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キリスト教の存在意義について考える
- 終末においてイエス様の来臨により、御国と地獄への分け隔てが生じます。御国とは永遠の祝福と平和の場であり、地獄とは永遠の罰と苦しみの場です。
- 聖霊を冒涜する以外の罪は全て赦されるという教えがありますが、イエス様を信じないこともその中に含まれるのかという問いには、意見が分かれます。キリスト教徒の間でもさまざまな解釈があります。
- キリスト教の存在意義については、多くの人々によってさまざまな意見が存在します。一つは、人々に永遠の救いと希望を与える宗教であるということです。また、キリスト教は個人の価値観や道徳を形成し、社会への貢献を促す役割も担っています。
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>自分の生活習慣が悪くて病気になり、自分の生活習慣のどこが悪いのかも解っていながら改める事をしない人は結構居るのです。改めるのがストレスだからです。これを踏まえ「既に裁かれている」のであれば、これ位で済むなら全く問題ないと考える人がほとんどなのではないでしょうか。「既に裁かれている」に反論しているのではありません。現に聖書にそう書かれていますし、私自身の体験もそれを証明しています。ですが、それが聖書に書かれている「裁きの全容」だとするなら、裁きなど全く問題ないです。改めたいと思った時に改めようと思います。それが現代人の普通の発想ではないでしょうか。 ご指摘のように悪い習慣を改めるのは当人にとりかなりのストレスであるということはうなづけます。前にも書きましたが神学を学んだわけでもなく、自分の体験を通してのみ回答せざるを得ないので自分のことを書くことをお許しいただきたいと思います。自分がクリスチャンで無かった時はどうだったろうか思いめぐらしますが、その第一の特徴は自分に罪があるなどとは思っていないということでした。しかも自分はまじめで善人だと評価していましたから、他のクリスチャンの方々から見たら、悪臭紛々であったと思います。つまりご質問者さんが述べられているお友達あるいはお知り合いの現代の人たちにとり、罪の痛みや裁きの結果が回答の通りであるならば問題ないと考えることも至極当然のこととしてうなづけます。そもそも「罪」の意味が分かっていないからです。 罪を理解するというのも実は体験だと思います。お友達には罪を罪と知る体験が無かったということをご理解して差し上げる必要があると思います。聖書にある通り「罪の報酬は死です。」と言う通り彼らは罪を犯し続け、自分たちがすでに死んでいるということに気づいておりません。彼らは丁度死んだ魚と同じで、人生という河の流れに流されて最後は腐って骨だけが海底に沈んで行っているそのような存在です。なぜならば生きている魚は急流を上り、自分の目的地にまで登ってゆくことができるからです。 罪の生活は何か構築されているように見えても実は大きな音とともに崩れ落ちてゆく時が来ます。お友達があるいは現代人がなにか真に確かなものに触れますと今までの罪の世界が跡形もなく崩れ去る現状を心のうちに見ることができると思います。それは回答者の体験でもありました。罪とはおおきなものであれ、小さなものである放っておきますと全体を破壊します。 「神は命を捨てるほどにこの世を愛された、それは一人として滅びることなく、永遠の命を得るためだからです。」と言うのは本当ですが、聖書やイエスと無縁の人にとってはまた意味もない言葉であるということもまたわきまえております。これはご質問の「非信者にとってのキリスト教の存在意義って何でしょうか」と言うこととも関連してくると思います。ご質問者さんに出来ることは少ないと言わざるを得ません。おそらくその方のために「祈る」しかないように見えます。 >そして、仏教にも全ての人の罪を一身に背負って死ぬ仏様が居ます。 確かにその通りで、一般人の中に人のために命を捨てる人がおりました。昔、三島由紀夫という有名な小説家がいましたが、国の将来を憂いて市ヶ谷の自衛隊駐屯地に数人の同志とともに突入し、檄文をバルコニーで読んで、自決しました。国のために自分を捨てることが彼の使命であったというよりもとにかく彼は死に急いでいたように見えました。今回の地震に伴う津波でも多くの方が他の人を救うために命を落としました。そのような意味ではイエスも特別ではないと言えなくもありません。イエスはしかし自分が殺されることを認識したうえで十字架に付けられるまで苦しみや恐怖や不安を乗り越えて私ども罪のために死なれたというのが聖書の見解と思います。 しかしここ話が少しそれますが、イエスが私たちの罪のために十字架において自ら命を捨てたということは、私どもクリスチャンはもう自分の命を捨てる必要が無いということではないでしょうか。だから、たとえ命を失うことがあってもイエスの求めた生き方を実践してみようとしたこの回答者は決心した後30年以上も生きてきたのではないかと思います。つまり私どもがつかんだ真理をお友達に説明する時もご自分で死んでみせる必要はなく、ただイエスのもとに連れてくれば良いだけです。キリスト教と言う教えや決まりごとに連れてくる人がいますが、それは第一義的なことではないと思います。 またご質問者さんのご質問をお読みして、神は私どもの心の内に良心を創造されてその後この世に送り出してくださったと確信させられます。その結果イエスキリストを知らない人でも、聖書を一度も読んだことが無い人でも、心の奥底に正しく生きたいという願い、罪を犯したくないと言う気持ちが生じるのではないかと思います。神様が私どもの心に良心を書き込んだということに感謝したいと思います。ご質問者さんがいみじくも書かれておりますように、キリストのある側面をクリスチャンで無い人が知っていることがあるというのはまさに心に書き込まれているイエスキリストの心ことではないでしょうか。もしそうであるならばキリストをキリストととして明確に認識していなくてもキリストはその背後にあるわけですからキリスト抜きに赦されるということも言えなくなるのではないかと存じます。またさらにいみじくも書いておられますが、「誰もキリストの全体を理解することはできません。クリスチャンもキリストの一面しか知らないのです。」、まさにその通りでございまして、回答者が軽々しく理論的なアプローチを試みるということはイエスキリストを十字架から引きずり落としてしまうことになりかねません。しかし神は愛ですから、どのような議論を挑んでも彼はたじろぎもせず、私どもが理解できるまで待ってくれるはずですし、それこそ天的な方法で啓示してくれるはずです。求めなさいしからば与えられるであろうというのは聖書の理解が与えられるであろうとも読めますし、さらに信仰が与えられるとも読むことができます。不足するものがあるならば祈り求めなさいということだと思います。 従いましてキリスト教の存在意義がなくなってしまうというご質問者さんのご質問に対しては繰り返しですがイエスのところにお友達の非信者や現代人をお連れするということになるのではないでしょうか。その後お友達や現代人の方のイエスキリストを理解する度合いに応じてキリスト教の存在意義が増してくるのだろうと思います。 >裁きとは永遠の地獄の火に焼かれるとか、そういう恐ろしいものでない限りは、キリストを信じなくても結局は赦されると考え、例え赦されなくても信じていない事自体が既に裁かれているという様な痛みの伴わないものであるなら、それが解った時に改めれば良い、それまでは気が済むまで遊ぼうではないかという事になると思います。では、聖書に書かれている永遠の地獄の業火に焼かれるとか、そういう事はやはり死後起こるのでしょうか。そうだとすれば、聖霊を冒涜する罪以外の全ての罪は赦される(その他同義の箇所含む)と書いてあるのはどういう意味か。 聖書で死後の裁きの結果がどのような世界かを記載した個所としては以下の個所があると思います。 ルカによる福音書16章19~31 ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。ところが、ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。この貧しい人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。 聞いても聞き入れない人が多数存在しますということは、聖書でも認めていることでありますが、絶対にあきらめないで語り続けるというのは私どもクリスチャンの務めと思います。
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- kigurumi
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>素朴な疑問なのですが、信仰の無い人たちは、どうして他の地域に似た様な話があるという事をもって”人間の作り話”的な解釈になるのでしょう。 ううん 違いますね。 イエス話にしてもミトラにしてもディオノシスにしても結局は 人間が真理(正義)の存在を信じ続けてきたって証 って言いたいんですよ。 人間は神話を書いて自分の思想を表すので、神話に登場する人物は実在しないが、真理を求める人々は実在したってことです。 結局 キリスト教の人々は、正しさが存在すると信じているから、信仰を続けるわけですよね。 イエスを正しい人 真理とすることで、真理の存在を肯定しているわけですよね。 ただし、神の偶像によって利用される愚かさがある。 その愚かさを持つものが、真理を望むなんておかしいとは思いません。 愚かだから騙され、利用され、他人を殺し、搾取してきた歴史を作ってしまったわけですが、その人々が真理を求める資格は無いとはちっとも思いません。 既に真理に至っている人には真理を求める必要は無いが、真理に至ってない人にこそ真理を求める心は必要だって、えっと、、、イエスの弟子が既に清い人はどうなるんですか?って質問したとき、罪びとにこそ教えが必要だって答えましたよね。 既に清い人には教えはいらないって。罪人にこそ我々の救い(教え)が必要だって。 >万有引力があり、リンゴから手を離せばリンゴは地面に落下する事は誰でも知っていますが、ではなぜ万有引力が存在するのかは誰も知りません。 え? ブラックホールがあるからじゃあないんですか? 地球自体ブラックホールですよね? 徐々に地球の中心にあるブラックホールに向かっていくので、いつかは野球ボールくらいにまで小さくなり、ものすごい熱を発するので(摩擦で)爆発する。 頭の部分と足の部分の時間は違いますが、ブラックホールがあるから差があるんですよね? だから、地球のどこに立っていても足は中心を向くわけです。 アインシュタインがブラックホールは存在するといったら、他の科学者はそれを否定し、日食のとき実験をして、光が曲がったことを確認し、ブラックホールは確かに存在すると認めましたよね。 ブラックホールのものすごい重力で、まっすぐしか進まないはずの光すらひっぱられる。 >大昔天罰や呪いだと考えられていた疾患の機序が理解できた時、それを癒す方法も導きだせる様になりますが、なぜそれだけで天罰や呪いであるという事を否定する根拠とするのでしょう?(※私も天罰や呪いだと考えている訳ではありませんが、たとえです)一つの疾患を治せても他の形で一向に地球から疾患は消えてなくならないではありませんか。 ああ よかった 最初のところ読んでて、「え? あなたもエミリー・ローズを見て 悪魔の存在を裁判所が認めたと思う派?」って思ってしまいました。 はい確かに疾病はなくなりませんが、そもそも例えば薬ってのは、例えば熱があるとき、解熱作用のある薬を投与すれば解熱しますよね。 じゃあ いいかというと、熱を人間が出すということは、体に異種のものが入ったので、センサーが反応して熱でその生物を焼き殺そうとするから、熱が出るんですよね。 ですから熱があるってことは、身体に有害な細菌が入ったってことで、熱だけ下げちゃうと、有害な細胞は殺されず、繁殖してしまい、熱は下がっても細菌のせいで他の部分がやられちゃうじゃないですか。 片方が片付いたから、万事オッケーってわけじゃなく、見逃していた部分があり、せっかく体が殺そうとしたのに、解熱剤を投与され、表目の発熱だけ取り払われてしまい、結果別のものにより害が出てしまった。 これが今の医学の現状です、目立つ不具合を突貫工事で取り除く。 日本人に死因のトップはガンですが、がん細胞の発生と地球に生命が発生したのは同じ過程を踏んでいるって知ってました? 人間にとってはガンは敵ですが、ガンも我々も同じだってことです。 地球で人間が一番だって思っている人間ですが、他の生命体は人間が一番だと認めていません。 むしろ害獣だと思っているんじゃないかと。 地球から人間が消えたところで、他の生命体は困りませんし、地球も困りませんし、神である太陽も人間が地球から消えても、どーってことないです。 月は困るかもしれませんが、、地球は物質ですから地球が消えたことで、いっきにかたなに飛ばされていっても「あーれー」なんて言いません。 >もし工場でゴミ箱がどの様にして作られるかを見たなら、そのゴミ箱は勝手に出来上がったのであり、それを開発した人間が居るとは考えないでしょうか? ああ スパゲティーモンスターですね。笑 えっと、、、宇宙の誕生や地球の誕生の仮説の映像みたことないですか? 実験室で人工雷を起こして実験をやった結果、DNAを構成する物質ができたそうです。 地球に生命が発生することになった理由は いくつか仮説がありますが、そんな中に原始の頃の地球環境と思われう状態を実験でやったら、生命体は必ず持ているDNAを構成するのに必要な物質が誕生したってのは、結構 すごいと思うんですね。 長い過程をふみ、何度か生命はできたが絶滅している。 地層を調べて、生命が長らく途絶えた時期があることが判明している。 また生命体が誕生する条件がそろったが、今度は地球の熱が冷めて海が蒸発し地球の自転で宇宙の外に逃げず大気圏を作ったことで、生命にとって有害な宇宙線をだいぶシャットアウトできるようになり、、、、 って壮大なロマン映像がyoutubeにあると思うので、ご覧になってください。 小さい頃からこういうのに興味あって見てたので、、、、すいませんねぇ、、 一応 母親キリスト教系の大学卒なので、聖書はあったが、その環境にいながらも、別の価値観を持つってのが、要するに亜種の誕生 ホモサピエンスの誕生と同じなわけで。 ひとまず、図書館にあると思うので https://www.newtonsanseido.com/cart/book_view.php?book_code=0000000000063265 https://www.newtonsanseido.com/cart/book_view.php?book_code=0000000000063269 ここらあたりを読んでみてください。 私は聖書と神話と科学雑誌の知識をもって、総合的に考えているつもりです。 偏っていたら、知らないものは知識が無いので、知っている知識のみでしか考えられず、答えも偏ってしまうしかないわけで。 一応 さらにキリスト教を人がどう活用しているかまで、講義を受講しいろいろな資料をもらい、考察した経験があります。 フィールドワーク人の資料 予想外の内容だったので、かなりおもしろかったです。 99%がローマ・カトリックの島。 教会と住民が相互作用しながら、今の社会を作っているとわかった。
お礼
ご回答ありがとうございます。 最初のパラグラフ、つまり私が「どうして他の地域に似た話がある事をもって~」と言った事に関しては書き込んだ直後、いや、書き込むボタンを押す前からちょっと滑っているなーとは思っていたのですが、ついそのまま書き込んでしまいました。 すみませんでした^^; それ以降の文章ですが、思想というか思考というかが結構違い、おまけに背景知識の違いも目立ち、正直ゆっくりゆっくり読まないと理解できないと思いますが、申し訳ない事に私も忙しくしている身で中々ゆっくり拝見できません。 もう少し簡単に仰って頂けると助かります。 よろしくお願い致します。
黙示録ですね。。。何度読んでみても、いつも同じところで躓くのは、私も同じです。 表面だけ読めばよいのなら、御国とは現在の地球が滅亡した時に新しく創られた地球と天国、地獄とは火に満ちた谷、羊とはユダヤ教徒、キリスト教徒および”生者の書”に名の書かれた人、ヤギとはそうでない人を現すのでしょう。 イエスを信じなかった人々が許されるかどうかは、生前の行いによるし、その名が”生者の書”に書かれているかどうかにかかっていると私は読んでいます。それが審判によって明らかになるのでしょう。もちろんキリスト教徒以外は全員地獄行きという人も多いです。 現在、アイザック・ニュートンの”ダニエル書とジョンの黙示録の預言における省察”なる本を読み始めたところで、彼は預言の中の未来を予言するところでは、例えば”小さな角”はカソリックの大本山であるバチカンを指すなど、暗号を解くような読み方が必要である、と主張しています。 まだ三分の一ほどしか読んでいませんので、彼の黙示録に関する見解はご紹介できなくて残念です。 最後にキリスト教の存在意義ですが、パスカルの言うところのいわゆるオネットム=righteous man=心清い人となり、地の塩になる努力を一人一人が続けてゆけば、おのずとその存在が是とされるものになるよう、祈っています。 不完全な回答で、失礼しました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 聖書の解釈は違いますが、誠実な文章を拝見できた事がうれしいです。 ありがとうございます。^^ バチカンを小さな角とする説は、以前SDAにお世話になった時にかなり突っ込みましたが、「可能性の一つ」としての域を出ませんでした。 黙示録を読むと滅びる人が大勢居そうに見えますが、福音書や書簡類を読んでいるとそうとも言えない箇所がいくつもあり、悩めるところです。。。 >自ずとその存在が是とされるよう~ 私もそう願います。 ご回答本当にありがとうございました。
- kigurumi
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ネバー エンディングストーリ。 これがオリジナルとは断定できないが、古代エジプトにある神話があった。 ホルスがセトを倒して朝が来る。 夕方になるとセトがホルスを倒して夜が来る。 ホルスが昼、セトが夜。 二元論なわけです。 で、古代エジプトの神話に最後の審判という概念が出てくる。 古代エジプトの人は心臓に魂があると思い、(驚くと心臓が痛くなるし、悲しいと胸が苦しくなるなどから、感情(知能)の源は心臓だと思っていたのではないかと。) 死ぬと人間は最後の審判を受け、マアトの天秤の片方に心臓が乗せられ、もう片方にマアトの羽が置かれ、マアトの羽につりあったものは、西にあるオシリス(太陽は西に沈むから)の治める国でオシリスと永遠に暮らし、釣り合わなかったものの心臓はアメミット(ワニみたいなもの)に食われてしまうとなっていた。 最後の審判のときに 人は否定告白をしなければならなかった。 http://www5b.biglobe.ne.jp/~moonover/bekkan/sisya/index-125-3.htm 「人のものを盗んだことはありませんっていません」「人を殺していません」「姦淫していません」など40以上のことを「やってません」と否定告白するんですね。 (エジプトの死者の書と現代では呼ばれているものより) エジプト版は40以上もあるが、モーセ版は10。 古代に栄華を極めたエジプト文明が、ある頃を境に謎の後継者不明状態になった。 早い話が文明の担い手だった知識人がパレスチナに移動しちゃったからじゃないかと。 現代エジプトに住んでいる人は、遺伝子的に古代エジプトの人とは系統が違うらしい。 で、黒い山羊は山羊は普通黒かったので黒い山羊、羊は普通白いので白い羊はノーマル。 ヤコブ(後のイスラエル)は叔父のラバンのところで働いたが、黒い山羊と白い羊はラバンの財産、それ以外のブチとかまだら模様はくださいって言ったわけで、数的にめったにいないのでラバンは財産が減らないのでいいよって言ったわけですが、ヤコブはまだら模様やブチをせっせと交配させて、数を増やして大金持ちになってしまった。 ラバンは財産が減らないからずっとヤコブは貧乏で、自分のところの使用人でいるだろうから一生安泰だって思って約束したのですが、、、 これが聖書に出てくる山羊と羊のお話のひとつ。 新約聖書は旧約聖書を展開して物語を作ってますが、羊と山羊が出てくるのはマタイ。 http://www.missionjapan.org/cgi-bin/bible.cgi?matthew/25 31からですよね。 旧約聖書からではなく、古代エジプトのモラルに関する話が、パレスチナでこういう内容の話でモラルとして伝えられたわけです。 これはキリスト教に限ったことではなく、その後も主人公の名前は違えど、古代エジプトのモラルが後世の人々の道徳として伝えていかれた。 http://www.youtube.com/watch?v=demGXvUgT14 各神話の主人公が信仰された時代をチェック。 真理は何度も人間によって否定されるが、また蘇るので、真理は完全には死なないってことなんでしょうかね。 人々はそれでも真理を求めてやまないから、何度も時代を超えて蘇るのかも。 で、信者でもない私が総合的に判断すると、、、 創世記の冒頭で、<地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。>とありますが、確か霊はルーアハと書かれていた思う。 ルーアハは英語だとスピリッツと訳されていたと思う。日本語だと霊とか精霊。 で、創世記はカオスの世界のような交じり合って不確かな世界においても、正義がただよいつつ存在していたって、古代の哲学者は、人間が何度も混沌に向かいながらも、正義を求めてやまない理由として、ルーアハは古代より存在していて、完全消滅することは無いから、人々は混沌に向かいながらもまた正義にこの世を変えようとするのではないかと、考えたのではないかと。 それが、人間がどんなにひどくなっても、正義を求めてしまう理由だとしたんじゃないかと。 まあ それが正解だとは証明できないが、理由のひとつとして話すと、なんかその説は説得力あるので納得してしまう。 古代よりあるネバー・エンディング・ストーリー。 もともと哲学者のエンデが書いたものだそうですが、エンデは作品が映画化になってできあがった作品を見て、最後の部分は自分の思想と違うから変えて欲しいと訴えたようなんです。 どういう終わり方を映画がしていたかというと、まるで復讐したかのような終わり方。 というか、いじめっこたちがひどい目にあって、苛められていた子供が正義となった終わり方。 勧善懲悪的だが、そんな陳腐なことがエンデの思想ではなかったので、それでエンデは訴えたわけです。 他人が不幸になることを喜ぶなんて、自分が幸福になり自分と違う思想の人がひどい目にあうことを正しいとするなんて、そんなチープなことをエンデは考えていなかった。 まあ 子供向けにわかりやすくしたので、正義と悪の二元論的に映画を描いたのでしょうけど。 結局 エンデはクレジットから名前を外してもらうことで、「この映画はエンデの思想を表しているものではない」となり、引き下がったようなんです。 「自分は地獄に行きたくないから、正しいとすることをやりたいので、羊と山羊とはなんで、正しいことは羊で正しくないことが山羊だとしTら、正しい人である羊になるには、どうすればいいですか」という風な質問でしたら、あなたの中にルーアハは存在しており、あなたがルーアハの声に耳を傾ければいいのではないか と。 <ライラの冒険 黄金の羅針盤>という物語は、真理を知ることができる唯一のライラが主人公なんですが、3部作のはずが、この映画はアンチキリストだとして、ボイコットしたため、資金を集められず2作目は断念することになったらしいです。; ライラの冒険 アンチキリストじゃあない。 「これが正しいことだ」と教権が制定し、人の中にルーアハがいるため、人は不幸になってしまうのだから、ルーアハを人から切り離せば、人はルーアハの声を聞くことができなくなり、正しいことを言う自分たちの言うことに人々は耳を貸し従うだろうって考え、ライラのお母さんもルーアハを切りはなすことで、どれが正しいのか自分で考える必要はなくなり、「これが正義」と示す教権の与えるものを幸福だと思って生きていけば悩むことは無くなる って考え。 キリスト教会は教権は自分たちのことだと思い、キリスト教会に対する攻撃映画だと思って、団結して映画をボイコットしたんです。 ルーアハはそれでも存在しており、キリスト教会はルーアハを消滅させることはできず、従って人々は正義を求めてやまないのでございます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 昔自分がそうでしたが、自分の場合は単に考えがちゃんと回っていないだけでした。 素朴な疑問なのですが、信仰の無い人たちは、どうして他の地域に似た様な話があるという事をもって”人間の作り話”的な解釈になるのでしょう。 なぜ、物事の構造の表面が解ったからといってその奥には何も無いと考えるのでしょう。 万有引力があり、リンゴから手を離せばリンゴは地面に落下する事は誰でも知っていますが、ではなぜ万有引力が存在するのかは誰も知りません。 大昔天罰や呪いだと考えられていた疾患の機序が理解できた時、それを癒す方法も導きだせる様になりますが、なぜそれだけで天罰や呪いであるという事を否定する根拠とするのでしょう?(※私も天罰や呪いだと考えている訳ではありませんが、たとえです)一つの疾患を治せても他の形で一向に地球から疾患は消えてなくならないではありませんか。 もし工場でゴミ箱がどの様にして作られるかを見たなら、そのゴミ箱は勝手に出来上がったのであり、それを開発した人間が居るとは考えないでしょうか? なぜ材料も行程も解っているゴミ箱作りの背後にそれを発案した人間の知性を認めながら、万有引力については”勝手に偶然できあがったもの”的理解をするのでしょうか。
- cincinnati
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>終末にはイエス様が来て世を裁くとあります。この時、羊は御国へ、山羊は地獄へ行く事になりますが、御国とは何で、地獄とはなんで、羊とはなんで、山羊とはなんだと思いますか? (回答者)ヒツジとヤギのたとえ話が聖書の中に記載されているとは思いませんでした。この点については後に調べようと思います。ご質問の主旨はイエスが来られて世を裁くのかどうかということと思いますが。聖書では次のように述べられております。 『あなたがたは肉によってさばきます。わたしはだれをもさばきません。』(新約聖書 ヨハネの福音書 8:15) (回答者)私どもは自分の思いや感情から人を裁きますが、私(イエス)はだれも裁きませんと述べられています。 『神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。』(新約聖書 ヨハネの福音書 3:17) (回答者)神が御子(イエス)を世に使わしたのは人々を裁くためではなく、人々に救いを得させるためですと述べています。 『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』(新約聖書 ペテロの手紙第一 2:24) (回答者)イエスは自分を十字架にかけて殺そうとする人たちに対してさえ抵抗したり、戦いを挑んだりしませんでした。しかし彼のその自己犠牲の死が私どもに生きる意味を教えてくれました。また同じような悩みや状況にいる人に慰めを与えました。 『だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。私は世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れないものには、その人をさばくものがあります。わたしが話した言葉が、終わりの日にその人をさばくのです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 12:47,48) (回答者)イエスは彼の言葉を聞いてそのように実行しなくてもあえて言えば罪を犯し続けてもその人を裁かないと述べています。しかしイエスの言われたことを受け入れない場合はその人自らかあるいは他の人によるのか裁かれるような場面が起こります。とくにその人が死に直面した時あるいはこの世が終わるようなときに裁かれると述べています。 >聖霊を冒涜する事以外の罪は全て赦されるとありますが、イエス様を信じない事は赦される事に含まれていると思いますか? つまり、イエス様を信じなくても結局は赦されて天国に行く事になると思いますか? (回答者)この点に関して回答を持っておりません。個人的なことを書かせたいただけるのであればキリスト教徒は全く関係のない世界で生まれ、大人になるまでキリストのキの字も知らなかったので、いわゆる聖霊を冒涜するような発言や思考はあったのではないかと思います。しかしながら聖書の世界に触れたときに「まず神は愛である」と言うことが分かりました。イエスの命を捨てる愛それがキリストの本質だと思います。 まず神は愛であると第一義的に述べられたとしますと。その後で聖霊を汚す者は赦されないと述べられても、クリスチャンの私としては愛である神が人を地獄に陥れるかのような言葉を無分別にそのまま受け入れることはできません。おそらくどんな背景があってその言葉が述べられたのか調べたり、検討したりすると思います。聖書のある部分のみ取り出して、聖書がこのように言っているがどうなんだというのは森の中の木のみにこだわってしまうことに通ずるものがあります。聖書の言葉を記載します。 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3章16節 (回答者)さて最後に「キリスト教の存在意義」につきまして、 人々がキリスト教と呼ぶ時それは聖書の中に書かれているキリストが教えていることを実践する人たちの宗教というような理解と思います。しかしながら私どもプロテスタントのクリスチャンにとりましてはキリスト教は教えではございません。キリストを信じる人が一夜にしてというか一瞬にして人生が暗から明に、絶望から希望に変わったその原因としてキリストを認識しています。教えを守ったから救われているという経験は少なくとも私の中ではありません。むしろ今でも自分の欲望に勝てない自分がおります。しかしイエスが問題個所に手を述べるとたちまちにして問題が解消するという経験をしてきました。自分の力をあまり評価しておりません。人にはできないが神にはできると述べられている通りですので、キリストを抜きにした生活が考えられないのであればそれ以上の意義は無いように思いますし、またそれが全ての人に起こる可能性があることを知っておりますので、その意義は計り知れないものがございます。人類がイエスの誕生の年を西暦の1年目としたということにもその影響力が表されていると思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 森の事を知る為には時には木一本一本についても知る必要があります。 前半で挙げられた聖書の箇所は偏っていますね。その反対の、滅びや裁きについて書かれている箇所も沢山あります。 これは、私がこの森には針葉樹がありますね、どういう事なのだろう?と問うた時に、この森には広葉樹もありますね、針葉樹だけ見てもこの森は理解できません。 と言われたのと同じではないでしょうか。この森を知る為にはもちろん広葉樹について知る必要がありますが、針葉樹も現実にある訳ですから、針葉樹についても考えなければならないのではと。 ヨハネ12:47.48はそういえば確かにありました。忘れていました。この質問に関する結構大切な箇所です。ありがとうございます。 因に、「私が話した言葉がその人を裁く」とはどういう意味だとお考えですか? もう少し具体的に書いて頂けると幸いです。 全体を通して、cincinnatiさんは全ての罪は結局は赦される→キリストを信じる必要は必ずしも無い、的な結論をお持ちですか?
- freulein
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キリスト教徒になるには「洗礼」という「契約」をしなくてはなりません。「キリストの教えを信ずる」という契約者のみにその教えや救いが「有効」となるのです。契約者以外に神の救いがやってくることはあり得ません。。「願わくは御名の尊ばれんことを」とキリスト教徒が第一に祈るのは、異教徒のいない世の中を第一に願うということです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 「キリストの教えを信じる」とはどういう事でしょうか。 キリストの教えは人の愛、つまり善や誠などに関する事であり、これは改めて聖書を読まなくても人が人として成長する過程で身に付ける事があっても不思議な事ではありません。 この場合、この人は聖書を読んだ事が無いのでキリスト教団の洗礼を受けるという儀式は通過できませんが、その心はキリストの教えを信じています。 この人は「信者」ではないでしょうか。 同じ様に、洗礼を受けてもどうかなーと思う様なクリスチャンはネットを見ているといくらかいるようです。この人たちはどうなのでしょう。
- gadovoa
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キリスト教学者ですら今はこんなことを考えもしないし、 議論もしないですよ。 ただ単純に答えると 御国は天国 地獄は地獄 羊は信者 山羊は信者以外 でよろしいかと思います。 しかし、キリスト教の存在意義はこんな御伽噺のことではないです。 こんな御伽噺に惹かれて世界の大多数の人が信仰するはずがありません。 そのことをもう一度はっきり考えてみてはいかがですか? 偉そうなことを言ってすいませんが、 天国や地獄の話はキリスト教だけの話じゃなくても 仏教だって、オウム真理教だってできます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 すみません。私自身にとってはキリスト教は存在意義など考える必要も無い程不可欠なものです。 巧く言えませんが、今回は私にとっての存在意義ではなく、非信者にとっての存在意義、、、というと語弊があるのですが、とにかく私自身の事ではないのでよろしくお願い致します。言葉足らずで申し訳ありませんでした。 さて、羊は信者、山羊は非信者というのが引っかかります。 信者とは誰の事でしょう?非信者とは誰の事でしょう? 例えば辺境の地に一度キリスト教が伝えられ、宣教者はその後移動。 しかしその地でキリスト教は定着せず、何代か後に生まれてきた子にはキリスト教のキの字も伝えられなかった。 この子が「キリスト信者」になる事は啓示でも無い限り無理です。 しかし、この子の自然の心がキリストに一致するという事は驚く事でも何でもありません。 この場合、この子はキリストを知りませんが、心はキリストと一致しているのですから、キリスト信者であると言えると思います。キリストが生まれる前の時代の人も同じです。 これをそのまま現代日本に持ってきてもやはり同じなのではないかと考えるのです。 日本の文化や風潮によって宗教に入信はしていないが、その心がキリストに一致する人は居ると思います。 この場合、誰が羊で誰が山羊なのか解らなくないですか? ちなみにですが、天国と地獄をおとぎ話と仰るgadovoaさんはキリストの復活もおとぎ話だとお考えですか?
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お礼
ご回答ありがとうございます。 >罪を理解するというのも実は体験だと~ 私も罪を理解するのは体験だと思います。 友達も知人も死んでいると言えば死んでいるのかもしれませんが、実力というか行いでというか、思考というか、心の美しさというか、とにかく「自分に帰属する要素で判断するなら」私こそ死んでいます。彼らと違う要素があるとするならキリスト教徒であるという事くらい。これがそれほど大きな事でしょうか。 私がした体験では、「最大の罪はキリストを信じない事」でした。もちろん、体験にも個人の器や洞察力など様々な要素が関わってくるので、それが神様からみてもそうなのかどうかは私は断言しません。しかし、私の体験に対する私の主観としては間違いなくそうでした。 でも、行いや思考、心根は私は私の周囲に居る人たちとそれほど変わらない。ある部分は優れているであろうし、ある部分は劣っているであろうと思います。 そんな状態の私が彼らについて「死」という言葉を用いるのは気が引けてなりません。 結局「祈るしかない」「諦めない(疲れない)」というところに落ち着きましょうか。 仕事や勉強で忙しく、聖なる行動の不足から聖なる経験が不足し、いつのまにか頭でっかちになってしまっていた様です。 経験さえしていれば自ずと答えはそこに見いだせるものだと思いますから。 さて、どうしたものでしょうか^^ 「ちょっと良いですか~?あなたワ、神ヲ、信じマスカ?」などと街角で言って回ってみましょうか^^ 私にとってキリスト教って、体験が必要なので、体験なくして言葉でどうこう言って伝えるというのがどうも理解できないというか、なんというか^^;