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前近代における無神論の普及について
- 近代科学の登場により、人類の平均寿命が延び、生活圏が拡大したことによって、従来は宗教に頼らなければ受け入れられ難かった問題が科学的に解決されるようになった。この背景から、死への恐怖心も科学的な解釈によって緩和される可能性が見出されたため、無神論の考え方も広まっている。
- しかし、前近代においても無神論が普及したのかは分かりません。答えがあるかどうかすら分からない疑問ではありますが、前近代においても無神論が存在した可能性は考えられます。
- つまり、前近代においても人々が宗教に頼らずに自己の理性や科学的な知識に基づいて信じることができる価値観を持っていたということは十分にありうると言えます。しかし、具体的なデータや証拠は存在しないため、仮説の範囲を超えることは避けるべきです。
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> そろそろ纏まりそうになっておりますから、 > もし可能ならば締め括りの御教授を賜れますでしょうか 私がこのQ&Aの纏めをするのはおこがましい話です。締め括りはJidousyaGaisyaさんにお願いします。 私の考えの纏めだけを述べたいと思います。 本題の「前近代にも無神論は普及し得たのでしょうか?」という問いに答えるにあたり、無神論は一神教支配への反動として生まれたという経緯があります。「神なんかいるものか」というテーゼは「全能の神」のアンチテーゼです。無神論は積極的に神の存在を排します。 これ以前の考え方に「神がいるかどうかはわからない」という不可知論があるわけで、神がいたっていなくたって何もかわらないという認識が生まれ、絶対普遍の真理なんて考える必要はなく、現実の状態をよくすることにこそ価値があるというプラグマティズムが起きました。この立場では神の存在は問題にしないのです。 本題への私なりの答えは、近代的無神論以前の無神論は孔子がそれにあたると思います。孔子のスタンスは神を排すのではなく神には頼らないというものです。 まず「子、怪力乱神を語らず」とあります。孔子は超自然的存在を否定したわけではないですが、不可解な人知では推し量れないこと、理性では説明できないことがらについては語らなかったということです。さらに「鬼神を敬して之を遠ざく」とあります。孔子の目指すところは良い政治の実施ですが、このために神(=鬼神・超自然力)の威信や脅威を利用するようなことはしていません。鬼神を敬すのは儀礼としてであり、その鬼神を政治や個人の感化に用いはしません。だから私は孔子は不可知論者で、実質的無神論者だと考えているのです。 歴史的事実として古代の東洋社会では宗教は先祖崇拝・自然崇拝といった土俗的なものにすぎず、国家を動かすような力はありませんでした。『救いの「一元神」への尊崇』やら『王権神授説』は一神教に固有のテーマだと思います。「一元神」への尊崇はヘブライ教徒の信仰がジーザスとパウロによって普遍化されて欧州に広まったものであり『王権神授説』は一元神信仰の政治利用です。 孔子が理想としていた君主は堯です。その堯の治世の真骨頂は「鼓腹撃壌 」という言葉に凝縮できます。「有老人、含哺鼓腹、撃壌而歌曰、日出而作 日入而息 鑿井而飲 耕田而食帝力何有於我哉(老人がおり、食べ物を口に含み腹つづみをうち、足で地面を踏み鳴らして拍子をとりながら、このように歌っていた、日が昇れば耕作し 日が沈めば休息する 水が飲みたければ井戸を掘って飲み 食べ物を食べたければ田を耕す 帝の力が、どうして私に関わりがあろうか)」 帝は為政者としてのみ存在します。そして、その帝は老人の能天気な歌を聞いて自らの治世に満足します。ここには神はいません。たいへんプラグマティックだと思います。
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- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
#4ですが、あたしの言葉遣いが汚いなんて思ったこたぁありませんね。長屋の熊さんも八ッさんも使っていたし、あたしの大好きな瘋癲の寅さんだって使ってた。日本語の一つの美の極致だと思ってる。あたしの尊敬する南方熊楠神や木造米虫大工だって使ってた。この言葉の使い方には言文一致以前の古典の日本語を読んでいるような、簡潔で緊張感の漲った美しさがある。そう考えるのであるのであります、なんてのよりもよっぽど上品だと思わんかね。 言葉遣いと言えばあたしの貴重な経験をご披露しよう。大分昔、まだ本多宗一郎さんがご存命のとき、彼と会食する機会があった。周りには何人もの重役が取り囲んでいたんだね。勿論その重役達は本多さんに丁寧語で話してた。ところが、少なくとも私の経験した本多さんは、その連中にべらんめい調で話してたんだ。あたしは本多さんの隣に座ってた。若造のあたしが偶々財布を取り出したとき、そこに家内と子供の写真が挟まってたんだが、本多さんは何も言わずにいきなりその財布をあたしから取り上げて、これお前のかみさんかって、本当にその言葉遣いで話してた。へー、偉い人ってこんなんかと、あたしゃそのとき本多さんを尊敬しちまったね。 戦後最大の宰相だったバカ野郎解散で有名な吉田茂が引退して大分経ってから、インタビューで年寄りに決まり文句の質問「長生きの秘訣は何ですか」って聞かれたら、「あたしゃ人を食って生きて来たからだ」って答えたのは有名な話だね。まあ、年寄りっちゅうのは今更恰好付けたって何も始まらないんで、地がでちまうんだろうね。家の婆さんからは、あんたそれじゃ世間様に嫌われるよ、なんて時々説教されているんだが、あたしもいよいよどこにでも居るような嫌われ者の頑固爺いになったんだなーって、感慨深い思いでいますよ。 あっと、それから多分自動車会社さんはご存知だと思うが、アメリカで日本人が考えている程度の意味合いで、あたしはatheist、すはわち無神論者です、なんて言っちまうと大変なことになる可能性があるから気を付けてておくんなさいね。
補足
御丁寧な返事を下さり有り難う御座います。 仰って下っている重要な御指摘には非常に感謝していますが、酷く叱責されている様な印象を受けましたので、「怖い」と思いまして、前回の補足入力を致しました。 因みに、存在の否定ではなく、否定される神の存在さえをも想定していない、という状態の心情(?)に基づく、「無神論」が成り立ち得るのか否かを知りたい、と願いまして、愚か「過ぎる」私は、此の質問を提出させて頂きましたが、そういう質問は迷惑になりますか? もし支障が御座いませんでしたら、 御教授を賜れませんでしょうか? 宜しく御願い申し上げます。
- woowq
- ベストアンサー率23% (7/30)
>『「無神論」を特別扱いする発想』こそが誤解なのでしょうか? どうなのでしょうかね? その「神」の部分ですが、ある人から見ればそれは神であり、他の人から見れば間違いなく神であるわけです。質問者様が言われる、この無神論の定義をもっとハッキリとすると何か見えないでしょうかね? 例えば、「自然を使って荒らっぽいことをする神」を信じていたとしましょう。その神を信じる切っ掛けは、自然現象に畏怖の念を感じた事など切っ掛けがあると思います。そして、洪水など起こらないよう、その神様に毎年祈っていたとしましょう。 しかし、現在は、以前とは比べものにならないくらい多くの自然をコントロールできます(もっとも宇宙や地球の大きさに比べれば取るに足らないですけどね)。それでも、水爆など前近代であれば国ごと消すなど殆ど魔法のような事が出来る時代です。 こういった時代ですので、気象衛星を飛ばして、その現象と以前よりも上手に共生できるようになっているように思います。神が居なくなったわけでも、神を信じなくなったわけでもなく、科学を通してもっと親密につきあえるようになったのが今の状態ではないでしょうか? 神に対する概念が変わっているのかもしれません。 ただ、昔の宗教は、信じることで悟りが開けたり、不変の物が心にあることで心に平安が訪れる所にあり無条件に偉大さを感じられて居たと思います。 科学もこのくらい深く信じられるなら宗教になると思っています。私自身は、科学は常に進歩しており、とりあえずは生活を便利するという側面も持っており他の宗教と比べて矮小に考えられており残念に思っています。しかし、科学の本質であり究極的な結論には、全ての人に生きる意味など無理矢理信じる必要もないくらいらいに分かり易く表現できるレベルに達すると信じて居ます。また、無生物である、物質そのものにも、何故、存在して、そこにあるのかその理由が説明できると思っていますので、科学の進歩を宗教として考えても心に平安があります。 科学にこういった宗教的な可能性をどこかで感じ取って、何となく宗旨替えして無神論者(でも科学は何となく信じてる)となった人が多いなんて考えられませんかね? なんだか、まとまりのない長文になってしまいすみません。
お礼
http://okwave.jp/qa/q6870895.html 此方にも話題を発展させました。
補足
有り難う御座います。 『科学の発達が「神」との更に親密な付き合いを促してくれた』 という卓見に、私は深い感銘を受けました。 つまり、『信仰の態度の有り方が、望ましい状態へ更新された』 という見方をすれば宜しいのでしょうか? 自分の意見が無くて格好が悪いのですが、 もう少しの御教授を賜れませんでしょうか? 可能でしたら、宜しく御願い申し上げます。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
新井白石はキリスト教を次のように批判していました。 「神が総てを創造したというのなら、神は誰が創造したのだ?」 「神は誰に創られたのでもない。初めから存在したのだ」 「なら、天地人間・・ことごとく初めから存在したということも可能だろう」 イエズス会が来日して布教しようとしたのですが そこで一般大衆に次のような質問をされて返答に窮したことがあります。 「神を信じれば救われる。さあ今から入信しなさい」 「入信しない人は救われないのか?」 「その通りです」 「それでは、私たちの死んだ父母、先祖も救われないんだな?」 「・・・・・・」
補足
有り難う御座います。 興味深い御指摘を賜れまして、非常に嬉しく思います。 因みに、此の内容を拝見しまして、 「幽霊の存在証明」の話を思い出しました。 それを仰った方が新井白石氏だったのか否かを思い出せませんが、 『幽霊の存在を打ち消せる「否定」の根拠』の「不在」の事情を踏まえまして、その儒学者は、幽霊の存在証明を試みていましたね。 そこで追加の質問をさせて下さい。 『開国前の日本の庶民が「神頼み」を行なう機会は比較的に少なかった』と考えられますでしょうか?
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
無神論ちゅうのが良く解んないんだけど。あたしの知っている無神論ちゅうのは、ユダヤ、キリスト、イスラム教の一神教の神なんざぁ居ないって決めつけている宗教の信者だよね。で、そんな信者が日本にどのぐらい過去にいたり、現在いるんだろうね。それとも、あんたは日本人の我々に興味があるんじゃなくて、あちらさんの人達の心持ちに興味があるんですかい。もしそうなら、あんたも暇人だね。あちらさんの事じゃなくて、あたしって誰だろうと考えた方があんたの為になると思うんだが、まあ、趣味の問題だと言われたら、返す言葉もないがね。
補足
語弊の存在の可能性を指摘して下さるのは誠に有り難いのですが、何故にこの様な汚い言葉遣いで意見を綴られているのですか? 因みに、先生が仰る通りの意味合いで、 「無神論」という表現を私は用いていませんから、 諒察を御願い申し上げます。
- kaxuma119
- ベストアンサー率29% (108/363)
無神論の前に「神の存在は認識できない」とする不可知論が19世紀半ばにハクスリーによって唱えられました。ここで問題なのは神の存在は証明できないとしたことであり、神は実生活に直接は関係しないとする考え方が出てきた点です。 さてご質問の近代的無神論以前の無神論ですが、私は孔子がそれにあたると思います。 論語述而「子不語怪力亂神」すなわち「子、怪力乱神を語らず」とあります。孔子は超自然的存在を否定したわけではないですが、不可解な人知では推し量れないこと、理性では説明できないことがらについては語らなかったということです。 この孔子のスタンスは不可知論そのものであり、実質的な無神論ともいえるのではないかと思います。ただこの考え方には異論もたくさんあります。 参考までに http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/bitstream/10140/1548/1/erar-v52n3p34-42.pdf
お礼
御待たせを致しました。 上部の「補足」入力欄へ綴らせて頂きました通りに、 追加の質問をさせて下さい。 『古代中国で「天」に向けられてきた認識は、 「神への信仰」に似ていないでしょうか?』 『「近代科学」の技術からの恩恵を受けていない前近代』の東洋人達が、「心の拠り所」を求めて、『非宗教的な「タオイズム」』を作り出したのではないか、と私は久しく勝手に考えて参りました。 と申しますのも、その思想が「鍼灸」等の実用的な伝統技術体系を確立させてきたからです。
補足
有り難う御座います。 実は、この様に格好が良い回答を御待ちしておりました。 追加で伺ってみたい内容もが御座いますが、 現時点で上手く纏まっておりませんので、 後で下の「御礼入力」欄に綴らせて頂きますから、 その時には再度の御教授を宜しく御願い申し上げます。
- woowq
- ベストアンサー率23% (7/30)
科学を新しい宗教と考えてみてはいかがでしょうか? 違う点よりも、共通点の方が遙かに多いように思います。 現在、無神論者と呼ばれる人が多いですが、昔、人々が宗教に熱中したくらい科学を強く信じている人が多いですので、単に宗旨替えした程度のことではないでしょうかね?
補足
有り難う御座います。 愚問かも知れませんが、 『「無神論」を特別扱いする発想』こそが誤解なのでしょうか?
- kawakawakawa13
- ベストアンサー率25% (514/2010)
天変地異の原因も解明しようもない時代、無神論は成立しないでしょう。
補足
早い送信を下さりまして、誠に有り難う御座いました。 他の方々から様々な御意見を賜り、 勉強になった、と思いますが、1番様にも、 もう少しの御教授を賜れると有り難いものですから、 御忙しい中への御邪魔を致しますが、追加の質問をさせて下さい。 『御神体を拝む際にも、「無神論」は必要だったのでしょうか?』 此の点をうっかり見落としておりましたから、 もし支障が御座いませんでしたら、御意見を賜れますでしょうか?
お礼
http://okwave.jp/qa/q6755450.html もし可能でしたら、此方への御教授をも賜れますと、助かります。
補足
親切な御指導を提供して下さいまして、 誠に有り難う御座います。 存在の否定による『「相対」的な無』ではなく、 否定対象の存在の可能性さえもが認識されていない、 という『「絶対」的な無』に関わっているのですね。 非常に良く分かりました。 又何かの機会が御座いました際にも、 もし宜しければ、再度の御教授を賜れますと、幸いです。