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死後の世界は存在する?私なら天国なんて行きたくない!
14歳です。まだまだ未熟で幼稚ですがご意見お願いします。 私の学校には宗教学という世界の宗教の違いを学ぶ科目があり、その際私が疑問に思った事を質問させて頂きます。 仏教やヒンディ教では生き物は死後、生まれ変わると信じられています。対して、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教では違いはありますが死後 ”天国”という完全な世界もしくは”地獄”に行くと信じられています。 しかし死後の世界など無く、死んだ後には何も無いと信じる人も少なくはありません。 期末試験のために”死後の世界”について勉強していた時、私はこの多くの方に信じられている3つの”死後”は矛盾している様で実は同じなのでは、と思ってしまいました。 もし私が誰かの生まれ変わりだとしても、今の私は私がコントロールしているわけで、過去の記憶は一切無い。という事は、過去の私はリセットされているワケで、それは死後の世界は無い、という説に繋がる。今の私は家族、友人、教育、健康などに恵まれていて凄く幸せで、これが天国だとしたら満足できる。むしろ、クリスチャンなどが信じる”天国”に行くなんて絶対に嫌だ!一生死なないなんて恐ろし過ぎる。 永遠にそこに居続けるなんてそれこそが”地獄”。 という、内容のエッセイを提出したら先生に”天国は完璧で、3つの説はどう解釈しても繋がらない”と言われてしまいました。 私の説は他人の目線からだと矛盾しているのでしょうか? ご意見おねがいします。
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juicyappleさま。こんにちは。 僕は仏教の大元の理性を重んずるパーリ語の仏教に信(根拠の有る自信)を置いてます。 私の信を置く仏教では「心の回転」が原因を絶たないかぎり止まらないので。死後その心の状態にあったところに行くだろうといっています。 もし死後が無いのなら善行為悪行為の原因による結果が出ないこととなり、道徳は無くなる。とも言っています。 この「自分」といっているものも瞬間瞬間変化生滅しているもので、実際は「私と言う変わらないもの」は無く「我」といえるものも錯覚に過ぎず、この心のシステムが回転しているだけなんだとも言ってます。 一方実践・いかに生きるかきついては、死後があっても無くても関係なく、今善く生きることが重要。善く生きれば、現世で幸福に生きれるし、死後があったとすればよいところに生まれるでしょう。とも語ってます。 仏教は、この世は原因と結果・因果の流れで、自他共に悩み苦しむ、誤解錯覚を生む原因を「悪因」その逆を「善因」として道徳を語ります。 いかに悪因から離れ善因を積み、悩み苦しみを減らし、ありのままを観ることが出来るか。を論理的に道徳的に理性的に実証的に順序良く穴無く矛盾無く語られています。 「無碍に信じないで、確かめたらどうだろう」という具合です。 論理的に理性的に物事を観れば輪廻は有るといえる、が、実際が解らなくとも、善く生きることこそ、苦の滅につながり、幸福に善にいたる道でしょう。と。 そして永遠は成り立たないという立場だとおもいます。永遠より前と後…(この文が成り立ちませんが)が解らなければ永遠と認定できないのですから。人間の妄想によって生まれた言葉と思います。 もし「永遠(変化生滅しない変わらないもの)」なるものがあったとして、変化生滅し続けるから私達は感じ考え生きることが出来るのですからそれには関われませんね。関係の無いものです。そもそも永遠に関わったら永遠が変化することでしょうから永遠でなくなります。 完全なら変化しないでしょう。変化しないならかかわりは無いでしょう。 もし完全なる永遠なる死後にいけると言うなら今この時点の全てが完全と言うことになるが、実際は変化生滅し続けているこの状態をどのように言うのか?との疑問も出ます… こちらも完全・もしくは完全なものに造られた完全(完全から不完全は造られないでしょうから)という論に至れば、道徳はなくなりますね。全て完全なのですから。 ちょっと蛇足ですかねw 話を戻すと。変わらない「私」を想定した場合に(現実には変わっていますが想定として)、「生まれ変わる」と言う考え方のなかに次ぎの生では「私」はいないという意味で「死後は無いも同じ」といえるかもしてません。 しかしそもそも仏教には変わらない「私」は発見できません。 このように仏教と「死後は無い」の概念は一致しませんね。 永遠・完全を語るものとも一致しえませんね。 前提ありきのものと、実証し確かめるものとはなかなか一致しないと思いますw ~生きとし生けるものが幸せでありますように~
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- bodhi
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世界にはいろんな宗教がありますが、その元々の教えはみんな同じです。それが時代や民族の違いから、それぞれの国民性に訴える一番効果的な方法を生み出してきたのです。それがこれだけの多くの宗派が存在するわけです。 また、時代が変わり、その時の権力者の都合の良いように内容が変えられてきています。 本来の教えから変わってきているものも多いです。特にキリスト教にその傾向があります。 カトリックの総本山バチカンには歴史から抹殺され封印されてきたキリストの教えが隠されているといいます。 いわば、これらは古い宗教なのです。 教養知識として学ぶのには大いに結構なことですが、現代社会や自分の人生にあてはめるにはかなり無理な部分があると思います。 また、もともとは霊的な世界について語ったものですので、その表現の仕方は多分に象徴的なものが多く、文字通りに解釈してしまわないほうがいいです。 天国や地獄は、その人それぞれが作る世界です。 例えば、甘党の人がケーキ屋へ行けば、その店はその人にとっては天国です。しかし、甘いものが大嫌いな人にとってはその店は地獄です。 ケーキ屋はケーキ屋です。何も変わりません。 >過去の記憶は一切無い。...これは違います。忘れているだけです。思い出せないだけで、起こったことは全て記憶に残っています。ですからリセットされてはいません。 死後の世界では霊魂は永遠に生き続けます。 そこで大切なことは、そこでは似たもの同士が、同じレベルの者同士が集まる、ということです。 自分が優しくて親切な人間であれば、同じような人達と共に生活をし始めます。 自分がひねくれてて利己的で悪意があれば、やはりそのようなもの達と一緒になります。これが地獄ともいえます。 ですから、この世は自分の質を高めるための修養の場、学校のようなものです。 たった一回の人生では失敗したり間違えたりするので、やり直すチャンスとしての意味も含めて生まれ変わりがあります。 自分がやったことは必ず自分に返ってきます。それが何時になるか、どんな形でかはわかりません。因果応報、カルマの法則ともいいます。 生まれ変わりの法則がなければ、不幸なだけの人生は何の報いも、何の意味もないことになります。 路上で通り魔に殺された人、詐欺やいじめで自殺した人、地震や事故で亡くなった人、親に殺された子供、子供に殺された親、国に見捨てられて死んでいった人、等等... 彼らの人生はいったい何だったのか、ということです。 彼らにとってはこの世が地獄です。 生まれ変わりがあるからこそ、救われるチャンスがあり、やり直せるチャンスがあり、苦労や努力が報われます。 質問の直接の答えにはなっていませんが、感じたままのことを書いてみました。参考にしていただければ幸いです。
お礼
とても参考になりました。 確かに、生まれ変わりが無ければ無理矢理終わらされた人生の意味は無くなってしまいますね。 回答ありがとうございました。
- ye11ow
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人間を「精神」と「肉体」の2つの要素に分ける「霊肉分離」という考え方がありますが、 死者の魂が肉体を離れ、別の新しい肉体に宿るのが「生まれ変わり」だとします。 ここで、その「生まれ変わり」が事実として起こるものだと仮定します。 もし、その生まれ変わりの前後で、一切の記憶の継承が行われないのであれば、 魂は人間の構成材料としてリサイクルはされたが、生まれ変わりの前後では、もはや同一人物とは言えない。 よって、一人の人間にとっての死後の世界が存在するとは言えない。というのが、貴方の説かなと思います。 宗教には無数の説がありますが、その性質上、正しいか誤っているかを証明することができません。 なので、一般に広く受け入れられているものこそが、より正しいと言えることでしょう。 より受け入れられているものを自分も受け入れ、それを前提として考えることで、宗教や宗教学が成り立ちます。 また、受け入れられている説を、違和感の生じない程度に小改変した「個人の解釈」もほぼ許容されるはずです。 貴方の説は、3つの説を単に利用しただけではなく、記憶に関する考察などで、新しい要素が加わっています。 また、「天国の定義」に関しては、既存の説に大きく矛盾するものであるような気がします。 先生は、既存の説や常識的な観点、そして自らの立場に忠実に従い、貴方の説を却下したのでしょう。 もし先生に理解を求めたければ、貴方の説のポイントをしぶとく声高に力説するといいかもしれません。 先生に新説を受け入れてもらおうというわけです。結果は期待できませんが、貴方と先生の勉強になるでしょう。 貴方の場合、今後、宗教とは別の観点でものを考える学問に目を向けてみるといいかもしれません。 例えば、道徳や規範の是非を論じる倫理のようなものは、もしかしたら合うかもしれません。 「脳死は人の死と認めるべきか?」という問題がありますが、ぜひ貴方のオリジナルの説をお聞きしてみたいです。 既存の論議をただ覚えるだけの入学試験用の倫理学というのもあるかもしれませんが、 倫理学の本来の目的を考慮すれば、自分や社会の正義に従い、新しい考え方を生み出すことは全く構わないのです。 P.S.「天国無用論」はいいですね。宗教学を参考にしながらも、自分に一番合った自分の宗教を持ちたいですね。
お礼
色々な回答を読んでいるうちにだんだん考えが変わってきました。 yellowさんの私の説の解説は完璧です。そこに”天国と地獄”の観点を入れたのが間違いでした。 前回のお礼にも書いたのですが、人(私)は頑張ろう!と思う時、「天国に行ける様に!」よりも「家族が美味しいものを食べられる様に」とか「いい大学に入れる様に」頑張る気がします。 自分の生きる人生が”天国”になるも”地獄”になるも自分(と少しの運)しだい。良い事をすれば天国に行けるっていうのは別に死んでからじゃなくてもいいのかなぁ、と思っていまいました。 少しの運が前世で何をしたかって事なのかしら。 本当に考えだすと止まりませんね。 「脳死は人の死と認めるべきか」 しばらく考えさせて頂きます。 自分なりの答えができた際にはまた質問します。 回答ありがとうございました。
- otx
- ベストアンサー率44% (256/576)
私自身は全くの素人ですが、祖父が某寺の住職をしていましたので、 ちょっと感想を。 >今の私は家族、友人、教育、健康などに恵まれていて凄く幸せで、これが天国だとしたら満足できる。 それは単に「今」であって、それが永遠ではありません。もしかすると家族の誰かに明日にも何かがあるかもしれませんし、これから質問者様も受験や就職、そして子供の行く末などなど、 悩み事(それは幸せと表裏一体)がたくさん出てくると思います。私も若輩者ですが、この世で生きていくということは結構大変です。 そんなとき「天国」という概念の世界はもしかすると明るいかもしれません。 それはともかく、人は今を生きていかなければなりません。 あの世(天国とか地獄)が存在するかはわかりません。しかし、今を生きるときの生き方に関係すると思います。 今生きるとき、悪いことをしないように(地獄に行かないように)とか その逆に、良いことをするために(天国に行けるように)とか。 専門家ではありませんので細かい突っ込みは勘弁願いたいのですが、 この世に神とか仏がいると思っている人々のほうが、その「目」を感じて日頃の生活も正す気がします。 あと、生まれ変わりということですが、おぼろげに聞いていた話で申し訳なく勝手なことを言っているかも知れませんが、 祖父は因縁という言葉で話していたように思いますが、 たとえ前世の記憶はなくとも、その一族や前世の悪行みたいなことは 因縁として残り、その人に悪い影響を及ぼすのではないかと。 次に生まれるところがものすごく荒れた家庭であったり、悪いことがたたってしまったりなどなど。 いずれにしても、今を正しく生きるための規範とった感じに私は思っています。 素人がすみません。
お礼
素人なんて。。。私は教授の回答がききたくて質問したわけではないので大歓迎です。 むしろ分かりやすい回答ありがとうございました。 確かに、”今”の幸せは永遠では無く、これから何が起きるか分かりません。 でも、これからもちょっと嫌な事があっても、幸せな人生を送れるといいなぁ、と思います。一生懸命に毎日を生きるのは、私にとって自分と未来のためであって、死後のためでは無い気がします。 私は”山の神様”や”森の神様”という、すべての物に仏がついていると信じる日本の文化がとても好きで、そのおかげで日本人はまじめなのかな、とも思います。(最近は無神教が人気という回答を頂いてちょっとガッカリしました) 色々な回答を頂いてもうちょっと考えないとなぁ、と思いました。 ありがとうございました。
- abiraunken
- ベストアンサー率33% (36/108)
大変深い考察だと思います しかし、仰るように今の幸せな環境に置かれての 永遠の天国無用論だと思います 密教の究極は「菩薩、勝れた慧ある者は、 生死の尽きるまでネハンに赴かず」 とあり、生ぬるい天国で満足せずに 衆生救済にかけずり回ることが 仏教徒としての生きがいであることが言われています 永遠の天国も神様の寿命も 仏教思想では縁が尽きて消めつするときがくる といいます そのとき、天国の人たちや、神様でさえ 恐怖の心が生じると言います “空”の教えこそ神様も喜ばれる 空とはなんにもないことではありません あるという事に基づいた上での 「妙有」と言う空の世界です 仰るように3つの世界は一見同じです ネットの世界では無神論者、無宗教が 深く信心されていますが ほんと新興宗教のようです 天国というのも結局空の世界ですし さとりの世界、極楽浄土の世界すらも これであるという確たるものではなく 妙有とでもいうべき仮の世界なのです 今の幸せも空、今の苦しみも空 ならば今を一生懸命に生きるだけです
お礼
今を一生懸命に生きてこそ死後の事が理解しやすくなるのかもしれません。 ネットはそれほどしていないので、新興宗教の様になっているなんてしりませんでした! 驚きました。 とても分かりやすい回答ありがとうがざいました。
- kana14
- ベストアンサー率9% (13/140)
存在=不存在、というのは成立しないと思います。
お礼
一瞬よく分からなかったのですが、ハッと気づかされました。 私の考えは上っ面だけで、矛盾していると! あと一歩深い考えのためには、もうちょっと突っ込んだ所に行かなければと。上っ面をかじっただけで、深みには怖くて手をだしていませんでした。 ちょっと恥ずかしくなってしまいました。 回答ありがとうございました。
- mijinco
- ベストアンサー率25% (87/346)
他人のひとりとしての感想(笑)ですが、 あなたの説は矛盾しているどころかとてもすばらしい発想だと思います。 それどころか、本来学問が求めている心があなた自身の中に芽生えているのだとも感じます。 「宗教学」から言えば、「どう解釈しても繋がらない」ことだとしても(私はそんなことはないと思いますが)、私たちはいろいろなもののつながりを感じ考えていくんです。 先生に敵対する必要はまったくありませんが、あなたの発想やセンスをどうか大切にしてくださいね。 私はあなたの発想やセンスに感動しました。
お礼
回答ありがとうございます。 すばらしい発想だと言って頂けて、もっと勉強したいと思いました。 テストの点数も大切ですが、自分の考えを100%”テスト向き”にしてしまわない様にしたいと思います。
- booboox
- ベストアンサー率32% (176/538)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB%E8%BB%A2%E7%94%9F 輪廻転生で、検索願います。 http://www.eonet.ne.jp/~beanack/rinnetensei.html 極楽思想、や、極楽で検索願います。 http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/p_nihonsi/episodo/001_050/epi044_03.htm 天国、で検索願います。 http://www.osoushiki-plaza.com/anoyo/shukyo/christ.html 以上、キリスト教と言っても、プロテスタントとカトリックでは、まったく、天国の意味が違う。 仏教にも、極楽(天国)思想、天竺思想がある。 輪廻は、多くの古典宗教に残っている。 など、まず、教科書で習う宗教区分と現実とは、ちょっと、ずれています。 また、同じ宗教でも、年代とともに、聖典の解釈が、変わってきています。 宗教歴史学の話か、現代日本宗教学なのか、捉え方で、変わります。 なお、学校の先生は、テストの答えは、教えてくれるかも知れませんが、実際の宗教とは、かなり、ずれがあります。 それは、現代日本の教育界では、正しく宗教を学ぶ環境には、ないからですが、自分で、勉強する以外、本当のことは、わからないと思います。あなたの考え方も、あなた自身の宗教感として、尊重されますが、学校という、テストをして、点を付ける立場ですと、無理やり、担当教諭の主観が強く入る場合も多いです。 なお、キリスト教自身が、かなり宗派によって思想が異なりますので、先生のおっしゃる単一な天国感は、間違いなのだと、思われます。
お礼
同じ宗教でも天国の捉え方が違うのはある程度分かっていましたが、そこまで違いは無いと思っていました。 自分のちゃんとした考えを持つためにも色々な本を読んで学びたいと思います。 勉強になる回答ありがとうございました。
- shakataku
- ベストアンサー率22% (264/1161)
私の母方の家系はクリスチャンですので 私も多少の影響はあります ですが 私自身は仏教の方に多くの考え方が傾いています 生まれ変わり(転生)ですね 生まれ変わる次の為に 今現在は修行中であるという意識があります 別に信じる必要もないし うそつき呼ばわりする必要もない 今いるところで精一杯生きれば良いだけなんだと思いますが いかがですか
お礼
>今現在は修行中である なるほど、この考えはスッと入って来ました。 何かを嘘つき呼ばわりしているつもりはありませんでしたが、自分の文章を改めて読んでみると、私は違いを理解し尊重するために宗教学を勉強しているはずなのに、私は”違い”を否定してしまっていました。 難しいですね。。。 ”今”が何々だからでは無く、”今”だから生きよう、と気づかされました。
お礼
何度も読み返させて頂きました。 たくさんのご意見を頂いて、全てに「なるほど」と思っていたのですが、 >前提ありきのものと、実証し確かめるものとはなかなか一致しない には、「そっかぁ、そうだよねぇ」と凄く納得しました。 回答ありがとうございました。