- ベストアンサー
前近代における無神論の普及について
- 近代科学の登場により、人類の平均寿命が延び、生活圏が拡大したことによって、従来は宗教に頼らなければ受け入れられ難かった問題が科学的に解決されるようになった。この背景から、死への恐怖心も科学的な解釈によって緩和される可能性が見出されたため、無神論の考え方も広まっている。
- しかし、前近代においても無神論が普及したのかは分かりません。答えがあるかどうかすら分からない疑問ではありますが、前近代においても無神論が存在した可能性は考えられます。
- つまり、前近代においても人々が宗教に頼らずに自己の理性や科学的な知識に基づいて信じることができる価値観を持っていたということは十分にありうると言えます。しかし、具体的なデータや証拠は存在しないため、仮説の範囲を超えることは避けるべきです。
- みんなの回答 (28)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
> そろそろ纏まりそうになっておりますから、 > もし可能ならば締め括りの御教授を賜れますでしょうか 私がこのQ&Aの纏めをするのはおこがましい話です。締め括りはJidousyaGaisyaさんにお願いします。 私の考えの纏めだけを述べたいと思います。 本題の「前近代にも無神論は普及し得たのでしょうか?」という問いに答えるにあたり、無神論は一神教支配への反動として生まれたという経緯があります。「神なんかいるものか」というテーゼは「全能の神」のアンチテーゼです。無神論は積極的に神の存在を排します。 これ以前の考え方に「神がいるかどうかはわからない」という不可知論があるわけで、神がいたっていなくたって何もかわらないという認識が生まれ、絶対普遍の真理なんて考える必要はなく、現実の状態をよくすることにこそ価値があるというプラグマティズムが起きました。この立場では神の存在は問題にしないのです。 本題への私なりの答えは、近代的無神論以前の無神論は孔子がそれにあたると思います。孔子のスタンスは神を排すのではなく神には頼らないというものです。 まず「子、怪力乱神を語らず」とあります。孔子は超自然的存在を否定したわけではないですが、不可解な人知では推し量れないこと、理性では説明できないことがらについては語らなかったということです。さらに「鬼神を敬して之を遠ざく」とあります。孔子の目指すところは良い政治の実施ですが、このために神(=鬼神・超自然力)の威信や脅威を利用するようなことはしていません。鬼神を敬すのは儀礼としてであり、その鬼神を政治や個人の感化に用いはしません。だから私は孔子は不可知論者で、実質的無神論者だと考えているのです。 歴史的事実として古代の東洋社会では宗教は先祖崇拝・自然崇拝といった土俗的なものにすぎず、国家を動かすような力はありませんでした。『救いの「一元神」への尊崇』やら『王権神授説』は一神教に固有のテーマだと思います。「一元神」への尊崇はヘブライ教徒の信仰がジーザスとパウロによって普遍化されて欧州に広まったものであり『王権神授説』は一元神信仰の政治利用です。 孔子が理想としていた君主は堯です。その堯の治世の真骨頂は「鼓腹撃壌 」という言葉に凝縮できます。「有老人、含哺鼓腹、撃壌而歌曰、日出而作 日入而息 鑿井而飲 耕田而食帝力何有於我哉(老人がおり、食べ物を口に含み腹つづみをうち、足で地面を踏み鳴らして拍子をとりながら、このように歌っていた、日が昇れば耕作し 日が沈めば休息する 水が飲みたければ井戸を掘って飲み 食べ物を食べたければ田を耕す 帝の力が、どうして私に関わりがあろうか)」 帝は為政者としてのみ存在します。そして、その帝は老人の能天気な歌を聞いて自らの治世に満足します。ここには神はいません。たいへんプラグマティックだと思います。
その他の回答 (27)
- woowq
- ベストアンサー率23% (7/30)
#10で回答した者です。 『人間関係等の社会的な問題が残る限りに於いては、所謂「一般的な宗教」への依存から、人類は開放され得ないのでしょうか?』という内容が、次の疑問です。 人についての完全な理解が出来ていない以上、全ての人を説得させることは困難でしょうから、不確定な要素が残りそこには一般的な宗教が張り込む余地は残り続けると思います。 ただ、今の若い世代については、海外旅行などして宗教の話をしても、国内に限らず、一般的な宗教よりも、科学の考え方を信じる人が増えているように感じますので、科学への移行はますます高くなっている印象を受けます。 例えば、その国では周りの大人が怖いから言えないけど、ここなら言える「宗教なんてカンケイネー」みたいなことを平気で言う人に出会い驚いたことが何度か聞きます。 日本もそうですが、信じては居ないけど、仕方なく信じたふりをしている。という世代は確実に増えつつあると思っています。
お礼
http://okwave.jp/qa/q6755450.html もし可能でしたら、此方への御教授をも賜れますと、助かります。
補足
有り難う御座います。 肝心な事を思い出させて頂きまして助かりました。 非宗教的な近代科学の秩序もが、 一元的な神の秩序の賜物でしたね。
- kaxuma119
- ベストアンサー率29% (108/363)
ANo.3です。 震災・原発をめぐる生々しい議論を離れ、ちょっと浮世離れしたトピックスは心に余裕を取り戻してくれますね。 さて・・・・ > つまり、『孔子の教えは「政教分離」に繋がり得るのだろう』という私見です。 このアイデアは私にはちょっと無理があるように思えます。というのも孔子の時代、宗教は民衆や国家を動かすような勢力ではなく、先祖崇拝・自然崇拝といった土俗的なものにすぎなかったからです。政教分離は歴史的には宗教勢力が政治に介入し起きた弊害・混乱を経て成立した概念です。 孔子のスタンスは宗教を排すのではなく宗教には頼らないというものです。 繰り返しになりますが孔子の目指すところは良い政治の実施であり、そのために士大夫(エリート階級)に礼に乗っ取った言動をさせるというものです。このために孔子は「良い政治をする」という目標をストレートに示しただけです。神・鬼神・超自然力といったものの威信や脅威を利用するようなことはしていません。 この方向性は近代以降の思想ではプラグマティズムのほうに繋がり得るというのが私の考えです。
お礼
別ページ(http://okwave.jp/qa/q6800988.html)へも御教授を賜れますと、幸いです。
補足
有り難う御座います。 古代の東洋社会での信仰は森羅万象への畏敬を志向していて、 『救いの「一元神」への尊崇』やら『王権神授説』やらとは関係が無かった、という認識で宜しいのでしょうか? そろそろ纏まりそうになっておりますから、 もし可能ならば締め括りの御教授を賜れますでしょうか?
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
孔子は宗教信仰者でもないし、astralな呪術などの信奉者でもないでしょうね。 それとは別に、信仰者や信奉者と有神論を認めている人との区別は必要かも知れませんよね。 また有神論とはいえなくても、信仰したり信奉している人も見かけますね。 怪力乱神とかいう存在がいることを知っていても、信奉しない人もいますね。 更にそういうastral存在ではない、神という存在を知るということではなく、感じていて否定できない人もいますよね。 下村湖人の“大いなる道というもの世にありと思うこころは未だも消えず”というような存在を神とおもうこともあるだろうし、唯一なる創造の存在を神とすること、それから多なる神がきているということもあるでしょうね。 私は孔子の言動から、天というものを尊崇し、自分の一生は自分で祈る、祈ってきている。というので、知的把握ではないものを認める人だったという見方です。 国政の為の祭祀の趣旨、そして補充と修正をした形跡はそういう知識知見を持っていた事を示していると存じます。
お礼
RDMSへ入力させるIDの冒頭にNULL値を据える遣り方は、 周知の通りにルール違反でエラーになりますが、 『NULLの様な「絶対無」』は『「非」知的把握』の対象に属しているのでしょうか?
補足
有り難う御座います。 未だに完全に纏まってはおりませんから、 確認への御協力を御願いします。 多くの現代人が共有していると考えられます神の概念を当て嵌めて、前近代(特に原始:古代社会)の人々が神の存在を想定していたの否かを論じる遣り方が、そもそもの利己的な誤解だったのでしょうか? つまり、既知の対象の否定による比較に立脚した「相対無」を神の有無に当て嵌めて、現代人達は「無神論」を語れますが、 「否定され得る神」の概念を思いつく前の時代には、「絶対無」に近い状態に自然観が留まっているのでしょうから、 現代的な「無神論」を適用させる試みが不毛なのでしょうか?
- masa2211
- ベストアンサー率43% (178/411)
神をどう定義するかによります。また、教理の基本的部分に対する反論は反則技(教理の否定)とします。 古代ギリシアのデモクリトス(原子論)とかエピクロス(快楽主義)は、よほど無茶な解釈をしない限り無神論。 これが無神論でないなら、マルクスの唯物論も無神論で無くなってしまうレベル。 仏教、儒教、中国の法家なども、一般解釈では無神論です。 よって、仏教や儒教は普及した、というのは歴史的事実だから、無神論は現実に普及した、ということ。 回答としては、そうするしかありません。 神の定義に戻ります。 神の定義は大きくは2つ。 1.人智を超える存在で、かつ人間の意思決定に影響を与える。 2.上記プラス、能力は無限大(=全知全能。) 1.について。この定義だと、 悪魔や妖怪や仙人は神に含む。 ※悪魔は異教の神のことなので問題なし。 地球外生命体(エイリアン。たとえばかくや姫)は、人間の意思決定に影響を与えているかの解釈次第。 という問題はありますが、ゼウス、シバ、オーディン、天照大神などの多神教の神はここに該当。 2.について。 必然的に、唯一神となります。 多神教はあり得ません。 理由:神が2柱以上と仮定すると矛盾が生じる。 2柱の能力に優劣があった場合、劣っているほうは明らかに全知全能ではない。よって、神の定義を満たさないため神ではない。 2柱の能力が互角の場合、相手に勝てないのだから全能とは言えない。よって、神の定義を満たさない。 ゆえに、神が全知全能であるなら、唯一神である。 一神教の基本論理です。 つまり、一神教と多神教の神は、「人間とアメーバ」以上に能力に差があります。 ※数学でも、無限と巨大数で、扱いがまるで異なります。 ゆえに、 ・一神教から見た多神教の神: そんなものは神ではない。 ・多神教から見た一神教の神:そんな、いるワケないものは神ではない。 ・エホバとアラー:同一で発音が違うだけ。事実、聖書の創世記は、キリスト/イスラム/ユダヤ教の共通聖典。 よって、キリスト教から見た場合、 イスラムは、微妙な解釈が違うだけだど、多神教の神は神ではないのです。 よって、多神教の神は、「無神論」に分類されます。 イスラム教やユダヤ教からみた場合も、全くの同様。 ゆえに、「狭義の意味での無神論」が前近代の普及していたのは完全に確定しています。 広義の無神論(人智を超える存在の否定)ですが、 仏教の「仏」は、人間が仏になれる、という意味で、かつ、シャカ1人に限定されていないから、 一般には、「仏」人智を超える存在とはみなされません。 人智を超える存在を仮定しないと解釈不能となる部分が存在しないがゆえに、広義の無神論とみなしてもok だったはず。(仏教伝播の途中で加わった付随事項はカウントしないものとして。) 孔子サマの現行録で人智を超える存在の存在前提は、あった???(後世の追随者の発言はカウントしない。) 道教(仙人などはこちら。)と混同してない? 中国の法家は、人智を超える存在は関係ないです。 あと、そもそもの疑問。 >近代科学の登場は >『死への恐怖心をも科学的な解釈によって緩和させ得る可能性が見出されてきた』 はいはい、「可能性がある」ですね。これって、「まだ発見されていない」ということですよね? 要するに、現時点では、科学では死への恐怖心の緩和の可能性は無いということ。 私は、この手のことは科学では解決しないことには同意します。 ※私は、「人智を超える存在で、人間の意思決定に影響を与える存在」を、私は否定する立場です。 それでも、「死への恐怖心は科学の範疇ではない」という側です。
お礼
すいません。 確認への御協力を御願いしたい点が思い浮かびましたから、 質問を追加させて下さい。 来世の存在に期待したがってMammyを拵えていた古代エジプト社会でも、唯一神の存在に依存している必要性は無い、という認識が重要なのでしょうか? 御忙しい中への御邪魔を繰り返しておりまして、 大変に畏れ入りますが、可能でしたら、御教授を御願いします。
補足
有り難う御座います。 最初に此処の質問文を提出させて頂きました際に、 「偏見もが含まれていないのか」という点が気になっていましたので、此の文章の分析の内容をも回答へ盛り込んで頂き、 大変に勉強になりました。 因みに、反則技を私がうっかりと使ってしまっていた、 という事情を鑑みますと、日常生活の中での様々な判断の際にも、注意が必要なのでしょうね。
誤りだとも思わないけれど、合ってるとも思わない。そう思いたければ、いいんじゃない?って範囲。でも、あなたはネアンデルタール人に無神論を広めたいの? 変なの。まぁネアンデルタール人の埋葬は有名な話だよね。ウィキペディアから念のために拾ってきた。 >生活の場と埋葬の場を分けるということをしていなかったようだが、ネアンデルタール人は、遺体を屈葬の形で埋葬していた。1951年から1965年にかけて、R・ソレッキーらはイラク北部のシャニダール洞窟で調査をしたが、ネアンデルタール人の化石とともに数種類の花粉が発見された。発見された花粉が現代当地において薬草として扱われていることから、「ネアンデルタール人には死者を悼む心があり、副葬品として花を添える習慣があった」と考える立場もある。 これ読むと、ネアンデルタール人の話は、とある仲間を貝塚のようなゴミ捨て場に、花と一緒に捨てたってことでしょ。これって宗教じゃなくて、病人へ薬草を使って治療したとか、死への哀悼の意を表したってことじゃない?(だからウィキペディアでも「宗教」って言葉は使ってない)。ネアンデルタール人の話は宗教の起源を説明するかもしれないけれど、宗教とイコールではないと思う。だってゴミ捨て場に埋葬してるんだし、人間の身体も、動物の死骸とかゴミも、同じものだと思っていた。宗教的な埋葬の様式はないし、遺体に対する特別化もない。むしろ無神論者らのすることに思える。 死を悼む気持ちは宗教や有神論と関係なく、人間に共通した感情だと思う。科学が発達した現代だって、お棺に花を入れたりするでしょ? 人を悼む気持ちは、神の有無をどう信じようと、消えると思わない。私はその証拠としてネアンデルタール人の例があると理解している。でも、これは私の意見。違うって思えば、それでいいと思う。
お礼
有り難う御座います。 心の拠り所に据えているとは限らず、 「受け入れられざるを得ない不運・天命等の成り行き」に 自分達の身を任せる為に、古来の日本人達が、 宗教的な存在を想定していたので、 それへの便乗で「王権神授説」の様な説が拵えられて、 『「現人神」の系譜』が登場したのだろう、 という重要な視点の見落としに気付かせて頂けましたので、 非常に助かりました。 でも是では理解が乏しいでしょうか? 因みに、私は純粋に知識を広げたいと考えておりますので、御教授を賜れますと、幸いです。
補足
失礼を致しまして、申し訳が御座いませんでした。 私には適切な答えが分かっていませんでしたから、 御指導を賜りたい、と願いまして、 此の質問をも提出させて頂いております。
>天変地異に曝され乍ら共同体を維持していく、という過程の途上で、もし『「宗教」への依存』から開放され得たのでしたら、 #19です。日本が宗教への依存から解放された(=政教分離した)のって、科学を信じて宗教を遠ざけたからじゃなく、戦後、「神道=天皇」を遠ざけて民主化するためじゃなかったっけ。日本に限らず、民主化した国なら、科学の進歩の度合いと関係なく、政教分離しているように思う。 共同体における宗教って、究極的には、王権神授説を裏付け、王制を敷くためでしょ。別に王権を保証してくれるなら、科学を信仰するということもあり得る(実際、科学を信仰している新興宗教があり、神がいなくても宗教は成立する)。 こうやってみると、科学によって神を否定すること(無神論)と、共同体が宗教から解放されることは別の話じゃない? だから前近代でも宗教からの解放は起りえたと思う。
お礼
http://okwave.jp/qa/q6870895.html 此方にも話題を発展させました。
補足
有り難う御座います。 様々な分野への造詣が凄く深いんですね。 共同体にとっての本来的な信仰は、『「心の拠り所」の共有』を目的に据えていたのだろう、と私は勝手に考えていましたが、その認識は誤解なのでしょうか? 確かに仰る通りに、前近代の為政者達が地位を守るべく、 「王権神授説」への理解を庶民に強要していた訳ですが、 他の方が既に指摘して下さっています通りに、 ネアンデルタール人達の自然観をも鑑みますと、 『「心の拠り所」の共有』が起源なのではないでしょうか? 勉強不足が酷くてすいませんが、 もし支障が御座いませんでしたら、御指導を賜れませんでしょうか?
- kaxuma119
- ベストアンサー率29% (108/363)
ANo.3です。 盛況ですね。 さて・・・・・ > 『古代中国で「天」に向けられてきた認識は、「神への信仰」に似ていないでしょうか?』 JidousyaGaisyaさんが考えている「神への信仰」がどのようなものかわからないので、何とも言えないんですが、古代中国人が「天」に何らかの意思があると考えていたという点では似ているともいえるでしょう。 > 『「近代科学」の技術からの恩恵を受けていない前近代』の東洋人達が、「心の拠り所」を求めて、『非宗教的な「タオイズム」』を作り出したのではないか… 道教・老荘思想については私は別の考え方をしています。 まず、儒教を考えます。よい政治を実施することが儒教の目的です。「政治=支配者の言動」であり、儒教は礼によりこれを縛ります。つまり儒教は形式合理主義の思想であり政治をその対象としているのです。外面的制約を整えることがよい政治の基盤であり民の安寧であるとしています。 他方、道教は個人の精神状態をストレスフリーにすることで、人心の安寧を実現するというアプローチです。道教は個人の主観のあり方に重きを置きます。個人主義なのです。非宗教的というより自分本位の思想であり、政治・社会のあり方には積極的にはかかわらないのです。 このQ&Aの主題からかなり外れた話になってしまいました。話を戻しましょう。孔子が神(超自然力)の存在を信じていた理由に、彼が祭祀を重んじたことをあげておられる方もいますが、私は、孔子はあくまで政治的儀礼として祭祀を重んじていたと思います。というのも、孔子は幾度となく困難な状況に陥っていますが、神に助けを求めたような節はまったくありません。 さきに「子、怪力乱神を語らず」と引きましたが、もう一つ引くなら「鬼神を敬して之を遠ざく」とあります。鬼神を敬すのは、あくまで社会的秩序を維持するための方策(今日でいえば国旗を敬うようなもの)であり、その鬼神の力を用いて政治を行おうとしたり、個人の心の拠り所にしようとはしません。だから私は孔子は不可知論者で、実質的無神論者だと考えているのです。
お礼
別ページ(http://okwave.jp/qa/q6800988.html)へも御教授を賜れますと、幸いです。
補足
有り難う御座います。 非常に分かりやすい、と思います。 因みに、拝見した文面を踏まえまして、其処から私が勝手に下記の通りの類推を致しました。 つまり、『孔子の教えは「政教分離」に繋がり得るのだろう』 という私見です。 でも、もしそれが誤っていれば、勿体無いと思われますから、 御忙しい中への御邪魔を致しますが、 矯正を御願い出来ませんでしょうか?
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
ANo.18補足をいただきました。 【「神の存在の可能性」を探ろうとする煩悩』から拘束されていない、という状態の存在は、矢張り予想され難いのでしょうか?】という意味が理解できませんが。 神の存在を、論理や外在客体を確知しろうとすることでしたら、それは煩悩というよりありえないというべきでしょう。 客体的存在ではないし、そういう機能の対象ではありませんから。 自分がどう存在していくかの当為的態度の問題の次元のことでしょうから。
お礼
別ページ(http://okwave.jp/qa/q6800988.html)へも御教授を賜れますと、幸いです。
補足
有り難う御座います。 集団の和平の為に参照されるべき「プロトコル」を神等の象徴的他者達が提供してくれていた、という私見は、完全な誤解に留まっているのですね。
>答えが有るのか否かさえもが私には分かりませんので 明確な答えは明らかになさそうな話題。 それより、どうしてそんなことを知りたいのかに興味がある。
お礼
別ページ(http://okwave.jp/qa/q6800988.html)へも御教授を賜れますと、幸いです。
補足
近代科学の恩恵に頼らせて貰えなかった時代の人々が、 天変地異に曝され乍ら共同体を維持していく、という過程の途上で、もし『「宗教」への依存』から開放され得たのでしたら、 「精神的な拠り所の見直し」にも役立ち得るのではないか、 と考えまして、多くの方々からの貴重な御教授を賜る為に、 此の質問を提出させて頂きました。 質問の表現が上手く纏まっていなかった様ですので、 御指摘を頂きまして有り難いです。 もし支障が御座いませんでしたら、 アナタからも御指導を賜れますと幸いです。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
ANo.15:補足をいただきました。不遜ながら再度(最後)の回答をします。 【『「存在を否定される神」の存在が意識されていなかった』という事情から類推しますと、「絶対無」という考え方が当て嵌まるのではないか】 krya1998⇒「絶対無」は考え方ではなく、実在だと認識しております。認識という受け入れの仕方には、弁証、推論、帰納、そして実験などがありましょうが、直感の対面という経験もあります。現象という存在(界)がない存在だけのものが「絶対無」です。 現象界はこの「絶対無」の要素とその乱れ現象ですから、その現象的存在では『「神は存在を否定される」される、いえ確認できない、神の中、「絶対無」の要素の一形態でしかない存在とその知見能力では無理です。全部が「絶対無」=神であり、それ以外のものはない。そうでないものがないところではそうであるものを認識できないという宿命です。 【勿論乍ら仮説でも構いませんから】 krya1998⇒私は仮説も推論もできません。そういう空しいことをする気も起こりません。 ≪なお私の方からの補足をさせていただきます。≫ 孔子ですが、60年前の中学の時の読書を想起しているのですが、魯とかの高官になりましたね。 大司空だったかな。ここでも祭政一致というか、祭儀は大事な任務の一つでしたね。 前任者への敬意から、前任者にいろいろやり方を教わろうとします。 <高名な孔子は何だってあんなに知らないのだろう。虚名であったか>という風評もしきりであった。 孔子は翌日、これまでの過ちを正し、不足を補い、その本旨(根拠と目的)を明らかにして、本来の祭儀を指揮した。 こういうことからも、孔子が祭儀や神に無頓着や無知、そして否定の立場ではなかったことが窺い知ることができます。 孔子を無神論というのはおかしな話です。 神にもその現象や経験はさまざまありましょうが。 蓋し有神論は無神論であり、無神論は有神論だというのが事実ではなかろうか。 信仰と不信仰とが同じであるのと同様に。
お礼
別ページ(http://okwave.jp/qa/q6800988.html)へも御教授を賜れますと、幸いです。
補足
有り難う御座います。 『「神の存在の可能性」を探ろうとする煩悩』から拘束されていない、という状態の存在は、矢張り予想され難いのでしょうか? 現代では、自然科学の普及の御蔭で、比較的に豊かな暮らしが私達に提供され得る、という状況になりましたが、社会問題等が解消されないせいで、未だに「宗教への依存の傾向」は無くならず、此の質問の回答の内の1つで、或る方が御指摘を提供して下さっている通りに、基督教中心の文化圏では、『「無神論」への執着』を表明すると、酷く糾弾されますね。 でも、鍼灸技術の陰陽五行相生相剋理論が脱宗教化を果たしていった通りに、前近代の非科学的な伝統が進歩を辿れば、 宗教の代わりに人類の心理的な拠り所になってくれ得るのではあるまいか、と考えまして、前近代の思想を探る為のヒントを拝借すべく、此の質問を提出させて頂きました。
お礼
http://okwave.jp/qa/q6755450.html もし可能でしたら、此方への御教授をも賜れますと、助かります。
補足
親切な御指導を提供して下さいまして、 誠に有り難う御座います。 存在の否定による『「相対」的な無』ではなく、 否定対象の存在の可能性さえもが認識されていない、 という『「絶対」的な無』に関わっているのですね。 非常に良く分かりました。 又何かの機会が御座いました際にも、 もし宜しければ、再度の御教授を賜れますと、幸いです。