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天使とは?――《はじめにことばがあった》
- 天使とは純粋思想であり純粋なる内なることばのことを言うか?
- 天使は堕落しうる存在であり、ヨハネによる福音書によれば、光と闇の対比に位置づけられる。
- 天使の存在は神のことばやロゴスの階層においても説明され、人間の言葉化や思考にも関連している。
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こんばんは、ヒドッチでございます。 前回の”悪魔学”でもそうだったのですが、明確なことはわかりませんでした。ですが、微力を尽くしたいと思っております。 まず、天使の例を以下に列記してございます。 [大天使ガブリエルの例] ダニエル書 8章15から17節 わたしダニエルは、この幻を見ながら、意味を知りたいと願っていた。その時、見よ、わたしに向かって勇士のような姿が現れた。すると、ウライ川から人の声がしてこう言った。「ガブリエル、幻をこの人に説明せよ。」 彼 [ガブリエル] がわたしの立っている所に近づいて来たので、わたしは恐れてひれ伏した。彼 [ガブリエル] はわたしに言った。「人の子よ、この幻は終わりの時に関するものだということを悟りなさい。」 [大天使ミカエルの例] ダニエル書 10章12から15節 彼は言葉を継いだ。「ダニエルよ、恐れることはない。神の前に心を尽くして苦行し、神意を知ろうとし始めたその最初の日から、お前の言葉は聞き入れられており、お前の言葉のためにわたしは来た。ペルシア王国の天使長が二十一日間わたしに抵抗したが、大天使長のひとりミカエルが助けに来てくれたので、わたしはペルシアの王たちのところにいる必要がなくなった。それで、お前の民に将来起こるであろうことを知らせるために来たのだ。この幻はその時に関するものだ。」こう言われてわたしは顔を地に伏せ、言葉を失った。 同 10章21節 しかし、真理の書に記されていることをお前に教えよう。お前たちの天使長ミカエルのほかに、これらに対してわたしを助ける者はないのだ。彼はわたしを支え、力づけてくれる。 ガブリエルの例ですと、確かに、以下の表現になっているかと考えられます。 (α) 神としてのことば (α’) 天使としてのことば しかし、ミカエルの例となりますと、神の”助っ人的”存在となってございます。一方では、ペルシア王国の天使長は、明らかに神に敵対する存在として描かれています。つまり、「神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者」とも受けとられます。さらに申しますと、「自由意志を持ち選択という行為をなす存在である」ともみなしうると考えられます。ただ、このペルシア王国の天使長が、以下のイザヤ書に見られる堕天使にあたるかどうかは不明でございます。「神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者」という共通点が見受けられは致しますが。 イザヤ 14章12から15節 ああ、お前は天から落ちた明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされたもろもろの国を倒した者よ。かつて、お前は心に思った。「わたしは天に上り王座を神の星よりも高く据え神々の集う北の果ての山に座し雲の頂に登っていと高き者のようになろう」と。しかし、お前は陰府に落とされた墓穴の底に。 何らかのお役に立つことができれば、幸甚に存じます。
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あっ、どうも。 通りすがりの者です。 トマスによれば(もちろんキリスト教の創造説に由来する)、事物における本質はその事物の存在にとって、可能態として在るにすぎず、事物は存在を直接神から受け取ることによって現実態たらしめられる。 神は純粋現実態であって本質と存在の分離はないが、すべての被造物においては両者は実在的に分離される。 天使のような知的実体の本質は質料を含まない純粋形相であるが、それが現実存在であるためには神から存在を受け取らねばならない。 ご存じのここと思いますが、トマスはアラビア哲学(つまりアリストテレス)の影響を色濃く受けています。アリストテレスにとって、神とは純粋形相であり、{思考の思考}です。あるいは、イデアのイデアと言ってよい。ゆえに聖書の神と必ずしも一致するとは言えません。
お礼
n5f7g3 さん ご回答をありがとうございます。 ううんと そうですね。トマスはもう忘れていますが そしてアリストテレスにも詳しくありませんが 次の命題については把握することができると考えます。 ★ 天使のような知的実体の本質は質料を含まない純粋形相であるが、それが現実存在であるためには神から存在を受け取らねばならない。 ☆ 形相と質料という見方からすれば 純粋形相という規定がみちびかれるということ これは よく分かります。と言いますか それとして一般的な認識になると考えます。 ですから 形相を含まない質料としての純粋質料ないし第一質料つまりは 物質が それとしても別様にみちびかれ ここから 唯物論が提出されるということ。したがって物質を第一原因と見なすその唯物論は けっきょくのところ 純粋形相ないし第一形相ないし世界精神を第一原因とする唯心論とは互いに両極を成して どちらも限りなく非思考としての信仰に近づくような形而上学であるのだと。 天使が 純粋形相であるとするのは その奥の存在だと見なされる第一原因(つまり神)に従属するということであるのだろうと。 さてそれに対して 勝手にわたくしの見方をぶつけますが おそらく経験思考から究極の純粋なるイデア(形相としてにしろ質料としてにしろ)に到るという筋道は いわゆる可能無限を扱うかたちになってしまい それは いつまでもこの経験世界にとどまるのではないか。これです。 そうではなく いっそのこと 初めに《非経験》を想定してしまう。このナゾの領域を 絶対・無限・不可変性あるいは霊として 具体的には神もしくは無い神という表現形態であり得るのだという定義の仕方です。つまりは これら有神論または無神論が それぞれ唯心論または唯物論を含むかたちになる。この規定の仕方が もっともつごうがよいと思っています。 そこで 天使です。 いちばんの問題は 天使は神のもとに従属しその限りで霊的存在であると同時に 神に逆らうことがあるというふうに自由意志の持ち主でもあることだと思います。自由意志の持ち主だということは あたかも経験的に・時間的にその意志を決める つまりは意志が時間的に変わるという性質をも持つことになる。 それなら 質料と形相とを合わせ持つこの経験世界の住人であるのではないかという疑いがかかります。 しかも 神に逆らったあと その堕落かつ天からの墜落の結果においても なお霊的存在であるかのように・そして悪魔として 人間とこの世界に介入することがあると言います。それもこれもすべて 神のゆるしがあってこそだと言いますが それなら けっきょくすべては 人間が由無しごとなる図りごとを心に思うそのことの純粋概念化であり果ては擬人化であると捉えればよいのではないか? こうも思われます。 ★ ゆえに聖書の神と必ずしも一致するとは言えません。 ☆ この問題は それでもかまわないと思います。たぶん 我田引水かも知れませんが 聖書の神学のほうが ギリシャ哲学とその系譜を――特に《非思考の庭》がわが心に成るという構えにおいては――凌駕するとわたしは見ています。 とりとめないかたちのままですが このように反応しました。どうでしょう。
- ok9608
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No.8です。わけが分からないまま 相当に 余計な説明をしております。ご容赦を。 論理的には 宙ぶらり的堕天使から何を得ようとしているのか によって その定義は変わってくると思います。 (1)神とその教えを論理学のように構成したい とすると 堕天使は 神によって創られたものでしょう。こうしないと 神以外に神の手で制御できないモノがあるという世界ができあがり 神の世界にとっては都合が悪い と思われます。残された古文書から多神教的要素があれば一神教解釈に直していくのです。一神教の神の定義は 森羅万象の創造主ということでしょう。神にまつわる全ての物語は 定義から演繹説明されます。されないものは 論理系ではない となります。この神と非思考の『神』が同じなのかどうか であります。非思考の『神』の出現のあと 整理する段階で 論理の『神』が現れるように思います。 (2)非思考の『神』は定義(言葉)できないものであって 堕天使も同様と捉えることも可能とおもいます。論理世界ではなく 矛盾に満ちた多神の世界であります。共同主観になり得るかどうかは不明ですが 個人の中では調和的に整理されるとは 思います。 (3)堕天使の物語は 精神史の一断面を切り取っているテキストとみて 2階建考えで整理することは出来ると思います。より完成度が高い神を2階に 堕天使を1階においていいかと思います。 堕天使は完成度の低い神となります。アマテラス/スサノオを料理したのですから 神/堕天使も料理できると思います。 (4)あとは 多少 スジが通ってないが布教のための 物語と理解する ということです。 私としては(3)で料理して欲しいところです。 以上 大変失礼しました。
お礼
いやぁ じつはこの天使論は わたしは気の進まない議論なのです。―― ok9608 さん ご回答をありがとうございます。――まったく冴えない状態でいます。 天使についてではなく 天使をめぐる議論ならかろうじて次のようにできます。 イエスは 復活について次のように言ったとされます。 ◆ (マタイによる福音22:23) 復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。 ☆ これについてアウグスティヌスが言うには こうです。人はその《復活の時には・・・天使のようになる》のだが 男女の性はまだあるのだと。なぜなら 《めとることも嫁ぐこともなく》という表現が用いられているからだと言います。 ところが わたしの解釈は さらに先へ行ってしまっています。 ○ 《復活》については 復活をしたときにはその人にとって《真理がすべてにおいて すべてである》(≒コリント前書15:28)と捉えます。すなわち復活が 死後の問題だとはわたしは考えていない。 ☆ という事情にあります。ですから こうです。 ○ 《天使のようになる》というのは 神としての霊(無根拠・無限・絶対)ではなく また神に仕えるあたかも霊としての天使そのものに成るのでもなく そうではないが しかも人は復活のとき まだ男女両性に分かれる肉をもった存在でありつつ天使のように成るのだと。 ☆ 分かりづらいですよね。言いかえてみます。 ○ 復活したなら人は あくまでその肉を保ちつつ人間でありつつ しかもおのれにとって《真理なる神がすべてにおいてすべてとなる》状態であるゆえ すべてが神の聖霊によってみちびかれている。 ☆ どうでしょう? つまりこれなら 《天使》は要らないですよね? というようなことを思っていますが 公式(?)の天使論との異同をしっかりと把握しなくてはならないとは思います。 ですから アマテラス-スサノヲ連関とは ちょっと違うようにも捉えています。 もう一例 今度は天使でも 堕天使≒悪魔(サタン)の出て来る場面です。 ◆(ヨブ記1:7-12) ~~~~ ある日、主(ヤハヱー)の前に神の使い(天使)たちが集まり、サタンも来た。 主はサタンに言われた。 「お前はどこから来た。」 「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」 とサタンは答えた。 主はサタンに言われた。 「お前はわたしの僕(しもべ)ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者は いまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」 サタンは答えた。 「ヨブが、利益(何の得)もないのに神を敬うでしょうか。 あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。 彼の手の業(わざ)をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその 地に溢れるほどです。 ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れて(損害を与えて) ごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」 主はサタンに言われた。 「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただ し彼には、手を出すな。」 サタンは主のもとから出て行った。 ・・・ ~~~~~~~~~~~ ☆ サタンは そのように実行したわけです。そうして物語が展開して行きます。 もしこうでしたら つまり《ほうぼうを歩き回っていた》のなら けっきょく世間の中には悪く思う者がいないとも限らない。義しい人ヨブをねたみそしる場合もあるかと思われます。ということは そのヨブに損害を与えてやれというのは そういう人間のあしき思いのことを言っているのだと解され得ます。 ならば 天使も悪魔も そういう人間の思いや願いや訴えようとする声やのことを擬人化して言っているに過ぎないかとも考えられます。 以上は天使や悪魔をめぐるその背景事情を捉えてみました。 補足欄にて もう少し考えてみます。
補足
おぎないです。 まづは 趣旨説明の( d )ないし( e )を見てください。天使をどこに位置づけるか きわめてむつかしいように考えます。 被造物かそうでないか。霊的存在であるかそうでないか。自由意志を持つのか持たないのか。 神ではないが 人間でもない。ここまでは分かっています。あとは分からない。 言いかえると 単なる・神の声とするか。それとも人間の純粋思想としての思い・もしくはふつうの思想を純粋概念化して取りだしたものか。 どちらでもあるように思われますし それでは何だか坐り心地がわるいとも考えられます。 お礼欄での背景事情に属することですが もうひとつありました。 パウロが わたしたち人間が 天使をも用いるのだと言っているところです。 ◆ (コリント人への第一の手紙6:3) わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。 ◆ (ヘブル人への手紙1:14) 天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。 ◆ (同上 2:5) 神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。 ☆ 天使が霊的であることにおいて人間より優れた存在なことをくつがえすことなく このようであるということのようです。 おっしゃっているところの(1)では ★ 残された古文書から多神教的要素があれば一神教解釈に直していくのです。 ☆ になると思います。あるいはすべてを 確かに天使たちとして置きかえることになるかと思います。 (2)もけっきょくは ★ 論理世界ではなく 矛盾に満ちた多神の世界であります。 ☆ という状態(情況)が もし天使たちと言いかえなくても 神の謂わば分身というふうに捉えることになるかと思います。(1)と同じようなことになるかと思います。 (3)はですね。 ★ より完成度が高い神を2階に 堕天使を1階においていいかと思います。 ☆ じつは ここがすんなりとは行かないと思いますね。( d )や( e )の《神のことば・あるいは霊の世界》には 《階層》はあり得ないのです。もし階層に分けたとしたら その一つひとつの層が そのまま全体の霊の世界となります。《無限》であり《絶対》ですから。《完成度》という概念が意味を持ちません。すべてがすべてである世界です。 神の世界にあっては 部分が全体と 全体が部分と 部分は部分と それぞれみな互いに同じであるからです。 ですからまたそこでは 不完全性定理が当てはまらないというのではなく そうではなく 神の世界が不完全性定理の現実をも難なく覆い包み含むということが起こっているはずなんです。 神の世界は この経験世界をニュートリノのごとくにか 全面的・全体的に浸水したかたちにてか 貫いているとも――想定上――規定されて来ます。 わたくしの見解としましては ならば 天使などを持ち出す必要はないのではないか。これです。神の声か もしくは人間の思いの純粋概念化か。で済ますことはできないか。です。 でも あまり考えて来た結果でもありませんで 多くの人の見解を知りたい・おそわりたいとも思います。 方向感のない状態です。
- owls_
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> その結果 悪魔と呼ばれるまでに堕落したというそのありさま これについてさらに知りたいと考えます。 ◇堕落したもの=悪魔 というのは短絡的だと思うのですが。ともかく、悪魔は知りませんが、「堕落した者」であれば、下記のような「仕方のない最低の脳みそ」を生まれつき持っているからではないでしょうか。その「仕方のない脳みそ」の持ち主(仮に"h "とする)が悪魔であるかどうかは下記の文章を参考にしてみて下さい。 h:ん~~なんつうか我儘ぼっちゃんでしたか。 ◇わははw 世間知らずの坊やがよく言うよ。俺を目の前にして言ってみな、ションベンちびって何もいえなくなるような気がするなあ せいぜい顔の見えないところで女の腐ったのみたいにゴニョゴニョ言ってなwww h:親には従順なんじゃないかな、君は。 ◇今日もおかあちゃんが作ったゴハンをおとなしく食べているのかい?あるいは今日もおとなしく従順に組織を維持発展するために貢献してきたとか? h:親のしつけの問題であることがわかりましたよ。 ◇そうですね、坊やが人の言うことを聞かずにわがまま言いたい放題言っているのは君の親と上司のしつけの問題だろうね。 h:つまり、本当の心のふれあい、端的に言うと愛情に飢えているわけだ。 ◇よく言うよ、同意を求める質問しか出来ないくせにw そうでなければカントがうんぬん などと言ったケナゲな質問をし、哀れだね!w「自分はこんなに真面目に賢く考えてます!」なんてアピールしなくていいっての!w h:それでここで誰彼構わず構ってもらおうと、駄々をこねている。 ◇駄々のこね方で言えば坊やのほうが上手なようだね!w h:そして、このように生き辛いのは親のせいだと思っているし、実際そうだと思うが、それは誰もが通らざるを得ない関門でね。 ◇はいはい、自分がまともな理解力と知恵をつけてから言いましょうね、「最低の脳みそ」といわれたのは理由があるという現実から逃げずに、しっかりと目を向けて頑張んなさいwww h:君はそのことに関して親と対峙する時期を逸したんだと思う。 ◇説教モードで上から目線のアピールご苦労さん。君は、君が怖がっている「肩で風を切って歩いているチンピラ」と対峙する時期を逸したんだと思うよw 怖くなくなるまで頑張ってくれたまえwww h:あ、顔が見える人とは喧嘩できないんだっけ。 ◇えーと、坊やは顔の見えない人と喧嘩が出来る人でしたっけ? h:ひとつ勉強になったかな? ◇わはは もちろん自分で皮肉だとわかって言っているんでしょうね。いくら正しいことを言ってもひどくプライドを傷つけてしまったらもう聞く耳持たなくなっってしまう、というのは勉強になりましたw h:それから、くれぐれも他人に迷惑かけちゃいかんよ。 ◇そう言う奴の存在自体が迷惑だってーの!w h:君が本当はいい子だというのはわたしにはよくわかる ◇自分の優位性と相手を貶めるための 演出的表現ですね、ご苦労様ですw ちょっとおどかしてやったらいい子すぎて あわふいて卒倒しちゃうんだろうな!www 「仕方のない脳味噌の持ち主」とか言われてすねちゃってオレに八つあたりして悪態ついてるけど、本当はこの子は良い子なんですよ、 「仕方のない脳みそ」を持っているのは生まれつきですので仕方ない(爆) こんな感じです。どうでしょう。
- JidousyaGaisya
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奇妙な逆説を仰いますね。 『「不完全性定理」の通りの現実』を受け入れ難い、と判断して、 悪足搔きをするからこそ、「饒舌」を回避し難くなるのですよ。 此処でも、矢張り、手取り足取りの説明が必要なのでしょうか?
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 此処でも、矢張り、手取り足取りの説明が必要なのでしょうか? ☆ なかなか飲み込めるまでにはまいりません。どうかよろしく願いたいところです。 わたしのいまの立ち位置やその考え方を述べます。 No.8の ok9608 さんのご説明を合わせて捉えるにはですが いちばんの焦点は ここでは《公理系もしくは はじめの定義》をこそ問題にしている。こういうことではないかと考えます。 なるほど確かに 《神およびその信仰》という初めの想定(また定義)も問題になりましょうが その定義を前提にしたうえで その言わば神ものがたりについての――天使をめぐっての――整合性を問うています。 言いかえると なぜこうまでして食い下がるのかと言えば 神およびその信仰という定義は それ自体においてすでに《想定》でありそこから展開する話はあくまで《物語》であるとことわっているものであるからです。 ということは たしかにここで採るべき方法は 神の物語を編むことをいっさい放棄することか もしくは人間の経験合理性の行き着くところまでは いかに饒舌になったとしても 行き着かせておくことか おそらく二つに一つなのでしょう。 質問者は まだ二つ目の方法を取ろうとしています。 一つ目の方法しか道はないということでしたら その説明をお手数でしょうが していただければありがたいと思います。 そのように食い下がる理由を述べます。 ◆(No.8 ok9608 さんの回答) 『**(は)言葉によっては認識されないもの』も**の定義〔にちなむ〕堂々巡り ☆ の議論がありました。この議論にちなんで言えば こうです。 《神およびその信仰》の――想定による――定義においては ( a )神は人間の言葉によっては認識されないもの とはしていますが これはげんみつには 次のように想定して表わすべきものだからです。 ( b )神は 人間の言葉や経験思考をいっさい超えているところに想定される。 ( c )言いかえると 言葉や思考を じつは 蔽い包んでいるとも――派生的に――捉えられる。 ( d ) 有るとも無いとも人間には決められ得ないナゾの何ものかが じつは人間の・《わたし》の 心なら心の庭に はげしく接しているかも知れないし 指の先でそうっと触れなんばかりに迫って来ているかも知れない。あるいは そんな生易しいことではなく すでにわたしたちと世界のすべてを蔽ってしまっている。かも知れないとこそ言わねばならない。 こうなります。 このほうが精確です。これに従えば( a )は不案内です。 神の議論はどういうわけか 《饒舌》で不毛な《堂々めぐり》にはならないようなからくりになっている。こう考えます。どうでしょう? つまり このことは むしろ ★ 『「不完全性定理」の通りの現実』を受け入れ ☆ ているからこそ起きる主題であるように考えます。
- ok9608
- ベストアンサー率38% (50/129)
ご存知かと思いますが、少し不完全性定理に触れてみます。 不完全性定理は 論理学の基本を示している第一の法則と思います。第1と第2の法則があり、述語の論理では第2法則の理解で十分と思います(正確には一階述語理論)。理論とは公理より演繹して理論体系を構築していくのですが、公理は正しいことの証明ができないというのが第2法則です。公理とは定義であって その言葉を説明しても 堂々巡りになるというものです。 先に例としてあげられた『**(は)言葉によっては認識されないもの』も**の定義と思われます。堂々巡り的にいえば (1)『『**(は)言葉によっては認識されないもの』の**(は)言葉によっては認識されないもの』 (2)『『『**(は)言葉によっては認識されないもの』の**(は)言葉によっては認識されないもの』の**(は)言葉によっては認識されないもの』 (3)『…『『『**(は)言葉によっては認識されないもの』の**(は)言葉によっては認識されないもの』の**(は)言葉によっては認識されないもの』の**(は)言葉によっては認識されないもの』…』 となり **の説明は延々と続くものです。**は神であってもいいわけです。 以上のように定義とは必要以上にくどくど説明しても仕方がないものとも理解されまが 重要なものです。 問題は 使用されている言葉に定義がない(通常のコミュニュケーションでは圧倒的に多い)場合は どうするか ですが 受け取り側で意識して定義するしかないのではと思います。今回の堕落天使はbragelonneさん定義から始まる物語として展開されたらいいのではないかと思います。2階建考え方で整理してほしいところです。 参考までに
お礼
ok9608 さん ていねいなご説明とご回答をありがとうございます。 そうなんです。要するに わたしは 天使論について分かっていないのです。 いままでも避けて来ましたが 今回ほんのちょっとひらめいたものですから つまり《ことば(ロゴス)》の階層の中に位置づければ或る程度はおさまるかなと思ったものですから 尋ねています。 不完全性定理には 《公理》の取り扱いもあるわけですね。定義に当たるでしょうか。 趣旨説明に述べた内容についてその楽屋裏をしるしてみます。 まづ天使についての公式(?)の定義があります。 まづ じつは天使が神の み使い(伝令)であるという限りでは 何の問題もないのだと思います。 ▼ (ヰキぺ:天使) ~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%BD%BF は、比較宗教学によればアブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の聖典や伝承に登場する神の使いである。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ ところが この神の使いである者が 或るとき神に逆らい堕落し そしてその堕落した状態で悪魔としてはたらくという話になったとき 問題は生じます。じっさい聖書の創世記でも その悪魔に相当すると考えられる《へび》が――エワやアダムを誘惑するはたらきとして――登場します。 ▼ (ヰキぺ:堕天使) ~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%95%E5%A4%A9%E4%BD%BF もともとは旧約聖書、偽典にある天使の身でありながら高慢、嫉妬、自由意志などの理由でヤハウェ・エロヒム(主なる神)に反逆し、結果天界を追放、つまり堕天された者のことを指す。 堕天使は悪魔と同一視される。堕落した天使が悪魔になったのである。これがキリスト教の教理としての立場である。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このヰキぺには 《高慢・嫉妬・自由意志》のそれぞれについて説明がなされていますが けっきょくは高慢や嫉妬からの思惟と行為とも《自由意志》による判断を経るものであるのですから 自由意志によって神の心に逆らったと考えられます。 そして仮りに天から追放され地へと墜落したとしても 天にいたということは 霊的存在である(つまり死なない)と考えられます。つまり被造物なのではないと。ところが ヰキぺの説明では 《神によってつくられた》とも書いてあります。この点も よく分かりません。 ▼ (ヰキぺ:御使い) ~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E4%BD%BF%E3%81%84 § カトリック教会 ≫天主のつくり給うたもの≪の中で、最もすぐれたものは天使であって、天使とは人よりも智慧と能力との優れた霊であり、天使は、聖にして、幸福なありさまにつくられたと教えている。 ▼ (同:堕天使) ~~~~ § 堕天した理由 / 高慢によるもの ≫天界において神の直下の座にいた≪天使ルシフェル(ルシファー)は他の天使を統べる大天使長であった。強大な権威と力をもつ彼に「自分は神をも凌ぐ力を持っているのではないか」という驕りが出てしまった。うんぬん。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ もし堕天使が悪魔と同じであるとすれば この悪魔(サタン)は 神によるゆるしがある限りで(ヨブ記冒頭) そのはたらきを《〔世界の創造のときから〕永遠に》為すものであるのですから やはり霊的存在でありつづけているとも考えられます。 従いまして やはり次の問いになります。 ☆☆(趣旨説明) ~~~~ ( f ) 問題は 天使が 永遠の霊的な存在であるなら どうして神に背き堕落しえたか? である。 被造物ではないが 自由意志を持ち選択という行為をなす存在であるということだろうか? もし堕落したのであれば それが――そのうち特に神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者が―― 悪魔であるという規定になる。 ~~~~~~~~~~~ ☆ ひとつの解は すべてが表現の問題であり それとして物語の中で登場するに過ぎないと割りきる見方です。神の声――これも比喩ですが――を擬人化して言ったのみ。しかも ただし その声を善と悪とに分けて聞くのは 善き天使と堕天使との区分には関係なく・また神の心が揺れているのではなく そうではなく 聞く側つまり人間のその心と意志による判断にかかっているのだと。(=回答No.3でのやり取り)。 それによると 悪魔も あくまで人間のそれとしての心の動きでありへその曲がり具合いを言っているのだということになります。 あらためておしえてください。
- owls_
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アタマと性格がはこぶる、じゃなかったすこぶる悪くて堕落したのではないでしょうか。
お礼
なるほど。そういうご見解でしたか。 ご回答をありがとうございます。 ただし ★ アタマと性格がすこぶる悪くて ☆ という広い性質としての定義のもとに つねに ★ 堕落した ☆ とは もしくは堕落するものとは 決まらないでしょう。 またその《堕落》の程度問題もあります。 その結果 悪魔と呼ばれるまでに堕落したというそのありさま これについてさらに知りたいと考えます。
- JidousyaGaisya
- ベストアンサー率23% (45/189)
「神の言葉」という内容の有無よりも前に、 「言葉」は対象の認識の為に存在しています。 その言葉を個人的な記録に留めず、 複数の人間達との間で共有しようと試みる際には、 相手の認識媒体の初期化もが必要になりますね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%88 其の際に、独自の言葉の意味を解説する為に、 別の独自的な言葉を並べますと、どんどんと混沌に陥る訳です。 勿論乍ら、「連歌」の様に、 若し『秩序の意図的な破壊による「無常化」』が賛美されているのでしたら、 其の場合には、相手に意志が伝わり切らなくとも宜しいのでしょうから、 複数の方々が不意打ち的な表現を網羅する遣り方さえもが賞賛され得ますが、 布教等の御諭しの場合には、論理的な整合性を欠かせませんね。 でも、遺憾乍ら、たとえ論理的な説得を狙っていましょうとも、 饒舌は聴衆の理解を更に遠ざけていく可能性が御座います。 従いまして、饒舌の悪魔としまして、 後にメフィストフェレスもが某物語に登場するのです。 是もが既に常識ですが、難し過ぎますかねえ。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 布教等の御諭しの場合には、論理的な整合性を欠かせませんね。 ☆ 布教もしくは《〈宣教〉 という愚かな手段》(パウロ)は もう要りません。聖書の解釈や解説が出されるのは自由ですが・そしてそういう手続きをわたしさえも踏むことはあり得ますがいまは 《天使とは何か?》を問い求めています。 すでにいただいたご回答とそのやり取りにおいて分かったと思われることは こうでしょう。 1. 天使ないし堕天使つまり悪魔についての話は 考えるに 表現の問題として起こされたものであろう。 2. 人間にとって《非経験の領域とそして〈わたし〉とのかかわり合いが想定されるとしたら そのような非思考という中身を持つ〈信じる〉という経験行為――信じるそのコトは 意志による経験行為です――》 このように非思考の庭がわが心に成ったという信仰のあり方を仮りに説明するために たとえばこの天使ないし悪魔も 物語として編まれたものであろう。 3. そこでその説明表現において《論理的な整合性》を問うことは どこまで重要で必要不可欠であるか? このような問いに代えることも出来ましょう。 4. すなわち おそらく最大の問題点は こうでしょう。《天使はいわゆる被造物ではないのに しかも自由意志を持ってそのおのれの思うところを成そうとした》 すなわち神にさからうことをおこなった。この点だと思われます。 すなわち ★ 布教等の御諭しの場合 ☆ ではありませんで 以上のような問いに特化しています。この問題点のみを問い求めていると言ってもよろしいかと考えます。そのとき ★ 論理的な整合性を欠かせませんね。 ☆ の問題は おそらく《仮りの説明表現として一編の物語である》という限りでは そうではなく きわめてゆるやかな整合性についての条件になっていると思われます。ただし 上に挙げた(3)(4)の問題点は ただちにゆるめてしまうわけには行かないでしょう。という懸案を持ったいまの状態であると質問者は捉えています。 残念ですが この考え方に立てば ★ 饒舌は聴衆の理解を更に遠ざけていく可能性が御座います。 ☆ という見方は 筋がはづれていると見ます。《饒舌》であるかないかは この際かかわりません。《天使》論を たどり着けるところまでたどっておこうという作業です。 おそれられることは 天使あるいはそもそも神の議論が 必ずしも一般的であるわけではないということです。 もしこの神ないし天使や悪魔についての物語はわたしはお呼びでないという向きには そもそもそのような神学じたいがナンセンスだという議論によって 回答を寄せていただくのも一考かと思います。 このような考え方に立っています。それによりますと ★ 従いまして、饒舌の悪魔としまして、 / 後にメフィストフェレスもが某物語に登場するのです。 ☆ という見方は 残念ながら 筋が違って見えます。それとも このような物語は いづれも全否定だというご見解でしょうか? もしそのようでしたら あらためて 上に述べました考え方・問い求めの仕方について批判を与えることによって そのご見解を説明していただければありがたい。このように思いますが いかがでしょう? ★ 饒舌は聴衆の理解を更に遠ざけていく可能性が御座います。 ☆ であっても かまわないという立ち場に ここでは 立っています。そういう――質問者としましては――問い求めの態度であると再度申し上げてお応えとします。
- JidousyaGaisya
- ベストアンサー率23% (45/189)
3番の内容は、周知の通りに、「不完全性定理」と同じです。
お礼
★ 「不完全性定理」 ☆ どうなんでしょう。けっきょく判断という行為に帰着するのでしょうか? しかも人間のおこなう判断には 経験合理性による推論にもとづいて妥当性があると認識するからそれをえらぶという場合と そしてそうではないもう一つの場合があります。 論理的に妥当でなくとも(あるいは ふたつ以上の・論理的に妥当性を有する選択肢がある場合 そのいづれがよりただしいか分からずとも) ひとつをえらぶという判断です。 不完全性定理は この判断に直接にかかわっていましょうか? どうでしょうか? もし直接にはかかわっていないとしたら それは 特に後者の判断形式において 選択肢とその妥当性を認識するための推論やその基準を示しているだけだとも考えられます。 矛盾がないからその命題が完全であるとは言えない。あるいは 或る命題について矛盾がないとしてもその矛盾がないことをみづからが証明することは出来ない。でしょうか。 つまり こういう内容を持つ状態や情況であったとしても 人間はどれか一つをえらばなければならない場面に出会うことはあり得ます。たとえばプロポーズを受けたときや 職業をえらぶとき・会社をえらぶときなどです。 ★ 無心 ☆ がこの難題を突き抜けて行ける答えでしょうか? そのとき ときと場合によっては 天使や堕天使の物語が何かよい方向を指し示すことがありましょうか? そういう問題でしょうか。 ○ エポケー・もののあはれ・《無根拠》を根拠とする非思考の庭に立つこと・・・ * 不完全性定理の取り扱いがおかしいようでしたら お知らせくださいませ。見識がその程度ですから。
- JidousyaGaisya
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詠嘆的な認識内容の共有の為に、聴衆を説得すべく、 言葉の意味の説明に適した言葉を並べようと試みた途端に、 それ等の言葉の意味の説明もが言葉によらざるを得なくなり、 そうしていく裡に、どんどんと「真の自然(天地)」から解離していく。 確かに「無心」の理念が標榜されて久しいのですが、 遺憾乍ら、『我々の「認識」』は、既に言葉によって支配されており、 『「言葉によって認識され得ない物」という言葉』によってでも、 認識したがりやすい、という傾向に陥っていますね。 但し、「不立文字」なる表現にも託されています通りに、 無文字時代の事象を理解する手段にも、 何らかの価値が含まれているのでしょうから、 単純な論述への固執を一時的に休止させて、 温まった故事から新しき御諭しを獲得してほしい、 という期待を込めて、そういう方便もが拵えられたのではないでしょうか?
お礼
じどうしゃがいしゃさん ご回答をありがとうございます。 不完全性定理としての見方はいま措いておいてわたしなりにご回答を受けとめますと ○ すべては表現の問題である。中には 比喩やそれを用いた物語として――たとえそれがおとぎ話であっても――語ったほうが話はよく伝わることがある。 ☆ となります。 言いかえると ○ 天使はただの方便である。神とても想定であるが その想定の上では あるのは 神の声であって それをわざわざ天使と呼んで 擬人法を用いて物語にして語っているのみだ。堕天使が悪魔になったというのも もし自由意志の問題だという見方に立てば すべては 神の声を聞きとる人間の側の問題になる。良く受けとめるのも悪く取ってしまうのも その人間の意志や境地の問題に尽きるのだ。 ☆ となります。 じつは ずっとそのように考えていました。いまもそうです。ただ《天使 あるいは 堕天使》ということが 信徒でなくても 一般的に受け容れられている側面(社会情況)があるように思われ ひととおりの定義を持つ必要がある。こう考えた結果の質問です。 もっと言えば わたしは個人としてキリストの神を信じる者ですが ゆくゆくは キリストのキの字も言わなくて済むようなコミュニケーションの情況になるであろうと考えています。そのために信仰の類型を捉え その一般論を問うています。 天使は神の声と定義しておけば済むのではないかと思っています。ただし 《かみ / 信じる》という言葉は なかなか無くならない。無くならないどころか 天使という言葉の使用の比ではなく ごく一般的に使われています。ですから その定義が必要です。 そしてこの神と信じるについて定義をしたとなると じつは 或る程度において天使についても定義が必要になるかと思われるのです。それに《悪魔》のほうは これもきわめて一般的に用いられています。 というような背景事情があります。 ちなみにの話ですが ★ 詠嘆的な認識内容の共有 ☆ としては 日本語では《もののあはれ》があります。《あは( Ah ! )》という詠嘆のありさま( Ah-ness of things )をそのまま中立的に言ったものだと理解します。これだと《不立文字》にかなっています。 ★ 「真の自然(天地)」 ☆ というような《もの自体( Ding an sich )》としての名づけもしなくて済みます。 ただし 本居宣長は この《もの自体》について 《古神道》だとか言っていて それはかれにとっては具体的であり取りも直さず神武天皇以来のすめらみこと体制を言うようです。 つまりそれでも《もののあはれ》という用語は 遣いようによって遣い勝手があると思われます。 ★ 単純な論述への固執を一時的に休止させて ☆ という場合のいわゆるエポケーです。判断や思考の停止というよりは 中断であり思考し判断をおこなうための一時的な《詠嘆》です。 そのような表現の問題にあって 《天使 / 悪魔》といった用語も使い勝手がよいということでしょうかね。そうかも知れません。
- berryz100
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この問いには正解はない。 いや、正解があろうが誰も知らない。というべきだろうか。 ゆえに、僕が一番有力と思っている説を述べたいと思う。 天使が堕落した理由としては、高慢、嫉妬、自由意志が あげられるが、おそらく真相はこうだと思う。 太古の昔、地球には、人類が誕生する前にすでに先住人類がいた。 彼らは人間と姿かたちが同じだが、ある特殊能力を持っていた。 それは、あらゆる動植物と合体できるという能力。 それゆえ、彼らは合体を繰り返し、わけのわからん醜い姿になった。 つまり、それが悪魔、デーモン一族である。 彼らは弱肉強食の世界で生き抜くために合体を繰り返したのであった。 久しぶりに地球を覗いてみた神は、彼らのあまりにも醜い姿、飽くなき までの闘争心に驚き、消してしまおうとしたのだが、それに反対した 天使がいた。それが堕天使ルシファーである。 ルシファーは言った。「自分(神)が創ったものが失敗作だからと いって、それを簡単に消してしまっていいのか?彼らも必死で生きて いるではないか」 と、いうことで、ルシファーは悪魔(デーモン一族)と一緒に神と 戦いました。 その結果、ルシファーは堕天使となりサタンとなったのです。 〈デビルマンより〉
お礼
べりーずさん ご回答をありがとうございます。 そうですね。むつかしいと言いますか ややこしいようにも感じますし。 人の創造は 二段階があったのですね。第二段階でつくられたのは いまの人類であるが 第一段階で作られた人類は ★ あらゆる動植物と合体できるという特殊能力。 ☆ を持っていた。 ★ それゆえ、彼らは合体を繰り返し、わけのわからん醜い姿になった。 / つまり、それが悪魔、デーモン一族である。 ☆ ふうーむ。最初の人類が 動植物との合体をくり返した結果 デーモン一族となる。それが 《悪魔》だということですか。 そして あとで 神に逆らうルシファーと言う天使は 《サタン》と成った。 ○ ~~~~~~~~~ 最初の人類が 動植物との合体をくり返し いわば堕人類となった。それが 悪魔 デーモン一族である。 天使ルシファーが 神に背き 堕天使となり サタンとなる。それは デーモン一族の存続を主張し守ろうとしたから。 ~~~~~~~~~~ ☆ 最初の人類が ルシファーの反対と抵抗にもかかわらずけっきょく神によって消されたのか。たぶん消されたのでしょうね。そして第二の人類のみが生き残っている。ただしサタンとなった堕天使ルシファーは それとして存続している。 ★ 天使が堕落した理由としては、高慢、嫉妬、自由意志が / あげられるが、おそらく真相はこうだと思う。 ☆ というとき そうしますと ○ 自由意志にもとづきデーモン一族への同情を持つことによって 神に逆らった。これが 堕落の事情のようです。 ☆ ううーん。どうなりますかねぇ。 ★ あらゆる動植物と合体できるという特殊能力。 ☆ この能力が その第一の人類に《自然本性》としてそなわっていたのか? これが鍵になるような気がしますが どうでしょう? ★ 失敗作 ☆ であったとしても 自然本性としてそなわっていたのなら 最初の人類に罪はないであろうし ルシファーがかれらを擁護するのもうなづけます。 ひょっとして ★ ルシファーは悪魔(デーモン一族)と一緒に神と / 戦いました。 ☆ の結果は デーモン一族も存続をゆるされたということなのでは? いまも存在しているということなのではないですか? それはないですか? ということは どうも人類の創造にふたつの段階があったのではなく そうではなく いちどの創造において人類はつくられた。ただしその中でデーモン一族に成って行くひと群れがいた。ということであるようにも思われます。それに過ぎないようにも思われます。いまもその種族は存続しているのだと。 つまりは 天使ルシファーは その一部分の種族に対する神のさばきを嫌って反対した。神に逆らった。たぶんそれでも みなゆるされたのではないだろうか。ただし 堕天使となったルシファーは デーモンたち=悪鬼たちのかしらとしてディアボロス(=サタン)なる悪魔というすがたを取るようになった。 となると 神の み使いに ふたつの種類がいることになります。神のこころに従う声と さからう声と ふたつの種類の天使がいることに。 いやぁ 分かりません。 ★ この問いには正解はない。 / いや、正解があろうが誰も知らない。というべきだろうか。 ☆ であるかも知れませんし そうでないかも知れません。 これまで――この設問を思いつくまで―― 天使とは何か? また堕天使ルシファーとはいったいどういうことでそうなったのか? についてピンと来なかったのです。ふと思いついたことを問うています。 ご回答を受けて 反応しましたが まだよく分かりません。 わたしとしましては いまの考えを寝かしておきながら みなさんからのご見解を受けて考えてまいりたい。こう思います。ありがとうございました。
お礼
ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ええ たしかに名前までついているのですよね。また 天使長というように 集団を成しているのでしょうか? そしてダニエル書とイザヤ書ですか。 さらにそして ペルシャの天使長や 《天から落ちた明けの明星》――明けの明星のままなら 天に輝いているのだと思われるのですけれど――などでは 神に背いた場合の天使あるいは堕天使もいるという具合いで。 ★ ~~~~~~~~~ 【( d )――神のことば――】 ガブリエルの例ですと、確かに、以下の表現になっているかと考えられます。 (α) 神としてのことば (α’) 天使としてのことば 【 ? ――神の使い?――】 しかし、ミカエルの例となりますと、神の”助っ人的”存在となってございます。 【( f )――神に背く――】 一方では、ペルシア王国の天使長は、明らかに神に敵対する存在として描かれています。つまり、「神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者」とも受けとられます。 ▼ (イザヤ書 14:13) かつて、お前は心に思った。 「わたしは天に上り王座を神の星よりも高く据え神々の集う北の 果ての山に座し雲の頂に登っていと高き者のようになろう」と。 【( f )――自由意志を持つ――】 さらに申しますと、「自由意志を持ち選択という行為をなす存在である」ともみなしうると考えられます。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 今回は ロゴス(α)と (β)以下の人間に経験しうるロゴスとのあいだに あたかもまぼろしとしてのような天使のことば(α’)を位置づけるということ これがふと思い浮かんだということでした。 それほど大きなまちがいではないように思われますね。 それと同時に やはり( f )の問いが依然として残ります。神のもとにある霊的存在であって しかもおのれの意志を決めそれを実行に移すという時間的行為の主体であるという。その間のやはり矛盾(?)をどう受け取ればよいのか? これだと思います。 たぶんそういう捉え方で――つまり問い求めの進め方として――よいとは思うのですが ただいまはこういったところでしょうか。たしかに致し方ないと思います。もう少し待ってみます。ほかの回答者さんたちの様子を見て この質問は一たん閉め 何かのきっかけで再びみたび掲げることもあろうかと考えます。 さらに何かありましたら お寄せください。
補足
ひどっちさん 参考資料を見つけました。 パウロの次の《異言》にちなむときの《天使》をめぐって 見解が述べられています。 ◆ (コリント前書13:1) たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 ▼ http://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/koshin/s22.htm ~~~ ギリシア語の原語の「人間と天使の異言」を最新の岩波訳は「人間の、そしてみ使いたちの言葉」と訳してあり、これは同じ「言葉」が両方の意味を持つと解釈しています。 新共同訳では「人々の異言、天使たちの異言」とあってはっきり違ったものを指すように訳されています。・・・この辺で、この箇所の解釈と受け取り方にかなりの混乱があるように思われます。 (III) では、実際はどうであったのでしょう? (あ) パウロは人間が語る異言は、「神に向かって語る」とはっきり述べています(Iコリント14章2節)。 (い) ところが先に挙げた天界の異言は人間が語ることができないほどのものなのです。 (う) すなわち、「異言」とは「人が神に向かって語る」場合と「神が天使を通して人に語る」場合とが存在するとパウロは考えていたようです。異言にはこの両方の役割があるのです。 ~~~~~~~~~~~ ☆ (あ)から(う)の解説は あざやかであるように思われます。 これによれば 天使は はっきりと神の使いでありその声そのものであるとさえ言ってよいように思われます。ただし 神そのものであるとか 神の声と言う場合にも声そのものであるとかと言うのは やはりはばかられるだけではなく経験事象となってしまっておかしいので 天使という概念を用いたのでしょうか? ひどっちさんは いかが解釈されますか? お聞かせください。 天使たちをめぐって いろんな物語があるというのは また別の話であるように思われるのですが。・・・