福沢諭吉と勝海舟は安政6年威臨丸で一緒の使節団でアメリカに行きました。
諭吉は蘭学の医師の桂川に頼み、軍艦奉行の木村摂津守の従者としての乗船でした。
一方の海舟は後に西郷隆盛と江戸城を開城の談判して歴史に名を残すことになりますが、その時は咸臨丸の艦長を務めていました。
ところが海舟は、艦のことは奉行の木村より自分のほうが腕が上であるとして、上司である木村摂津守を余り立てなかったのです。
そのため木村の従者だった諭吉は海舟に良い印象を持たなかったのです。諭吉は木村摂津守には終生恩義を感じて
交際したようですが、海舟とは全くつき合っていません。
後に明治新政府の任官の要請を何度も断っています、譜代大名中津藩士、又幕府の翻訳方で幕臣となった諭吉は、新政府の高位高官となった海舟を許しがたかったのです。その為か海舟の進退に関して批判の書を発表しています。
同じ威臨丸で荒海を渡った二人も維新後は全く違った道を歩いたのです。