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千日回峰行、身体が丈夫なら偉いのか?
千日回峰行を達成した人の本を読んだのですが どうもピンと来ませんでした。 ただ身体が丈夫に生まれて、行を行っただけなような感じがしました。 これでも偉いのでしょうか?
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アマガッパさんが示唆したように、原則として仏教修行の全体(A)の中で千日回峰行(C)がどういう意味を持ちどう役に立つのか理解したうえでないと千日回峰行の評価はできないですね。 それに対して、猪突さんはご自身の研究活動(B)との共感という文脈で千日回峰行(C)を評価しているわけです。 つまり、同じ(C)でも文脈が違うわけです。 また、質問者さんは同じ(C)でも文脈なしの(C)単体で評価していると思われます。 猪突さんは目標達成に地道に精進する点等(もちろん研究者にも修行者にも必要な条件)に共感し、xNekoNyanxさんは千日回峰行だけ尊ぶ風潮を批判しているのでしょう。 千日回峰行が売名なのか、やっつけ仕事か、全体は分からないけど一途にやったのか、修行全体を理解してやったのか、ここが分からない以上、議論は不毛ですよね。
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- Mokuzo100nenn
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いやあ、即物的な質問には即物的に答えて様子を見てしまう愚拙とちがって、Cyototu先生、雨合羽先生のお二人とも含蓄のある回答をなさいますなぁ。 大工の見習いがね、壁板を柱に打ち付けるときにね、釘を多少下向きに打ち込まなきゃならんところを、「なんで水平に打ち込んじゃいけないんですか」と聞くとするでしょう。そんなときに、熟練の棟梁はね「水平に打ち込んじゃいけないって法はねえよ」なんて答えるわけですね。 ここから学習が始まる。 見習い大工の方も、質問を発するぐらいだから、「ひょっとして、水平じゃイケないんじゃないか」程度の疑問を持っている訳でしょう。だけど、棟梁は「水平に打ちたきゃそうしろ」なんて言うので、自分で考え始めるんだな。 いえね、もちろん、まったく考えないアホもなかにはおりますよ。でも、一応、棟梁は、見習い大工が質問してくる以上、自分でなにか考える力があるだろうと想定して回答している。 この例でいえば、質問した見習い大工は、棟梁の回答にもかからず、決して水平に打ちこんで良いとは考えないですね。 手前の頭で考えて、先達のやってきた「多少下向き」にたどりつくね。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 もし ★ 偉い ☆ という主題を問い求めるという見方から行けば その千日回峰行を達成した人の思想を問うべきなのではないでしょうか? その行の成果としての思想です。 思想とは わたしは生活態度として捉えていますので もしすでに本を著わして述べているということでしたら その思想は人びとの話題にのぼってもおかしくありません。そうではないでしょうか? すなわち事は ブディズムという思想の問題なのでしょう? さとりを得るとか得ないとかの? だったらその人間および社会についての基礎理論といった内容での思想を俎上に挙げるのが いちばんであり またそれを欠かすことは出来ないでしょう。 何か大きなことを成し遂げた人びとについては たしかにやはり生活態度としての思想がありましょうし それが発表されたりもしています。ただし一般的に捉えればおそらくその思想は 一般にいくつかあり得るというかたちでの人生観であったりするのだと思います。あるいは 人間論に触れているとしたら そうだとしても 部分観なのではないでしょうか? いやしくもブディストであると言うならば 全体観を目指しているでしょうから その思想を明らかにするのが一番ですし われわれもそれを取り上げてうんぬんすべきだと考えます。 そういうもんだいなのだと考えますが いかがでしょう? その意味での《考え》は その本の中になかったのでしょうか?
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ANo.26 無論、それに加えてというより本筋のことですが、宗教的到達や実現は申し訳ないが研究室に一年間日参での充実と自信以上の状態となります。 ともかく伝統的行を勤めることは素晴らしい。 行そのものにある何かが守ってくれているし。 やることです。関心があるなら、研究対象にするなら、理論対象にするなら。実行が第一の要件です。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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千日回峰行については、自身でやってみてください。 それによりどういうものか、そして評価がどうかという事も判るのです。 それ以外に、推量や間接判断でどうのこうの言うだけでは何の意味もないのです。 身を曝す、どこに曝すか。なのです。 天河童どんがいうことは、無意識と記憶ですか、その質問でどなたかが仰せのルーチン化でもありえますね。 夜道のちょいとした危険、そして草があるからといってそこに地面がなくて懸崖であることも多いし、いろんな障害ですが、必死というか集中しているとそれを意識しなくてもどんなにも対処できる。 あぁだのこぅだの、のたくた昼間のぐうたらだと、とてもできないことができてしまう。 そういうものです。 それや練習や修練もありますし、一途になっているとできるものです。 障害とかなんとか変な相手がよってこない。そんなものです。不思議なんですが。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ANo.11 あの行は心身にとても気持ちがいいし、心身の健康に利するところが多大です。 それでのめりこんでしまった、自己の基本である宗教的志向の発達に疎かになるという面もあるそうです。 しかし釈尊が苦行は意味がないといったという、真意は釈尊にきかないと判りませんが、苦行というのではあまり本当ではないようです。 そしてどんな行も結局、プロセスであり手段、方法であるので、普通はその行により段々啓明がされていくのですが、それが中心になり、それだけに終始してはいけない。 大事な本来の事を忘れてはいけない、という指導は常にあります。
- amaguappa
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千日回峰行をなさった大阿闍梨とお話する機会があれば、とりあえず、bougainvilleaさんらしく「身体が丈夫なのですね」と言えばよろしいと思います。 過酷な訓練に耐えたスポーツ選手に尊敬を感じるなら、同じような尊敬を感じるだけが出発点でいいのではないでしょうか。 でも、野球をしたことがないわたしには、メジャーリーガーがどのくらい偉いのかピンとこないんですよね。遺伝的に身体が良いのに加え、努力は並大抵ではないのだろうな、親も大変なサポートをしたのだろうな、くらいです。 彼らの小学校3年生のときの訓練のつらさ、苦しさとか、何が出来なくて何を克服したか、というような話から聞かないと、わたしなんかピンとこないんでしょうね。 で、目をつぶっていても出来るとか、もう身体が覚えてしまったとか、見えるより先に身体が動くとか、考えるより先に身体が動くとか、そういうことが当たり前だという次元があるはずなので、そのあたりも本人たちの感覚として聞いてみたい気がします。自分の身体感覚と実際に比べて愕然とするんでしょうね。 で、千日回峰行にも躓きの種がいろいろとあるのが当然でしょうが、千日回峰行を終えてしまうと夜道の見えない小石もよけるようになっていると思いますので、なかなか、行のはじめのころのつらさとか苦しさとか、失敗とか、臨場感あふれるような詳述はしなくなってしまうかもしれません。忘れているというより、思い出さないと出てこなくなるというか、本を書くとなるとどうでもよくなる、そんなものでしょう。文章を組み立てるということは、そこに込められないものもありますから。 山道の険しさ、山の悪天候の恐ろしさ、夜の闇の深さだけでも、知覚にしか頼れない人間が入るところではないと痛感するのですが、千日回峰行のあとって、どんなことに気付くんでしょうね。やっぱり、bougainvilleaさんが大阿闍梨とお話ししたら身体が丈夫だけで話が終わることはないだろうと思いますよ。身体でわかることの話から、身体を超えてわかることの話になるんじゃないでしょうか。 で、徳は積まれるものといいまして、積むものではないのを、世間ではよく勘違いしています。宗教的な意味で中身が「偉く」なるのは自分でどうにかするものではないということです。大阿闍梨が荒行で徳を積んだなどとはbougainvilleaさんも考えていないかとは思いますが、念のため付け加えました。
- cyototu
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>少なくとも、「仏教」という難解かつ体系的な教えがあるにも関わらず、そこを全く無視してただ自身の修験体験のみを綴ったような本では、ピンとくるものがなくても当然でしょうね。 成る程ね。物事の話しを簡単にしてしまうと有り難味がないとお考えになる方なのでしょうね。だから、「仏教」という難解かつ体系的な教えがあるにも関わらず、「南無阿弥陀仏」だけ唱えりゃで結構なんて言っている源信僧都や法然や親鸞の言うことなんて訳解んないと言う方なのでしょうね。学問や哲学や宗教は難解であるから価値があるんだとでも言いたいのですね。 南無阿弥陀仏はピンと来るが、修験体験はピンと来ないってのは、私にとっては支離滅裂な気がするんですが。だから論理的な帰結としては、修験体験者も法然や親鸞も並みにピンと来ないと仰っているんですね。 私は学問で飯食って来ましたが、話しはその反対で、物事を簡単に表現してみせた人が評価されているんですよ。 私は、浄土教も天台宗も他の先人達も皆凄いと思っています。
- xNekoNyanx
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しばらく傍観させていただいておりましたが、結論を言いますと… (1) 大荒行も含め、近代に於いてそれが宗内での一種のステータスとなっている傾向がある。 (2) 入出行の儀が公開され、誰が苦行に挑み、そして成し遂げたのかが、信徒にわかるようになっている。 (3) 自叙伝や肩書きとしてこれを表に出している者がいる。 (4) 健常であることが限りない前提である。 というのが、昨今に於けるおおまかな問題点でしょうか。 つまり、精神力がどうのと仰る方が多いようですが、実際にはそんなものを凌駕した「健常な肉体ありき」でしか成就し得ない世界であり、しかもその拠り所が「信心」であるかと言うと、必ずしもそうとは断言し得ないということです。 あまり細かく書くと長くなるので端折りますが、要するに、仏教的に偉いか?と言われると、それは断固として違うのですが、彼の宗派としてはどうかと言われれば所謂「偉い」という評価がつくことになってしまうわけで、そこが質問者様の疑問に思われたところなのではないかと。 少なくとも、「仏教」という難解かつ体系的な教えがあるにも関わらず、そこを全く無視してただ自身の修験体験のみを綴ったような本では、ピンとくるものがなくても当然でしょうね。
- hakobulu
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#18です。 >わたしはこれを信じるべきなどとは一言も言ってません。 : それはわかります。 ただ、(一応ですが)同じように体が強くてもスポーツ選手には疑問を持たず、千日回峰行には疑問を持つ、ということは、「もしかしたら偉いのかも」という感覚が多少なりともあったわけですよね。 ともかく、 >「千日回峰行」などの語句で検索してみてください。 :とおっしゃる答えを聞いて、みんなが言っているから偉いのでしょうか?という意味だったことが確認できたので良かったです。 ちょっと(以下の回答と同じかもしれませんが)回りくどくてすみませんでした。 それで、なぜ(たぶん)多数の人々が「偉い」と感じるのか、という点についてですが、 これは「千日回峰行」というその苦難を乗り越え達成したという事実そのものもさりながら、その苦難に挑む目的が稀有なものとして人々に実感されやすいからでしょう。 野村や清原だって苦難を乗り越えなかったわけではないでしょうが、その目的が異なる、ということだろうと思います。 その本は読んでいませんが、大分前にテレビの特集を興味を持って見たことがあります。 はっきりとは記憶していませんが、たしか酒井さんだったと思います。 最後にふらふらになりながら支えられるようにして出てきた達成直後の顔は覚えています。 その目的の是非は、また別の問題になるでしょうから触れませんが、いずれにせよ、本能に基づくものでも、現世的利益に基づくものでもないということだけは確かでしょう。 本能も現世的利益も我々のような一般人にとっては切っても切り離せない要素だと思われますが、それ以外の精神性のみに関して、その限界を命を賭けて追求した、という点を人々は「偉い」と感じた(る)のだと思います。 精神性を追求するという行為は他にも多数あるでしょうが、苦行のみが伴なう、つまり、精神性の追求以外に、一切の本能的、現世的楽しみを伴なわない、という点が味噌なのでしょう。 精神性の向上、追及は誰しもが(無意識的な場合も含め)持っている願望ですが、「純粋に精神性のみに特化して追及する行」であるために人々は神性、いや仏性でしょうか、それに通じるような印象を受け、それで有り難がるのだろうと思います。 そして、ここが大事な点ですが、まさにそれこそが、千日回峰行というものを設定した仏教界(あるいは他の業界かもしれませんが)の狙いなのでしょう。 命がけのステータス作りというのが、その実態ではないでしょうか。 仮に神仏であれば千日どころではない行を達成する(している)ことでしょうから、人間が現実的にここまでやる必要があるのかという疑問は個人的に感じます。 宗教とは論理とは無縁のものですから、それなりの強引なパフォーマンスが必要なのかもしれません。 しかし、「本能に基づくものでも、現世的利益に基づくものでもない精神性の存在を、今更ながら際立たせる効果があった」という点では、偉いという評価があっても、特に異論はありません。
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
#5です。 >もっと自然体な感じでした。 それは、きっとやり遂げたからそう書けたのでしょうね。それを淡々と語る人と、熱っぽく語る人は、夫々の個性ですので、他の人がとやかく言う問題では無さそうです。私は本を読んでいませんので、何とも言えませんが、千日回峰行をする決意をしたときとそれを実行している最中でも自然体としていられたのだったら、その方は凄い方だと思います。 また、他の方が既に述べておられますが、貴方の心の中に彼の決意や精神力に共鳴できる何かが出来ていなかったので、貴方の心の琴線が反応しなかった、と言うことですね。 宗教云々の問題としてではなく、またその行為をした人が何と考えていたかには無関係に、生きている証の一つの方法として自分に挑戦し、それをやり遂げた方として、私は、その方の幸運を賞賛致します。
お礼
とりあえず千日回峰行の本を読むことを おすすめします。するすると読めますので。