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未完成の価値と無常
完成されたものは壊れてゆくのみであるが、未完成なるものには壊れるという事がない。 故に、未完成とは無常の中においての一種の完成である。 また、完成とは無常の中においての一種の未完成である。 もし、未完成なるものの価値が、完成なるものの価値をも凌ぐものであったとしたならば、それは全てが無常である事によって与えられたものなのか? 発見の歴史ではなく、人の営みやその産物に対して日本的感性から資料をもとにお答えください。
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- 島崎 信也(@zakky74)
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zakky74でございます。 諸行無常ですが、よく誤った理解をされている方を見かけるのですが・・・今日は時間がありませんので、触れませんが次回は機会がありましたら再びサムライ(若しくは気分によっては、わびさび美学)と繋げて、本来在るべき姿の諸行無常についてhetanosukeさんと語ってみたいなぁ、と。 次回を楽しみにしております。 >ありがとうございます。 >私もサムライになれるかな・・・ >素人の剣は棒がゆっくりと倒れてくるように見える・・・といったように(失礼) なれますよ。 ただし、21世紀では剣をもてませんからね(笑)。 21世紀サムライという事ですね。 21世紀サムライ、これはカッコいいですよ。 一緒にやりましょう! >大変に真面目な方でいらっしゃいますね。 >私のように無常に晒されて毒気の多い人間ではないようです。 >ご精進を期待いたします。 >ありがとうございました。 真に無常でしたら、毒気はないのではないでしょうか(笑)。無常は、本来お釈迦さまが伝えたかった無常とは違う形で伝わっているケースも非常に多い様ですよ。 その場合、無常は虚無や虚空の様な、何かはかなくなります。実際は、違うんですよね。もっとサムライですし、わびさびですし、積極的なモンですよ。無常って。 そういう意味で、主題「未完成の価値と無常」はとても面白いと思っているんです。日本らしさを感じました。
- codotjtp
- ベストアンサー率26% (40/149)
確かに、「改良させ得る余地」を常に残し続けられる仕組みが、もし対象に備わってるのでしたら、無常を作り出せますので、その【仕組み】は完成されている、と言えましょう。 そして、周知の通りに、それは連歌にも象徴化されています。 但しあくまでも、未完成が無常を紡ぎ出していくのでして、 未完成が無常の中に含まれているのでは御座いません。
お礼
どうなんでしょうね。 無常を離れて物はなく、物を離れては無常もない、といった感じもしますが・・・ >・・・無常を作り出せますので・・・ >未完成が無常を紡ぎ出していくのでして、未完成が無常の中に含まれているのでは御座いません。 果たして無常とは、作り出せるものなのでしょうか? 無常を紡ぎ出していく、というのは無常観の認識が生じてきた、という風にとらえた場合には やはり、これも「発見」の部類に入るのではないでしょうか。 無常とは、知ると知られざるに関わらず真実であるように思います。 それは現象に伴う時間性であり、同時に、時間に伴う現象性であるといった事のように思うのですが・・・ 厳密にいうと、完成という概念は人間的な認識であり、すべてにおいて完成そのものはあり得ないのです。 それは、作り得た物が次の瞬間には変化してしまうという事によります。 完成とは、あくまで人間的な認識であり、実際には存在していないのです。 完成しつつあるものに完成はなく、完成したものにも完成はないのです。 もし完成があるのだとしたら、既にある変化を認めない範囲での完成でしかないのです。 そう考えると人間の認識とは、浅はかなようでもあり、愚かなようにも思えてきてしまいます。 しかし、作り上げようとする行為の一瞬一瞬においてのみ、完成を目指そうとするところに人間らしさがあり、作り上げられた物の魅力といったものがそこにはあるように思います。 未完成の価値や魅力というものも、その辺にあるのではないでしょうか。 無常なる変化を承知の上で作られたものも沢山あると思います。 だとすれば、さらに未完成の価値が増すようにも思えるのですが・・・
仰る意味は、だいたい分かりました。 未完成=これからも人の手が掛かる 完成 =もう人の手が掛からない の意味ですね。(おおざっぱな意味で) 構造物に関しては、大工さんから、わざと完成させない旨の 話を聞いたことがありますが、これについての文献は あるかどうか分かりません。 これとは若干、意味合いが異なりますが ウィキペディアに伊勢神宮の式年変遷の事が 記述されていますので、ここからの解釈の仕方によっては 古来よりの、大仕事にあたっては親子二代でとか 技術の伝承、また、渡り職人による技術の融合など 大工の仕事に対する責任感を読み取ることができます。
お礼
本題に少し近ずいてきたようです。 日光の東照宮の陽明門はわざと未完成にされたようです。 ここには、壊れてはいけない、失われてはいけない、という意識の基に未完成とされた造形があります。 無常の世に豪華絢爛なるものを創りあげた背景には、失われる事を怖れた心が深く働いています。 つまり、無常を怖れた心から生まれたものだと言えそうです。 伊勢神宮においては、そうした無常を怖れる心がない、と言えます。 大きな市ほどもある広大な神域は、そのものが神の象徴ともいえるものでもあります。 自然の永遠さや、自然の摂理といったものが神そのものであり そこには、移り変わりゆく自然が神の現れといった感じすら受けるものです。 無常という暗さのない静かな明るさがそこにはあります。 また、その社は大変に慎ましいものですが、元々は神との触れあう場所として設けられたものです。 故に、人間の側においては必要なものではあったが、神の側においては全く必要としないものであったように思われます。 遷宮という形も、そうした神の意を人間が汲んで行ってきた事のように思われます。 常に新しいものを慎んで神に差し上げる、という行いではなかったのかと思うのです。 結果的には、壊す必要のない物をあえて壊しては建て替える、という いわば無常に打ち勝つ行為となった感じもします。 伊勢神宮に関してはきりがないのですが ここには、無常の暗さのない静かな明るさがあります。 昨年の参拝者が800万人もいたという事からしても、やはり日本人を惹きつけるものがあるのでしょう。 仏教の暗さと神の明るさ・・・といった感慨も浮かびます。 せっかくの大切なヒントをいただきながら、少し脱線してしまいました。 修正しましょう。 ありがとうございました。
- 島崎 信也(@zakky74)
- ベストアンサー率29% (87/296)
人間は、知っている事から自由になれるのでしょうか? そういう問いかけであるかの様にも聞こえます。知について、知っている事について触れた後、主題についてお応えしてみたいと思います。 人間は知っている事が良い事だという思い込みがありますね。暗記言語ですから、覚えている程に良いという事なのでしょうが、根底には知は完全なものだと思っているんです。 知の完全性。 知は完全だと思い込んでいるから、知識を沢山覚えようとしますし、知ってる・知ってると言いますし、逆に知らないとバカにされたり未熟な気分にもなったりします。 ですが、知が完全なのでしたら、一体どうして未だ覚えようとするのでしょうか?本当に知が完全なのでしたら、その知によって幸せになる事も出来ますし、平和を実現する事も出来ます。その知によって、戦争を終わりにさせる事も出来ます。しかしそれがなっていません。それがなっていないのは、知の完全性が破れているからではないでしょうか? 知の不完全性。 知は不完全なものです。ですから、次々と知識は増えていきますし、修正もされていきます。それが正しいと思っていても、条件・状況・環境が変わればコロッと変わってしまいます。正しいとも間違っているとも言えません。相対的にコロッとコロッと変わるからです。 知は不完全です。その事に気付くとあらゆる知が不完全なのですから、そうした全ての知、一切の知を取り払って観えてくる新たな領域が広がります。無知の領域です。 無知の完全性。 一切の知を持たない、境界線が無い、イメージが無い、判断出来ない・・・知が不完全なのでしたら、そんな不完全性を一切取り払って無知そのものとなっている状態は完全です。そして、全てを包容できる無知の完全性は、全ての知の不完全性が透明に透き通ります。 知の不完全性を補う。 無知の完全性にまで来ますと、完全性だけあって全ての知が透明に透き通るものですから、知の不完全を補う領域に来ますね。そうして、知は常に常に上昇していきます。 知の完全性⇒知の不完全性 知の不完全性⇒無知の完全性 無知の完全性⇒知の不完全性を補う このプロセスによって知は終わりなき上昇していきます。つまり、全ての知の不完全は、疎通・交流⇒合一⇒上昇が起こります。 さて、こうした動きや流れを感じさせてくれるのが、サムライの世界ではないでしょうか? サムライは常に常に洗練する世界があります。 サムライは、五感覚による薄っぺらい認識方式をしておりませんね。五感覚による脳の認識は知っている世界ですし判断する世界ですが、知ってる世界、判断する世界は簡単に裏切ります。 剣が上にあるから・・・と思っていたら次の瞬間は剣は上にはありませんし、横から来るか・・・と思っていたら下から来るかもしれません。 五感覚による薄っぺらい認識方式を捨てたのがサムライです。そうして、知ってる世界から自由になっていったのがサムライです。 知ってる世界とは、この体が自分だと思ったり(この体以外が宇宙自然)、目の前にいる相手は倒すべき敵だと思ったりする事ですので、そこから自由になるんですね。 この体だけが自分ではない。 倒すべき敵は目の前の相手ではない。 これは、東洋の知の叡智を借りれば悟りの境地ですが、サムライはインドや仏教の悟りを明確に超えています。 インドや仏教の悟りは、何の緊張感もありません。 自分一人だけの悟りです。 サムライは、相手と向き合います。剣と剣が出会う究極の緊張の中でも、心をどこに置いておけばいいのか?という問を持ちながら、知ってる世界から自由になり、結果的に悟りの境地に達しますが、心を悟った状態を当たり前としながら尚且つ剣を持った究極の緊張状態にまで自分を追い込みます。 つまり、現実から離れる悟りの次元を超えて、現実の中に悟りを持ちこみ、現実世界にも応用活用されている悟りですから、サムライの悟りは半歩ほど上昇された悟りです。 それが日本の心、日本の精神、サムライの心でございますね。そんなサムライの心ですから、知っている事から自由となっている状態を、更に現実にまで持ち込んで知の不完全を補う領域にまで踏み込めます。 宮本武蔵が、相手と対峙している時に剣を捨ててその場で座禅を組んだ事で、目の前にいる塩田は参りました・・・と言います。或いは、自分を倒しに来た相手と仲良くなる事だ・・・という合気道創始者の言葉もあります(究極の技とは何ですか先生・・・と尋ねられた時の応えだったと思いますが)。 戦いを終りにさせる戦い、戦争を終りにさせる戦争。日本は、戦いであってもそこに美学があります。それは上昇された戦いだからですね。 知の不完全性を補う・・・そこに、サムライの心による洗練を観ますし、常に上昇し続ける彼らの姿を感じます。 今の時代、この日本にもサムライの心が充満しています。
お礼
ありがとうございます。 私もサムライになれるかな・・・ 素人の剣は棒がゆっくりと倒れてくるように見える・・・といったように(失礼) 大変に真面目な方でいらっしゃいますね。 私のように無常に晒されて毒気の多い人間ではないようです。 ご精進を期待いたします。 ありがとうございました。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
世界(有限的存在性)は、任意的時間軸(自我仮説)の導入によって、 相補的に派生するものです。 変転することによってのみ存在する、ていう。 不確定性原理により、本質的に絶対的に確定化すると無=無限不確定化し、 不完全性定理により、公理系は不完全である事によって無矛盾であり得る。
お礼
ありがとうございました。
万物は生じては変化し、 いずれ滅するものと観るのが「無常観」です。 その視点に立つなら、 全ては変化の途中と言う事になりますので、 完成と言う概念そのものが成り立ちません。 そして、完成が無ければ未完成も無いので、 アナタの問いそのものが成り立たなくなります。 「無常」とは、全ての概念を超えてしまう、 ある意味「元も子もない」概念なのです。 また、無常と言う概念は、 「常なるものが存在する」と言う概念があってこそ、 生じる概念でありますので、最終的には、 無常観は無常観をも超えてしまいます。 「常」も「無常」も無い所まで来ると、 もう説明する事は出来ませんので、 昔のエライ人達は「中道」や「空」と言った、 (当時としては)新しい言葉を作りました。 まあ、その言葉の真意が、 マトモに伝わっている状況だとは、 言い難いのが現実ですけどね・・・。 ちなみに、参考資料は仏教「中観派」の書籍と、 「般若経」全般です。
お礼
大変に面白いのですが(失礼) 竜樹の既成概念の自己矛盾の打破・・・といつた感じなのでしょう。 こうした論法のやりとりは、実利のない危険性をもたらします。 私はそこにのみ深入りするつもりはありません。 残念ながら、日本的な感性はお示しになられなかったようです。 論法の危険性は承知しています。 ありがとうございました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
曹洞宗か臨済宗か記憶にありませんが、し終わった庭掃除を住職だか師僧だかがみて、【これが掃除か】と叱ったそうです。 木の葉一枚落ちていない庭掃除はないとまでは説明をしなかったが、木(枝かな)をゆすりを葉を数枚散らして、【これが掃除だ】といったそうです。 東洋の書画なども空白をどう画くか。 詩歌も無言の伝えと余韻。 それが貴重ですね。 もう50年前ですが、西欧的な法学、法哲学を一生懸命やりましたが、理性があれば悪魔にも通じる言語で表すのが法律でありその解釈内容だといういうことですが、日本や東洋は違うようですね。 宇宙と創造界が創造にかかるものだというなら、この宇宙と創造界そして人間は創造者の意図からは完成していると見るべきか、不完成と見るべきか、完成に向かってい未完成とみるべきか。 目的と目指す価値を予定していないとすれば完成でも未完成でもない。 目的と目指す価値を予定しているとすれば、未完成か不完成です。 そして無常なる風(原理ないしはforce)はこの宇宙と創造界の中に登場した存在とされる全てに吹く(全てを覆う)。 完成していても未完成でも、不完成でも。 無常原理はそれを儚い存在実体のないものだと、露わにする。それが無常原理でしょう。 それにしても、完成は未だ曽って存在という客体にはあったことがない。 だからこそ宇宙と創造界が価値に向かってか、価値も関係なくただ取り留めなくか続く。 そして突然にその終末もくるであろう。始まったものは終わる。未完成も完成もない。 私は日本人であり、出典としては私しかいない。という書き込みで、【発見の歴史ではなく、人の営みやその産物に対して日本的感性から資料をもとにお答えください。 】というフレーズに対応したい。 私の今の精進はhttp://www.yogananda-srf.org/ (Self-Realization Fellowship)というキリスト教文化圏に根ついてきたヒンドゥしそうであります。 日本人なので、仏教や論語は多少は勉強した事はあります。つまり基本はインド思想からで、資料は上のギータです。
お礼
ご精進されておられますね。 上記の掃除の件は参考になります。 創りあげるのではなく、取り去る事によって完成を目指すという行為を通して転識得智としたのは、いかにも禅的です。 掃除という取り去る行為を、さらに取り去って、見せた世界ですね。 釈迦が弟子のチューラパンタカに履物の掃除の修行を行わせた事の反対の事例のようです。 ただし、ここにおいては発見の世界のようでもあります。 掃除という公案に答えられなかった者に対して、師が本当の掃除をしてみせた、というべきなのでしょう。 師が落して見せた落葉の一枚一枚に、自然の持つ命が宿っている事を知らせたかったのではないでしょうか。 このような直観に訴えた、大いなるものの把握・認識という事は、やはり発見と言うべきものだと思います。 数理公式などの不変で永遠なるものは真理的であり、無常の風に晒されないものです。 仏教における真理的なるものも同様でしょう。 発見された真理とは無常に左右されないものです。 なので 「発見の歴史ではなく・・・」と書いたのです。 その辺のところをご理解ください。 ありがとうございました。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
未完成なものだって壊れるでしょう。 仮説を立てたが、途中で欠陥が見つかったため ダメになった。これは壊れた、ということに なりませんか。 工作をしていた。もう少しで完成する という時に、子供に壊された。 修復の余地が無い程度に壊された場合 であれば、完成しようがない。 新しく作り直した場合は、それは新たな創造で あり、壊れなかったのではない。 未完成なるものの価値が、完成したものを上回る てことはあるでしょうね。 視肉は死なないかもしれないが、それに何の価値が あるのか。有限の命しか持たない人間の活動の方が 価値があるのではないか。 それとも結果主義と行為主義のことを言っている のでしょうか。 例え結果が出せなくても、努力した、そのことが 価値を持つ、て行為主義は日本的ですね。 キリスト教文化圏では、労働は神が与えた罰ですが 日本では、労働すること、そのことに価値を見いだし ます。 零戦をみたとき、アメリカ人は驚きました。 これは、工芸品だ。武器ではない。こんな精緻な 戦闘機を造るなら、その費用と時間で、より多くの戦闘機 を製造する方が戦争には有利だろうに。 こういった日本人の価値観が、今日の技術立国を 造ったのだと思っています。
お礼
ありがとうございました。
- pupurr
- ベストアンサー率18% (129/704)
こういう考えが、具体的に東北大震災にいかせるといいですね。 架空の空論なら、虚言癖の鳩山か、口だけの民主といわれるでしょう。 使える知恵の哲学と、使えない空想的議論がありますが、これは正邪の2つとして見極めたほうがいいですね。 舌先三寸のれんほう議員あたりが参考にする程度のたわごとか? 無常だろうが未完成だろうが、復興はしなきゃならない。 物の価値はその人の意識レベルによる。 どんなものもいいところがあり、凡人はそこがわからない。 完成といっても、人間のように、水、空気がないと生きられない。そういう生命はすべて補完されて生きられるわけですから、、、どんなものもひとつとして完成され、独立したものはない。 価値とは、人間のことである。本来、人はできるようになったことを価値と呼ぶ。 言葉の意味をしり、真実を知る途中の人の質問だと思います。 言葉遊びはおやめなさい。迷いごとを増やすだけです。見るべき人が見ると、すべて見抜かれますよ。
お礼
>言葉遊びはおやめなさい。 そうではないのです。 完璧な完成を嫌って意図的に未完成の状態のままにした物もあるのです。 そうした例をご存じでないのならば残念です。
- sak00
- ベストアンサー率26% (21/79)
永遠な未完成、が成り立って欲しいものです。 ただ、 人類歴史上、 完全で完璧な時代は、 現実に何一つ存在していません。
お礼
ありがとうございました。
お礼
ありがとうございます。 わびさび、ですか? 一つだけ提供しておきましょう。 京都の竜安寺の石庭は、庭園芸術が写実から抽象へと変わった事においての金字塔ともいえるものですが この庭園の解釈は枯山水という、大海を模したものであるとされています。 しかし、私はもっと人間臭いものなのではないかと思っています。 それは、組まれた石の裏側に作者と思われる名前が刻まれているからです。 山水河原者という被差別民による、不浄賎民の芸術という見方もされています。 きれい「わび」、きれい「さび」という表面だけが真実ではないのです。 そこにこそ、無常と人の有り様があるようにも思えるのです。 枯山水とは、未完の可能性を限りなく秘めた芸術のように思います。 また、自然というものに対しての人の感性の極みをも示しているようにも思えるのです。 結果として、わびさびとして私達が受け取る事になつたのか、或いは最初からその意図があったのかは不明です。 作者とおぼしき名前が石に刻まれて、今もなお残っているという事実の重味こそが、作品の超自然的な表現に対しての人間らしさの証明のようでもあります。 名を残すという行為は、無常に打ち勝とうとする人間らしさでもあります。 そこに見えてくるものは・・・ この辺にしておきましょう。 おしゃべりも過ぎるとつまらなくなりますので・・・ やっぱり未完成の方が面白いようです。 ではまた。
補足
zakky74さんへ この質問をして良かったと思っています。(本音) それは、わび、さび、という言葉を聞く事ができたからです。 当初は私の頭の中には、その言葉がなかったのです。 無常観から人や人の作り上げたものを見るという事にこだわる余り 集約された結論というものを期待していなかったのです。(本音) たぶん、といっては失礼ですが zakky74さんの中には、未完成の完成とは侘びである、といったヒラメキがあったものと思われます。 そして、その事は正解だと思うのです。 私の見方と違う点は、zakky74さんの場合には、物事をきれいに美しく捉えようとなさっている感じです。(少し本音) 私の場合は、どちらかというと、人の心の底辺から見てみたい、という泥臭さがあります。 それは、無常の中の人の生き様を写し出してみたいという愚かな願望のようでもあります。 暗さの中にこそ真実があるという錯覚なのかもしれません。 いずれにせよ、侘び、という言葉を聞く事ができただけでも幸いです。 少し上段に構えて、竜安寺の話など持ち出してしまいましたが、隙間だらけのようです。 最後に私なりの、侘び、さび、の解釈を載せます。 侘び、とは無常の中の存在感、存在の美 さび、とは無常の重なり、重なりの美 侘び、とは未完成の完成、一瞬の美 さび、とは完成を終えた完成、時の味わい 毒気もこれぐらいにしておきましょう。 それでは、いつかまた。