下の方が回答されているように、当時正確な死者数を出すことは困難であり不可能であったとされているので、文献の別やその記録によって諸説あり現在に至っても正確な数字は出されていません。
死者の出し方にしても餓死者と疫死者を一つとして出すか、餓死者のみとするかという点でも別れており、餓死者と疫死者を見分けがつかなかった場合もあるので仮に数字が出ていてもそれが正確なものとは言えないでしょう。
というわけで、ここからはいくつかの諸説織り交ぜて回答させて頂きます。
まず享保の大飢饉ですが、この死者数には二つの説があります。文献『虫附損毛留書』及び『日本災異志』によると全国の餓死者12,172人とあるのですが、『徳川実記』によると96万9,900人とされています。当時の飢民数が265万人とされていますので、後者『徳川実記』の96万9,900人という数字もあながち間違いとするものではないと考えられています。
天明の大飢饉における死者数はこれまた説が分かれており、死者は6万人(一藩で数万から30万人以上の死者を出したところもあるとの記録があるので、この6万人は信憑性が薄いですが)とも90万以上100万人近くであったともされています。が、松平定信が残した記録によると天明4年から5年にかけて全国で140万人の死者があったとされています。天明の大飢饉は天明3年から6年(または7年)にかけてですから、この記録を正しいとすれば予想するに200万人規模で死者を出したと考えられます。
最後に天保の飢饉ですがこれも曖昧なものが多く諸説あるのですが、一説には10万とも20~30万人ともされています。しかし東北だけで数十万の死者が出たともされているので、これによれば前者は否定されることとなりますので一概にどららが正しいとは言えません。大体にしてですが、この飢饉の惨状を紹介する際に用いられる死者数は後者の20~30万人とする場合が多いようです。
お礼
享保の飢饉の一万と九十万はすごい差ですね。ありがとうございました、課題研究に役立てます。