- ベストアンサー
天保の飢饉
江戸時代に起こった天保の飢饉では侍は餓死者が出なかったということですが本当でしょうか? それと天保の飢饉が起こる前に天明の飢饉とかいろいろな飢饉が起こっているんですが、それの経験を活かして対策などはたてられなかったのでしょうか?
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
相馬藩でも領主が自分の家宝や城の庭木まで売って金を作って大阪から米を買って配り、天明以来の貯蓄が皆無になったとあります。藩内に餓死者は一人もでなかったそうです。 二宮尊徳は天保4年の凶作のあと、天明の飢饉と同様に再度の飢饉があると予知して稗を大量に作らせて備蓄し、天保7年の飢饉では平年よりゆたかに暮らさせ、他の諸藩にまで救済の手を差し伸べました。 この時大阪では大塩平八郎が乱を起したのは、あるところにはある、つまり流通のまずさが多くの餓死者を生んだということを意味しています。 ということで、ふだん蓄えのある侍は餓死しなかった。1年の蓄えも無い貧民が餓死したということになります。
その他の回答 (1)
- tkr1977
- ベストアンサー率20% (80/395)
回答No.1
こんにちは。 >江戸時代に起こった天保の飢饉では侍は餓死者が出なかったということですが本当でしょうか? ある意味、ホントです。 当時の白河藩主・松平定信の記録によると、天明4年から5年にかけて、全国の人口は140万人減ったらしいです。 しかし、米沢藩では餓死者が一人もでなかったそうです。 歴史の残る大飢饉なわけですから、全国で一人も餓死者が出なかったわけがありません。しかし、当時の米沢藩主・上杉鷹山などは対策を立てておいたおかげで、藩内で餓死者を一人もださず、その結果、現在「名君」として歴史に名を残しています。