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石ばしる たるみの上のさわらびの 萌えいづる春に
志貴皇子の短歌、 ・石ばしる たるみの上のさわらびの 萌えいづる春に なりにけるかも は第4句までとても優れています。 しかし最後の句が間延びしている気がします。「なりにけるかも」としていますが、「春になりにける」や「春」のみで止めても、意味は十分に通じるでしょう。字数を合わせた印象がします。第3句までが締りがあって、そのリズムの良さが滝やワラビのように清々しいだけに、末尾が惜しいのです。 そこで「春になる」などとせず、「春に鳥が鳴く」とか「春に花が咲く」とか変えた方が良いように思うのです。しかし僕は歌詠みではありません。どうしたらもっと良い句になるか、置き換わるよい案があったら、教えてください。 あるいは、どうしても「なりにけるかも」でなければならない理由があったら、教えてください。
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- bgm38489
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短歌は、俳句と違って、三十一文字も(?)使いますから、ある程度、字数合わせは仕方ないでしょうね。ですが、意味のない文句を並べているというより、リズムを合わせている、ととらえた方がよいでしょう。 「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われてもすえにあわんとぞおもう」などは、最後まで感情のこもった、いい歌です。 …鳥が鳴くとか、…花が咲くとかするのは、それこそ字数合わせです。何も、鳥のこと、花のことは読みたくない。たるみの上のさわらびから、ああ、春になったんだな、ということに感動した、だからなりにけるかも、なのでは。
- spring135
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「けるかも」という言葉は万葉集の真髄に迫るものです。 urlでは以下のように説明されています。よく味わってください。 けるかも 「けり」の連体形が詠嘆の助詞「かも」と結び付いたもの。認識に伴う強い詠嘆をあらわす。「~したのだなあ」。万葉集に多く、古今集以後は「けるかな」(次項参照)に取って代わられる。しかし近世、賀茂真淵を始めとする万葉調歌人によって復活し、近代短歌へと引き継がれた。
補足
URLを読んでみましたが、他の歌は「なりにけるかも」がよくわかります。 ・色かはる 萩の下葉をながめつつ ひとりある身と なりにけるかも ・最上川 逆白波のたつまでに ふぶくゆふべと なりにけるかも なぜなら第3句までで、その先にどういう意味内容が来るのか、予想できないからです。しかし僕が出した歌の場合、春になったと強調されないでも、「さわらび」で十分に春だとわかるのですし、春を愛でるのは当たり前で、書く必要がないのです。「なりにけるかも」が結構だとしたら、一見調子の良い第3句の出来が悪いということになるでしょう。 それから万葉調の再評価は子規でしょうけれども、彼は限られた字数の中で、より意味が詰まったことを言うことを奨励しています。つまらない定説など信じていると、子規に笑われてしまいますよ。その意味で、子規を読んだことがあるか、と書いたのです。
お礼
字数合わせが仕方ないとは思いません。感動することを伝わりやすいように読むのが、和歌でしょう。 ご紹介くださった句は、確かによいが、それは書く必要があったことを第4句以降が書いているからです。春になって嬉しいとか、春になったと思うなどとは、書かないでも、見たものをそのまま写実すれば、読み手に伝わるのです。
補足
【締めるにあたって】 質問の仕方が、あまり魅力的ではなかったようです。僕としては、いい和歌を題材に、学ぶことがあると思ったのですが、不遜な問いにしか思われないということなのですね。 僕としては楽しみでやりたかったのですが、短歌論を論じるなどストレスの多い応答は御免蒙りたく思い、ベストアンサーなしで締めることにしました。もう少し質問者のことに重きを置いて投稿して欲しいものだと思います。また、定説を重んじる保守的な傾向は嫌気がさします。ことにNo1の方の真淵と言ったところで、真淵をお読みではないんでしょうから・・・・・。