、今のイメージがいつごろのどんな資料から来ているかを考えた方がいいと思います。 武田信玄のイメージは、江戸初期の武田家旧臣の軍学者小幡景憲の著作(あるいは編集)『甲陽軍艦』によるところが多いです。武田軍学の継承者が『売り物』の景憲としては、武田信玄を持ち上げるのが当然だし、武田の旧臣が徳川家の多く召抱えられた江戸時代に、武田信玄を褒めた書物を書くことはさしたる問題もありませんでした。一方、明智光秀は、彼自身の伝記はないので、元ネタは『信長公記』、『甫庵太閤記』などの織田信長・豊臣秀吉の伝記になります。同じく江戸初期の成立ですが、信長や秀吉の伝記では、光秀を悪く書かれるのはやむを得ません。 これを『勝者』、『敗者』と区分してしまうと、武田家は『勝者』ではありませんから、ちょっとどうかな、とは思いますが、まぁ、主旨としては同じようなものです。 もうひとつ考えるべきは、現在のイメージの元になった資料が出来た時代に、「親の追放」「謀反」がどのように考えられていたか、という点です。 まず、基本ですが、武士に広く儒教道徳(特に君臣論)が受け入れられたのは江戸時代です。参考URLのサイトの書評の「13.南北朝の動乱」の評を見てください。そこにあるように、江戸時代以前は、武士の倫理観として「去就の自由」はありました。武士が儒教道徳を全く知らなかった、という事ではありませんが、通常は儒教とは別の倫理の元に行動していた、という事です。 君臣の別を重く見る朱子学は幕府体制を維持するのに役立つので、公式学問のようになりました。「甲陽軍艦」、「信長公記」は、その影響が広まる前のものですから、「謀反」を悪とする倫理がまだそれ程強くなかった頃のものです。もともとの武士の倫理では、「忠誠と恩顧はセット」です。これを『損得勘定で敬う』といってしまうと、ちょっと違っていて、例えば「代々恩顧を受けてきた家の者は、主君が滅亡しようとしている時には一緒に討ち死にすべきであるが、 新参者は付き合わなくてもいい」という倫理という事になります。大阪冬の陣だったと思いますが、福島正則か島津か誰かは忘れましたが、秀頼側が自分達に付くよう要請したのに対し、秀吉恩顧の大名が「たしかに太閤の恩顧は受けだが、今は徳川の恩顧を受けているのだから、どうして徳川を裏切れましょうか?」という回答をしています。損得といえば、それまでですが、儒教的な「忠臣二君に仕えず」ではなく武士本来の「恩顧と忠誠がセット」という原則が働いているのがわかります。 「去就の自由」は、鎌倉時代のように政権が一応安定していると表に出来ませんが、南北朝期や戦国時代になるとはっきりと表に出て、現実には「家来が主君を選ぶ」という傾向が強くなりました。「家来の支持があるものが、主君となる」ということです。 そのような倫理観からすると、武田家で起きた事は、晴信の案であったとしても、No.5の方の回答にあるように、実態としては「家臣が信虎ではなく晴信を選択した」だけなので、親を追放する事は決して褒められた事ではありませんが、ひどく『人倫』に反する、という程のものとは、当時の常識としては言えないと思います。所詮、親を無理やり隠居させただけの事なのですから…。 旧家臣が自分の宣伝も多少は兼ねて書いた『甲陽軍艦』をベースにイメージが作られて、さらに武家の倫理観からすれば、『極悪非道』と言える程のものでなければ、武田信玄のイメージがそれ程悪くならなくても、不思議じゃないでしょう。上杉謙信も、武力衝突にならなかったとは言え、兄晴景を引退させたのは、家臣が主君をすげかえた、という意味で、武田晴信の信虎追放と本質的に同じです。織田信長は、自分の力で、主筋にあたる下織田尾張下四郡守護代家を滅ぼしていますが、これは守護代家が信長の命を狙ったからやむないとしても、上四郡守護代の追放や、更にはその上にいる守護(斯波氏)の追放も、さして悪いイメージに繋がっていません。 そもそも、守護大名が戦国大名に転化した例が、武田・今川など非常に限られているという事は、織田信長が守護代や守護を追放したのと似たような例、あるいは追放には至らなくても実権を奪うような例が、ごく一般的だった事を意味します。これは「倫理が衰えた時代」というよりも「元々あった去就の自由が極端に通用した時代」と理解した方がいいと思います。

参考URL:
http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/book/index.php?OFFSET=120
noname#30350
質問者

お礼

「二君に仕えず」という価値観は徳川時代に作られたものだったのですね。確かに安土桃山期に主君をコロコロと変えている歴々の武将は多いですし、奉公構いを出されたりしていますね。 当時は「去就の自由」というものがあったのですね。 おっしゃるように書かれた当時の価値観というのは重要だと思います。 晴信も国人層の意向がなければ追放など不可能だった、その上での信虎の追放はあの時代においては人倫に反するとまでは言えないという事ですね。 江戸時代になっても、一部では重臣層が意に沿わない藩主を無理やり隠居させたりといった事もままあったようですね。 人吉藩では藩主が殺されるという事態まで起こっていますが、幕府もお取り潰しとはしていないようです。 朱子学が重視されても、なお、鎌倉以来の主従の関係の名残りもあったのでしょうか。 大変勉強になりました。 ありがとうございました!

その他の回答 (6)

noname#49020
noname#49020
回答No.6

 ご質問は日本人の精神構造に関連する大きな問題のように思いますが、それを突っ込んでいくと際限がなくなり、私もわかりませんので、少々乱暴ですが次のように単純化して考えてみました。  人がエライ人や年長者を尊敬し、頭を下げ、仕えようとする心には、大きく次の二つの要素があると思います。  A.純粋に敬う心(エライ人に力の背景ナシ)  B。損得勘定で敬う(逆らうと怖いから、仕えているとトクだから)  時代によって、この2つの要素の合計量には増減がありますが、今回の件はABの比率、割合が関係していると思います。  これを時代によってエイヤと示しますと   江戸以前 A小 B大   江戸明治 A大 B小 武士道 忠君愛国   戦後   A小 B大  Aの心もBが長期化したために発生したものですが、Aは何時の時代でも存在していました。  天皇が権力を失っても、将軍など時の権力者はその地位を奪うということは無かったですし、鎌倉時代の執権も将軍を頭に戴いていました。  一般庶民にもAの心は存在していましたし、徳川家の貴種好みや、戦後の小佐野某氏の奥さんが華族の出であるというのも、Aの心の変形であろうと思われます。  自分が力をつけても、頭に載っている人に手をつけて、それに取って代わるということは、非常に危険なことです。ライバルが挑戦してくる大義名分を与えることになるわけですから、やりたくても皆慎重になったわけです。  明智光秀・松永弾正・陶晴賢はそこいらへんを見誤った、自分の力を過信してやり過ぎたということでしょうね。  そして、江戸明治期のAの心の増大時期にウンと嫌われたのが影響しているんじゃないでしょうか。戦後の我々にもAは少しありますし。  極端な話、この人たちも国内で絶対的権力を築き、その状態が何百年も経過すれば、尊崇の対象になっていたと思います。  晴信は父を追放という形でなんとか折り合いをつけ、その後も全て成功したわけですから、「それ見ろ」ということにはならなかったのでしょう。  話はそれますが、明治期に、ある皇族の妃殿下が「こんなに力を持っていいのだろうか、こんなことをしていたら、長続きしないのではないか。」と心配していたというエピソードが残っています。  

noname#30350
質問者

お礼

Bはドライな面従腹背的なものにもつながりそうですね。 Aの心の増大時期にウンと嫌われた・・・そう考えると面白いですね。将軍家や大名家も朱子学を重視こそすれ、下克上や謀反をした人物が肯定的に捉えられるのは決して良しとはしなかったでしょうし…。 >戦後の我々にもAは少しありますし。 確かにそうですね。 天皇制は民主制の飛び地だと言う人もいますが、少なくとも私は共和制や完全無欠な平等よりも、今上天皇皇后を象徴に頂く今の立憲君主制の方が好きです。 明治時代に、そんな皇族のエピソードがあるのですね。 ありがとうございました!

noname#30350
質問者

補足

>天皇制は民主制の飛び地 すみません。「身分制の飛び地」の誤りでした。 新世社刊『憲法』の中で東大の長谷部恭男教授が使われた言葉です。 長谷部先生は、『日本国憲法は、平等な個人の創出を貫徹せず、世襲の天皇制という身分制の「飛び地」を残した。憲法がこのような決断をした以上、「飛び地」の中の天皇に人類普遍の人権が認められず、その身分に即した特権と義務のみがあるのも当然のことである。したがって、天皇・皇族には人権享有主体性がなく、主権者としての国民の中に含まれない。』という文脈で使われているので私のコメントは不適切でしたので訂正致します。 自分で書いていて「民主制の飛び地」に妙な違和感を感じていたのですが、やはり間違っていました。

  • tanuki4u
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回答No.5

下克上とは 下のものが上のものをコントロールすること。 この意味で、明智の例は未遂。 松永弾正は、義輝を排除した後、義栄を14代将軍にしている。 陶晴賢は、義隆を排除した後、義長を当主にしている。 これらは、大名家の当主というものが、国人層連合政権における、総理大臣のようなもので、信任が無くなると首をすげ替えられる。現代は選挙ですが、当時はそのまんま「首が切られた」ということになります。 その意味で、下克上は主君押し込めの一形態であるという説もあります。 晴信の場合も、晴信が主体的に父親を排除したのではなく、国人層が現当主信虎を信任できず、首をすげ替えた行為であり、飾り物といえば飾り物だった。まぁ その後 頑張ったというのが実情。

noname#30350
質問者

お礼

そういえば「その時歴史が動いた」でも晴信は国人層を当初から完全に統制できていた訳ではなかったとやっていました。 晴信自身の意思以上に、国人層の意向が信虎排除に働いたというのが大きいのですね。 3人の中では陶晴賢はかなり粗暴な人物だったようですね。 ありがとうございました!

  • caesar-x2
  • ベストアンサー率46% (251/542)
回答No.4

下克上は、当然、”マイナスイメージを与える行為”です。 モラル上のタブーで、不義・不忠にあたるので、 良いイメージを決して与えません。 戦国時代は、乱世で下克上が頻発した時代ですが、 だからこそ逆に忠義と仁義が尊ばれた時代でもあり、 このような時代だからこそ節度を持った武将は 高く評価されました。 それに対して、下克上に走った戦国大名は ほとんどが非業の死を迎えています。 あなたがあげた例のほかにも斉藤道三なども 加えていいと思いますが、 裏切り行為を一階是認すると、家臣団や親族から、 常に自分も下克上で倒されるのではないかという不安に さいなまれるのは自然であって、 新たな主人かれもまた裏切るのではないかと 疑われ、冷遇されるケースが多いです。 美濃では、氏家某などがその例に当たりますね。 武田信玄についてですが、モラルという点では 評判は必ずしも高くはありません。 孫子の兵法を標榜していることでも有名ですが、 信玄は”詭道”の策士であって、 今は人気がありますが、当時はもっと恐れられていました。 もちろん現代では静岡に住んでいても武田信玄が 攻めてくることはないわけで、当然ですよね。 時代が違いますから、実際問題として まったく印象が違うのはあたりまえですが、 我々は、道徳観という点でも当時とは違うことを認識すべきでしょう。我々は儒教教育を受けていませんし、 忠孝を尊ぶというような感覚にも疎くなっています。 だから下克上自体に、むしろ実力主義というような プラスの側面しか気がつきませんが、 要するに裏切りであり、多くは殺人であって 下克上は、酷い大罪なのです。 しかし武田信玄の場合、父親を追放はしましたが、 殺してはおらず、父親の信虎もやや問題がある人物だっただけに 道義としては完全に外れたわけではありません。 逆に言えば、世間のマイナスイメージを恐れて ”父殺し”は避けたと考えていいでしょう。 だから現代でさほど悪評が残っていないというのは 信玄のイメージ戦略がある程度上手くいった証拠でしょうね。

noname#30350
質問者

お礼

確かに信玄は信虎を追放こそすれ殺害はしてないですね。 奇しくも信虎は長生きをしましたが、結果論としては一国の国主まで務めた人物が何十年も他家を転々としなければならなかったくらいなら一思いに殺していたほうが・・・と個人的には思わないでもないです。 ただ印象として、殺すのと追放とではやはり大きな差ですよね。 それにしても、宇喜多秀家といい、松平忠輝といい、不思議なことにどうして流人・蟄居に身となった元大名はこうも長生きをするのでしょうか・・・。 ありがとうございました!

  • mige8891
  • ベストアンサー率23% (15/64)
回答No.3

例にあげられた三人の謀反は最後はうまくいかなくて、 敗者となってしまいます。 つまり、結果的にマイナス評価ということになります。 逆に武田信玄は父親追放後、 それまでの何倍もの領土を手に入れます。 戦争では比類なし、内政面でも優秀です。 父親の他に長男も自害させていますが、 そういうマイナス面を超えるプラス面がはるかに大きい、 ということではないでしょうか。 信長だって弟を殺したり、 比叡山を焼き討ちしたり、 マイナス面は日本史有数ですが、 やはり英雄ですよね。 プラスとマイナスの比較、ではないでしょうか。

noname#30350
質問者

お礼

武田晴信も戦国武将としての活躍度では毛利元就などに遙に及ばない気もするのですが、毛利も関ヶ原では敗軍の総大将となり歴史の敗者であったことが大きく影響しているのでしょうか。 晴信も国人層をまとめ上げるのにかなり苦心していたと「その時歴史が動いた」でやっていました。やっとこさ国をまとめ上げて、いざ上洛という時に病気になったのが残念です。織田信長VS武田信玄が見てみたかったです。 プラスとマイナスの比較というのはあるでしょうね。 ありがとうございました!

noname#113190
noname#113190
回答No.2

実際のところは判りませんけど、一応武田信虎は戦好きで、甲斐の国を恣意的に収めた暴君として描かれ、武田晴信は家臣たちに推されて、已む無く親を追放し、なおかつ殺さずに今川家に預かって貰うと言う体裁を取っています。 つまり、親を追放したのは、甲斐の人々の為に涙を飲んでやったことと喧伝され、親の信虎は主君としてふさわしくない暴君とされてしまったわけです。 諏訪頼重を滅ぼしたことや、今川氏との信義を無視して長男の義信を殺したなど、けっこう酷いことをしていますけど、乱世の政治家ですから、こういった面も必要だったのでしょう。 要は信玄の時代に甲斐が栄えたことと、徳川氏に武田家遺臣が多く仕えたので、祭り上げられたという面があるのではないかな。 息子の勝頼もなかなかの武将ですけど、猪武者とか言われてことさら評判が悪いのは、信玄を祭り上げ、息子は徳が無いので滅びて、それを徳川家が吸収したということにして、徳川家に仕える武田家遺臣の名誉を守ったという側面があります。

noname#30350
質問者

お礼

徳川家の武田家遺臣が多く仕えたというのは軽視できない要素のような感じがしますね。 それに家康もわが子・信吉に武田の名跡を継がせていますから、なかなか江戸時代に武田晴信を悪くかけなかったというのはあるのかもしれません。 ありがとうございました!

  • a-koshino
  • ベストアンサー率23% (102/441)
回答No.1

下克上をやるのは、戦国時代では普通のことで、マイナスイメージになりません。 明智・松永・陶に悪いイメージがあるのは、敗死したからでしょう。勝った側の羽柴・織田・毛利から、さんざんに悪宣伝をされ、それが後世まで残った、というのが実情ではないでしょうか。 下克上ではありませんが、同じく敗死した今川義元も、散々なイメージを残されてます。文武両道の名将なのに。

noname#30350
質問者

お礼

今川義元もイメージ悪いですね。 大河では谷原章介が演じているので、逆に新鮮な感じがしました。 やはり歴史は勝者の目線から語られるのが常なので、敗者、それも謀反人となるとかなり実像より貶められて描かれているのでしょうね。 ありがとうございました!

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