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無神論者の死生観とは?
- 無神論者の死生観は、死後は意識も消滅し、唯の亡骸となると考えます。
- 一方で、生きている今の自分や亡くなった人との繋がりを感じる視点もあります。
- 宗教の要素として、お墓や仏壇を家制度の一環として継承する考え方もある一方で、無神論者は心の中で亡き人を偲ぶことを大切にします。
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自他ともに認める無神論者です(笑)。 1 死ねば唯の亡骸、廃棄物であり、意識も消滅する はい、当然そのように思っています。私の両親はすでに亡くなりましたが、「危篤状態の時、父母や亡き人が出て来た」というようなことはありません。 2 科学や唯物的に見ると、生きている私が絶対、生きている内に好きな事をするという事に成るのでしょうか 自分自身が絶対的存在ではありますが、「生きている内に好きな事をする」ことができるとは限りません。幸か不幸か現在のほとんどの人間は「法治国家」の元で暮らしており、法に反する自由は手に入れられないのが現実です。 3 「今をどう生きるか」も佛教始め宗教の道徳的な部分よりも、したたかに高収入を得て、好きな事をするという事なのでしょうか 私は結構好き勝手に生きていますが、高収入を得てはいませんね(笑)。高収入を得るには、宗教とは別の「社会的束縛」があると思っていますし、「日本の家制度」なるものも束縛であると思っています。私はそうした束縛が大嫌いなので、一応自宅には仏壇や神棚がありますが手を合わせることはありません。ちなみに私は長男で一族の代表のような存在ですが、独身だし兄弟もいないので私の代で血統が途絶えることが確定しておりますが、何とも思いません(笑)。 4 「その様な事は無駄 無意味」と思って居るのでしょうか それは「意味がある」と思っている方には必要でしょうし、私のように「無意味」と思っている人間には無意味です。ただ、私は自分の考えを他者に強要することはありませんが、こうした無神論的思想を否定して、私に宗教的な思想を強要する輩とは徹底的に闘うことにしております。 私は、誰に何を言われようが、死ぬまでこの考えを貫き通すつもりです。
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- SI299792
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無神論者にもいろいろいるので、一纏めにはできません。 質問を読んでいると、人間は損得だけで動いている。道徳を守るのは、神に気に入られたいからといっているように思えます。 1に関してはその通りです。 2 確かに無神論者なら、お参りに行く墓を作るなどは不要な事です。しかし、神を信じようが信じまいが、遊びに行く、音楽を聴くなどは不要な事です。不要な事はやらないというのは、つまらないです。 3 「死ぬの当たり前」「死ねば終わり」は当てはまりますが、 「偲ぶ事も面倒」は当てはまりません。死者を思い出すのは、悪い事でも間違った事でもありません。無駄なことかもしれませんが、無駄なことをやるのが人間です。 父が夢に出てきて「母をどこか連れて行ってやってくれ」といっていました。これは、父が亡くなってから遊びに行かなくなった母を心配していたのでそのような夢を見たのだと思います。 >生きている間に高収入を得て、好きな事をして、 そうは思いません。それはそれで大変な生き方です。私はなるべく働かず、なるべく金を使わすと思っています。つまり、それがしたい事です。 >ある程度の年齢が来ると死ぬ その通りです。 神を信じるかどうかと、生き方は関係ありません。神を信じなくとも、道徳は必要です。 神を信じない=好き勝手をする 神を信じない=他人の事等構わない ではありません。逆にそう考える人は、神に気に入られたい下心があるわけです。 例を上げれば、私は財布を拾ったら警察へ届けます。神を信じていないなら、神を含めて誰も見ていないのだから、そんな事をしても何の徳もありません。損得抜きで自分の価値観に従います。 人の為に何かするのは、別に神に気に入られたいからではありません。関係ない事です。神を信じる人だって、他人の事を構わない身勝手な人も、平気で犯罪を犯す人もいます。 4 神を信じていなくても、回りや相手に合わせます。私は、父も無神論者で、自分の葬儀には僧侶を呼ぶなと遺言しました。しかし祖父母は仏教徒だったので、祖父母の為に僧侶を呼び、お経をあけました。父は昔、墓を作らず散骨して欲しいと言っていましたが、孫ができると考えを変え墓を作ってほしいといいました。これは、自分の為ではなく、子孫の為だと思います。 私自身は、自分の死体はごみだと思っています。別にごみ袋に入れて可燃ごみで出されても構いません(法的に問題はありますが)。だからといって、人の遺体までごみ扱いはできません。そこは周りに合わせる必要があります。
お礼
ご回答有難うございました。 私も質問の仕方が下手で、多少職業柄押しつけがましい表現で申し訳ありませんでした。 無神論者にもいろいろいるので、一纏めにはできません。 確かに 霊魂等は否定するが仏教や神道の教えで「ああそうだな」「生かされている 自然に感謝する」という人も居られるかと思います。 道徳を守るのは、神に気に入られたいからといっているように思えます。 これも言い方に誤解を招く様な事を云い済みませんでした。 神に気に入られる為ではなく、その様な思いは多少「ああそうか」という人と最初から否定する人に分かれ、否定する人を例に言ってしまいました。 「死ぬの当たり前」「死ねば終わり」は当てはまりますが、 「偲ぶ事も面倒」は当てはまりません。死者を思い出すのは、悪い事でも間違った事でもありません。無駄なことかもしれませんが、無駄なことをやるのが人間です。 父が夢に出てきて「母をどこか連れて行ってやってくれ」といっていました。これは、父が亡くなってから遊びに行かなくなった母を心配していたのでそのような夢を見たのだと思います。 これはそうかと思いますが、その様な事も必要ないと 云う人が居られますが、これは宗教と云うより親が毒親と いう事だったからかもしれません。 神を信じるかどうかと、生き方は関係ありません。神を信じなくとも、道徳は必要です。 神を信じない=好き勝手をする 神を信じない=他人の事等構わない ではありません。逆にそう考える人は、神に気に入られたい下心があるわけです。 例を上げれば、私は財布を拾ったら警察へ届けます。神を信じていないなら、神を含めて誰も見ていないのだから、そんな事をしても何の徳もありません。損得抜きで自分の価値観に従います。 人の為に何かするのは、別に神に気に入られたいからではありません。関係ない事です。神を信じる人だって、他人の事を構わない身勝手な人も、平気で犯罪を犯す人もいます。 唯、その道徳も私が作り上げた者ではなく、規範として受け継がれてきたものがあり、その中で宗教を取り入れる様に成ったのだと思います(権力者によって間違った事を起こした事も大きいですが) 神を信じていなくても、回りや相手に合わせます。私は、父も無神論者で、自分の葬儀には僧侶を呼ぶなと遺言しました。しかし祖父母は仏教徒だったので、祖父母の為に僧侶を呼び、お経をあけました。父は昔、墓を作らず散骨して欲しいと言っていましたが、孫ができると考えを変え墓を作ってほしいといいました。これは、自分の為ではなく、子孫の為だと思います。 唯、その様なつながりも知らないし、関係ないという人も出てきているのですが、これは個人の問題なのでしょうか? 私自身は、自分の死体はごみだと思っています。別にごみ袋に入れて可燃ごみで出されても構いません(法的に問題はありますが)。だからといって、人の遺体までごみ扱いはできません。そこは周りに合わせる必要があります。 科学的にはそうでも、思いや悲しみを共有するという事で 行為としてはゴミでも、葬るという事であると思えるのです。
- kappa1zoku
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何を言いたいのか、何を悩んでいるのか、何を訴えたいのか、正直よく分かりません。 お寺の墓地か納骨堂の管理をしていると書かれていたと記憶しています。 他人のすることに納得いかないのか、相手の論理に負かされている悔しさでしょうか。 死生観というのは、時代とともに大きく変わります。死生観とは、生き方とも通じるものです。 『天皇の葬儀』井上亮著より、以下抜粋しました。 842(承和九)年に嵯峨上皇が、五十七歳で死去しました。 三十数人の后妃に五十人の子供を産ませた艶福家であり、空海、橘逸勢(たちばなのはやとり)とともに三筆といわれた能筆であったことも有名だ。『凌雲集』など勅撰漢詩集の編纂など宮廷文学サロンをつくり上げ、人生を謳歌した天皇であった。 そう書かれている嵯峨上皇の遺詔は以下のようです。 「およそ人の愛するものは生であり、嫌うのは死であるが、いかに愛しても生を延ばすことはできず、嫌っても死を免れることはできない。人の死とは、精神は亡び肉体は消滅して魂の去ることであり、身体の活動の根元力である気は天に属し、肉体は地へ帰ることになるのである。立派な墓を作っても、死体はすぐに朽ちてしまうものであり、葬とは隠すことであり、人にみられないようにすることである。」 葬地については「適当な深さの穴を掘り、棺が埋まればよい。柩を下ろしたら、高く土盛はせず、樹木も植えず、平らにすればよく、草は生えるままとし、長く祭礼を行ってはならない」と命じています。 上記の考えは、無神論と言えるかもしれません。 生き様を考えれば、いさぎよいのではないでしょうか。
お礼
ご回答有難うございました。 他人のすることに納得いかないのか、相手の論理に負かされている悔しさでしょうか。 私もいけなかったのかと思います。 私は自分はこう思うが、兼ね合いもあるので、ある程度 今までの風習や周りの気持ちも組んでと思うのですが、 中には私がこう思う、他人は構わない、親や身内がどうであるとと知らないという人も居るかと思います。 死生観というのは、時代とともに大きく変わります。死生観とは、生き方とも通じるものです。 「およそ人の愛するものは生であり、嫌うのは死であるが、いかに愛しても生を延ばすことはできず、嫌っても死を免れることはできない。人の死とは、精神は亡び肉体は消滅して魂の去ることであり、身体の活動の根元力である気は天に属し、肉体は地へ帰ることになるのである。立派な墓を作っても、死体はすぐに朽ちてしまうものであり、葬とは隠すことであり、人にみられないようにすることである。」 葬地については「適当な深さの穴を掘り、棺が埋まればよい。柩を下ろしたら、高く土盛はせず、樹木も植えず、平らにすればよく、草は生えるままとし、長く祭礼を行ってはならない」と命じています。 上記の考えは、無神論と言えるかもしれません。 生き様を考えれば、いさぎよいのではないでしょうか。 この様な考えも良く解ります。 唯偲びたい人は又それで良いという考えで良いと思います。
補足
本当に自分でも申し訳ないとは思って居りますが、 管理する側として、「無意味 無価値」「居留守を使われ放置」という事をされる心情が知りたいと思い質問させて戴きました。 身体の活動の根元力である気は天に属し、肉体は地へ帰ることになるのである これは私も同感ですが、整理のつかない者やそれを通じて故人を偲びたい者の為にその様なもの(墓等)はあるが、もう整理が付いているという嵯峨天皇の文章はそれを象徴しているという事かと思います。 が「放置」「居留守」と云うのはどうかと思うので質問させて戴きました。
- sutorama
- ベストアンサー率35% (1689/4748)
動物と人類を分けるとき、今で言う「看護・介護」の痕跡を探すそうです 歩けなくなった者や怪我をした者や年老いた者、その面倒を見た痕跡が人類の始まりであると言うことです その者たちのために多く食料を採取し、食べやすいように調理し、寝床を作り、運ぶなどが集落です それが愛情であったのか?などは、文字などがないので痕跡から推測するだけではありますが、自分さえ良ければ良いという結論には至りません 書かれているように今(大きな意味で)は、法や制度でそのことが義務化されているので、愛情というものは薄れ、拒否したいなどの思考が生まれているとも感じます つまりは、当たり前の理由が義務であり、義務を果たすことが当たり前というロジックが存在してしまっているのだと思います これらを愛情として紐解くのか、制度・義務として紐解くのか・・・「人として」という言葉で紐解くのか・・となるとは思いますが所詮、人の思考(死生観など)は何かしらの(に)影響を受けているのですから、本当に芯からその人が自分の言葉で話しているのか?には、大いに疑問が残ります ひとりで自分は生きてきた、と思い込んでいる人には、誰の言葉も届かないでしょう
お礼
ご回答有難うございました。 動物と人類を分けるとき、今で言う「看護・介護」の痕跡を探すそうです 歩けなくなった者や怪我をした者や年老いた者、その面倒を見た痕跡が人類の始まりであると言うことです がないので痕跡から推測するだけではありますが、自分さえ良ければ良いという結論には至りません 介護そして、死者(遺体の処理やその前に花をたむける事等)への思いが人類への進化とみる、これは頷ける話です。 書かれているように今(大きな意味で)は、法や制度でそのことが義務化されているので、愛情というものは薄れ、拒否したいなどの思考が生まれているとも感じます つまりは、当たり前の理由が義務であり、義務を果たすことが当たり前というロジックが存在してしまっているのだと思います これらを愛情として紐解くのか、制度・義務として紐解くのか・・・「人として」という言葉で紐解くのか・・ 愛情もあるが、他の動物と違い、介護や死者に対する思いが人間としての義務に成ったのではと思います。 ひとりで自分は生きてきた、と思い込んでいる人には、誰の言葉も届かないでしょう 唯、現在は「独りで生きて行ける(実際はそうではないのですが)」と公言し、家族や集落でされた介護や儀礼も 此方が此方の甲斐性で金でやっている、貴方たちにはほって欲しいという人も居るのかとも思えますが、根底にこの様な事が始まりである事を理解していくべきかと思います。
- tzd78886
- ベストアンサー率15% (2590/17104)
生まれた時の私は今の私と同一人物なのかと思うことがあります。生まれた時の原子で今も持ち続けているものは何一つないはずだからです。今の私は遺伝情報を引き継いでいるにすぎず、つまりはデータです。典型的な例を挙げると、大木を見てみればいいです。中心部分が腐って洞ができたりしていますが、つまり同じ木でも古い部分から死んでいくのです。人間の一生も同じようなものではないでしょうか。 「死後の世界」があるとして、若い時に死んだ人は若い姿のままずっと生活し、齢を取るまで生きた人は老人のまま永久に生きなければならないのでしょうか。私の祖母は晩年完全にボケていたそうですが(その頃会いに行ったことはない)ボケたまま永久に生きるというのはかなりきついことだと思いますね。
お礼
ご回答有難うございました。 生まれた時の原子で今も持ち続けているものは何一つないはずだからです。今の私は遺伝情報を引き継いでいるにすぎず、つまりはデータです。 原子は消滅し、今の私も生まれて来た時のものは持ち続けていない、これはその通りかと思います。 唯、遺伝情報を大切にしていく事も時には必要かとも思えます。 典型的な例を挙げると、大木を見てみればいいです。中心部分が腐って洞ができたりしていますが、つまり同じ木でも古い部分から死んでいくのです。人間の一生も同じようなものではないでしょうか。 その通りです、唯その歴史も語り続けていくのは時には必要かとも思えます。
- nagata2017
- ベストアンサー率33% (6877/20339)
私の祖父が僧侶で 父は坊主になりたくないと 家を飛び出し 孫の私は 無神論者になりました。父方の親戚には僧侶が多いみたいです。 姉は27でなくなり 父は母から亡くなったと知らせを受け 母はグーグルマップストリートビューで実家がなくなっているのを知りました。 いずれも 葬儀などには出席していません。香典も送っていません。 死とは ただいなくなるだけです。無に帰るだけ。 私自身も葬儀など不要だと思っています。墓もいりません。骨などは 燃えないゴミの日にでも出してくれればいいと思います。 いずれにしても 数十億年経過すれば 赤色巨星になった太陽に飲み込まれて 全て消滅してしまうのですから なにか残したところで 何の意味もないことです。
お礼
ご回答有難うございました。 いずれにしても 数十億年経過すれば 赤色巨星になった太陽に飲み込まれて 全て消滅してしまうのですから なにか残したところで 何の意味もないことです。 確かにその様な時は来ます。 私の命終わるときも、唯それが又いう無数の繋がりへと行くという考えもあると思います。 死を個体の細胞は死ぬが、大きな餅を切って小さな餅にしたと考えると死が怖くなくなったという話には納得がいきます。
- ayzm
- ベストアンサー率17% (187/1096)
私は妻の父の枕元に立たれました。 お母さんを頼むと言っていました、義父は入院してそばには長女がいるのですよ、私は次女の夫ですから返事は難しかったです、なかなか帰らないので解ったと返事をしたら、すぐに妻から今死んだと電話が来ました。 先日無神論者と話をしました、まず聞く耳も持ちません、そしてすべて否定します。 それでも神棚だけは飾ってあるから、無くしたらと言ってもそれも否定します。 自分の行動の矛盾も解らいようです、周りがとやかく言っても無駄です。
お礼
ご回答有難うございました。 私は妻の父の枕元に立たれました。 お母さんを頼むと言っていました、 その様な事もいのちのつながりからあるかもしれませんし、例え本人がそう妄想として夢に見たとしてもその様な事は大事にしていくべきかと思います。 先日無神論者と話をしました、まず聞く耳も持ちません、そしてすべて否定します。 亡くなれば無という事だと思いますが、無0を無意味無価値と見ていくか、いのちの一つと見ていくかで違っていくと思いますが、無神論を公言する人は霊魂や死後の世界云々というよりも自分にとって役に立つ事のみで語っている様な気がするので少々寂しい気がします。
- rikimatu
- ベストアンサー率19% (629/3297)
無神論者の場合は、死んだら終わりと考えているので 思い出として思い出すのでしょうが細かいことまで考えていないのでは。 たしかマサイ族だったかな墓を作らないからなんで作るのかが不思議と言っていたようなことをテレビで行ってました。
お礼
ご回答有難うございました 細かいことまで考えない 成程、死ねば終わり、そう思っても考えるのと考えないので捉え方が分かれてくると思います。 マサイ族等は民族的にその様な風習でしょうか?
お礼
ご回答有難うございました。 私は結構好き勝手に生きていますが、高収入を得てはいませんね(笑)。高収入を得るには、宗教とは別の「社会的束縛」があると思っていますし、「日本の家制度」なるものも束縛であると思っています。私はそうした束縛が大嫌いなので、一応自宅には仏壇や神棚がありますが手を合わせることはありません。ちなみに私は長男で一族の代表のような存在ですが、独身だし兄弟もいないので私の代で血統が途絶えることが確定しておりますが、何とも思いません(笑)。 家制度という束縛の否定が墓や儀礼から離れて行くという事に成った事が伺われました。 、私のように「無意味」と思っている人間には無意味です。 社会的束縛からの解放が動物的な死生観へと還っていく形に成っていくのでしょうか?