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可能動詞とラ抜き言葉 総括の総括
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質問者が選んだベストアンサー
こんな資料を見つけましたので、ご紹介しておきます。 国立国語研究所 日本語情報資料館 『方言文法全国地図』 http://www6.ninjal.ac.jp/gaj_map/02/04/ 第173図から第185図辺りが問題の内容ですね。 これを見ますと、私も随分認識を改めねばならないなと感じました。 まず、能力可能と状況可能は何らかの形で区別される地域の方が広いようです。 ほとんど両者に違いが見られないのは、関東・東北南部・北陸・九州南部などだけです。 「れる・られる」が状況可能の方で多く使われるというのは質問者さんの予想通りのようです。 ただ、関東地方だけは、能力可能・状況可能にかかわらず五段動詞では可能動詞、 一段動詞では「られる」のように使い分けられるようです。 ただ、能力可能の方は地方によって表現がバラバラで、質問者さんのおっしゃる ような「れる・られる」対「可能動詞」の対立関係が見られる地域は東北の北部などに 限られるようです。 能力可能の意味で使われる表現としては、 東北地方北部では、肯定文では「読むにいい」など、否定文では「読めね」など 愛知・岐阜から近畿・中国・四国などでは「よう読む」「よう読まん」など 九州北部では「読みきらん」など があるようです。 可能動詞については、九州・南西諸島を除くほぼ全域で使用が見られます。 ただ、能力可能と状況可能で明らかな使い分けが見られるのは東北地方北部だけです。 多くの地域ではどちらでも使い、特に「よう読まん」などほかの能力可能表現が優勢な 地域では、むしろ状況可能での使用が多かったりもします。 また、「ら抜き言葉」の使用範囲もかなり広く、可能動詞の使用範囲とほぼ一致します。 使われ方も可能動詞に準ずるようなので、「ら抜き言葉」が一段活用の可能動詞 として生まれたものであるというのはほぼ間違いないでしょう。 ただし、関東地方の全域と、近畿地方の一部(京阪神)だけは、五段動詞の可能動詞 は使われるものの、一段動詞の「ら抜き言葉」は使われません。 一度なくなってしまった活用の種類による区別があとから復活するとは考えにくいので、 恐らく定説通りこれが可能動詞の元々の使われ方で、「ら抜き言葉」の方はやはり 後から生まれたものなのでしょう。 以上をまとめますと、標準語というものが東京方言を元に作られたので仕方ありませんが、 「五段動詞では可能動詞、一段動詞では『られる』を使う」、「能力可能と状況可能の 区別などはない」、「ら抜き言葉は異端」といった、「正統な」国語のルールだと思って いたものが、実は関東ローカルのどちらかといえば例外的な特殊な形にすぎない ことがわかります。 なお、この地図の調査は30年くらい前に行われたもので、その当時において、 生粋の方言を使うと考えられた高年齢層が対象になっています。 つまり、明治・大正生まれのおじいちゃんたちですね。 ということで、たとえば「ら抜き言葉」は最近になってできた言葉の乱れだという 認識などはどうやら余り正しいとは言えなそうです。 Wikipediaでは大正時代からと記載がありましたが、よく見ると関東での使用の話 なんですね。 関東は「ら抜き言葉」の普及が遅れいている地域のようなので、ここでの話をもとに 「ら抜き言葉」の発生時期を語るのは明らかに無理がありますね。 なお、その後、方言の消失・標準語化が急速に進行しているので、昭和・平成生まれの 世代で調査をするとまるで違う結果にはなるでしょう。 本来、能力可能・状況可能の区別があった地域でも、あまりその差を意識しない人 も増えていそうに思いますし、逆に関東などでもら抜き言葉の使用は増えているでしょう。 私自身が住んでいるのはもともと能力可能・状況可能の使い分けがほとんどない 地域だったようで、そのせいか今までそのような違いがあることを想像したこともなく、 標準語のルールに疑問も持っていなかったのですが、日本は結構広かったようです。 いい勉強をさせてもらいました。ありがとうございます。
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- SakuraiTomoka
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御待たせを致しましたが、漸く謎が解けました。 遺憾乍ら、矢張り文法的な誤謬の結果に留まっております。 そこで、象徴的な例文を紹介します。 『この中身は食べられません。』 此の文章は吸湿材の袋によく記載されておりますが、 果たして此の文章を品詞分解し得るのでしょうか? 先ず分かります通りに、 此の文章では、「この中身は」という文節が主語になっていますので、 「食べる」という他動詞的行為の動作主に「この中身」がなれない以上、 『此の文章の助動詞「られる」の意味は「受け身」になっている』 と(文法的には)考えざるを得ないでしょう。 でも、奇しくも此の文章を拵えた方々の意図を鑑みますと、 禁止事項の記載の為に用いられておりますので、 此処の「られる」なる助動詞には、「可能」の意味が期待されている様ですね。 つまり、此の場合にも、 『「受け身・可能・自発・尊敬」の内から複数の意味が与えられてはいけない』 という大前提が、勝手に無視されているのです。 勿論乍ら、此の考え方は、 前々回に入力しました動詞(「売れる」・「切れる」・「裂ける」等)にも当て嵌まり得ます。 従いまして、こういう問題の解決の為には、「目的語の有無」への注目が重要なのでしょう。 ---------------------------------------------------------------------- 因みに、これ等の内容にも著作権が伴ないます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >『この中身は食べられません。』 >先ず分かります通りに、 此の文章では、「この中身は」という文節が主語になっていますので、 「食べる」という他動詞的行為の動作主に「この中身」がなれない以上、 『此の文章の助動詞「られる」の意味は「受け身」になっている』 と(文法的には)考えざるを得ないでしょう。 : そうですかね・・・。 『【あなたがたは】この中身は食べられません。』 という意味で、単なる『主語の省略』だと思っていたのですが、難しいものですね。 私も確信は持てません。 なんども補足質問してはご迷惑でしょうから、ちょっと質問を立ててみます。 気が向かれましたらご参加いただくと面白いでしょう。
- SakuraiTomoka
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著作権はOKWave様側に御座いますから、引用にも熟慮が必要なのでしょうね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 何をおっしゃっているのかさっぱり不明なのですが・・・。 肝心の質問には一切お答えになっていないということは、回答放棄と考えて良いでしょうか。 いつまでも締め切らないでおくわけにもいかず、そのへんをお知らせいただけると助かります。
- SakuraiTomoka
- ベストアンサー率24% (11/45)
御待たせを致しました。 と申しましても、未だ途中段階に留まっておりますが… 但し現時点で判明している内容が御座いますので、それを申し上げます。 それの1つ目は、主語の齟齬です。 例えば、確かに「休む」の可能動詞は「休める」なのですが、 同じ「休める」なる動詞を可能動詞にせず、 他の用途でその単語を使っている事例もが存在していますね。 つまり、『体を「休める」』という表現でも明らかにされている通りに、 可能の意味を盛り込ませていない「同音異義語」もが存在している訳です。 更に、他にも次の様な用例が御座いますね。 『今後にも、昨年のベストセラ-本がよく「売れる」だろう。』 『もっと良く「切れる」刃物が欲しくなった。』 『此のチーズは綺麗に「裂ける」。』 等です。 そして、2つ目の問題点は、「迷惑の受け身」の存在です。 例えば、『雨が「降る」』という文章は、目的語を備えておりませんが、 「迷惑の受け身(「自発」と見做す説もが有ります。)」への変形が可能ですね。 つまり、『雨に「降られる」』という表現の使用が、文法的にも許されています。 でも、たとえ是が『五段活用動詞「降る」の未然形』と『助動詞「れる」』との接続からなっているとは申しましても、『雨が「降れる」』という「圧縮表現」の使用を見たり聞いたりなさったことが、過去に御座いましたか? 少なくとも、文法的には、「降れる」という表現の使用が認められておりません。 (因みに、誤った漢字変換は一般的によく有り得ますので、 此の枠でも「降れる」という漢字変換は可能になっております。) 従いまして、恐らく此処での総括は勿体無いでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >つまり、『体を「休める」』という表現でも明らかにされている通りに、 可能の意味を盛り込ませていない「同音異義語」もが存在している訳です。 更に、他にも次の様な用例が御座いますね。 : 同音異義語ですか。 たしかに[ERU][RERU]の語尾を持つ語は多数ありますね。 単に別の単語と捉えていましたが、発生過程を考えてみるのも面白いかもしれません。 さらなる解説をしていただけるとのことで楽しみにしております。 私のような文法素人にとっては、可能動詞と(可能の意味としての)ラ抜き言葉について考えることぐらいで、精一杯という感じでしょうか。 いずれにしても、「総括」というには、やや気が早いというか、おこがましい表現だったかもしれません。 「素人なりの総括」とでも改名したほうが良いかもしれませんね。^^;
補足
折角ですので、 >『今後にも、昨年のベストセラ-本がよく「売れる」だろう。』 『もっと良く「切れる」刃物が欲しくなった。』 『此のチーズは綺麗に「裂ける」。』 : という例について、ちょっと勝手な推測をしてみました。 イントネーションじだいで可能と捉えることもできますが、 これら3例は、自発(すくなくとも可能以外)の例として挙げられたのですよね? A.対象重視の可能用法の場合、 売る→売られる という基本形がまずあると思います。 動詞+助動詞れる・られる型ですね。 B.主体重視の可能用法の場合、 売る→売り得る→売れる という過程を経たと考えることができるでしょう。 いわゆる可能動詞。 さて、提示していただいた「売れる」は A から派生したものではないでしょうか。 売る→売られる→売られ得る(URARE ERU)→売れる(URERU)です。 Aの基本形「売られる」は「自発・受身・尊敬・可能」全てを含んだ用法と捉えて良いでしょう。 で、ここから自発をさらに強調したい意図で「自発+得る」という転化が為されたように思います。 ここでも鍵になるのは、「得る」という語と、その意味だろうという気がするわけです。 [RA] と [RE]という「R音」の重複が忌避され、[A音]よりも重複している[E音]が選択されると同時に、その一方が脱落した、という解釈です。 発音の便宜性という観点から見て、そう無理な解釈でもないでしょう。 このように、おなじ「売れる」でも、可能と自発は伯父・甥のような関係にある。 と考えてみたら面白いと思いました。 隔世遺伝で瓜二つ、といったような具合で、見慣れないと(シチュエーションを無視すると)戸惑うわけですが、そうでなければ見分けがつくだろう、といった感じでしょうか。 この点に関しても、ご教授いただけるものと楽しみにしております。 他のみなさんのご見解も伺ってみたい気がしますね。
- SakuraiTomoka
- ベストアンサー率24% (11/45)
殊更に誤用の由来を考える機会は余り御座いませんので、 久し振りに思索の機会を賜り、有り難く思います。 今回にも何故か主観的な意見を募っていらっしゃる、という印象が感じられますが、 其の認識は間違っていますか? 余りにも微妙な誤解に留まっておりますから、 雄弁な回答を御用意出来るか否かは分かりませんが、 もう少しの猶予を頂きたいです。 因みに、最終の締め括りになさると非常に勿体無い見落としが、 残っております。 そもそも印象の食い違いの由来は、 『自動詞』と『他動詞』との誤用にこそ有りそうですよ。
お礼
ご回答ありがとうございます。 疑問にお答えするお時間がとれないのではないか、と思っていましたが、そうでもなさそうですね。 ある程度は気長にお待ちしますので、ぜひご教授たまわりますようお願い申し上げます。 >今回にも何故か主観的な意見を募っていらっしゃる、という印象が感じられますが、 其の認識は間違っていますか? : はい。 むしろ、覆せるだけの論理的根拠ある御見解をお待ちしております。 現段階での見解をご覧いただければご理解いただけるでしょう。
- cxe28284
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質問者様にはとてもついていけませんが納得するまで追及されると言うのは、 男性の特質でしょうか。 うちの夫もいつもただ本を読むのでは無くてノートに書きうつしながら 読んでいます。弟は仏教の開祖に凝って本を出すし、かないません。 女性の特質は同時にいろいろできると言うことらしいですが、 私は絵をかきながら乾く間にパソコンしたり、全く自分でも気が多いです。 ところで関西弁では語尾にへんをつける不可能表現が日常的に使われます。 「やすまれへん」「泳がれへん」「見られへん」「たべられへん」(ら抜きは使いません) これらは状況が不可能と言う意味と自分の能力が不可能な時と両方使えるのもあるし、 違和感のあるのもあります。いつも的外れで申し訳ございません。 雪裡の梅花 一枝綻ぶ 頃になりました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >納得するまで追及されると言うのは、 男性の特質でしょうか。 : おそらくそういうわけでもないように思われます。 単に、私がしつこいだけでしょう。 >「やすまれへん」「泳がれへん」「見られへん」「たべられへん」(ら抜きは使いません) これらは状況が不可能と言う意味と自分の能力が不可能な時と両方使えるのもあるし、 違和感のあるのもあります。 : 大変貴重なお話をありがとうございます。 そして、使いどころによっては不自然さを覚えることもある、ということですね。 「食べれへん」は聞いたことがありませんが、「見れへん」はたまに聞いたような気もしますね。 >雪裡の梅花 一枝綻ぶ 頃になりました。 : 素敵な表現ですね。 絵を描かれるという趣味をお持ちなんですね。 これからは一層画材の増える、良い季節になっていくのでしょう。
- xianching
- ベストアンサー率16% (18/110)
終わりの方だけの感想です。 >「休まれる」よりも「休まれない」 五段可能動詞とは言わないと思います。 可能動詞は「休める」 「休まれる」は助動詞用法で可能だけの意味ではないから。 さて、私は「休む」の可能不可能表現には「休める」「休めない」の可能動詞を使います。 「休まれる休まれない」は使いません。 理由は「休まる」「休まらない」と混同しやすいから。 >「見れる」よりも「見れない」「食べれる」よりも「食べれない」 これはそんな気がします。 理由は不可能だった怒りの気持ちのストレートな表現が可能動詞の使用になった(ラ抜きですが)。 「見られない」「食べられない」の方が上品かと思いますが(^^)。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >「休まれる」よりも「休まれない」 五段可能動詞とは言わないと思います。 : そうですね。ここでこの表現はいけませんね。 五段動詞の可能態、とでもいう意図でしたが、うかつでした。 いずれにしても、「日陰者表現」の活躍場面に一定の法則があるかも、という意図がお伝えできていれば、と思います。 >「休まれる休まれない」は使いません。 理由は「休まる」「休まらない」と混同しやすいから。 : その感覚はわかります。 わたしの場合も、 「明日、どうしても休めないの?」 と言うシチュエーションが多いような気がしますが、 たとえば、単なる明日ではなく、とても大事な明日という日、という意図を強調したい感覚が無意識に存在しているときは、 「明日、どうしても休まれない(日な)の?」とおそらく言うと思います。 厳密な区別はしているわけではないのですが、 まあ、しかし、この感覚が方言と呼ばれても仕方ない一面を表わしているのかもしれません。 >理由は不可能だった怒りの気持ちのストレートな表現が可能動詞の使用になった(ラ抜きですが)。 : なるほど。 ストレートな怒りの必要がないのに「見れる」と表現すると、その(可能の)必然性が薄くなるために不自然に受け止められる確率が高くなるのではないか、ということですね。 面白いと思います。 >「見られない」「食べられない」の方が上品かと思いますが(^^)。 : これは、同意できます。 「見れる」の場合は、上品ぶっている余裕がないほど、主体(自分)を重視する必要に迫られているわけでしょうから、その自我突出感とでもいったようなものによって、自ずと上品さが脱落してしまう傾向が強まるのでしょう。
- TheUchuuNoKori
- ベストアンサー率18% (2/11)
自分の主張への賛成票が望まれていますよね。
お礼
いや、そうでもないですよ。 いたって節操のないほうでして、腑に落ちさえすればすぐに寝返ります。 多少大げさに言えば、真理にいかに近づけるか、ということが最も重要です。 納得いくご見解があれば大いに取り入れる姿勢は堅持していますよ。 ただし、論理的に展開していただくことが最低限の条件でしょうね、お互いにですが。 お時間のあるときにでもちょっとお試しになってみてください。 その内容次第では、案外素直な面もあるのです。 ご回答ありがとうございました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >まず、能力可能と状況可能は何らかの形で区別される地域の方が広いようです。 : 「読める」と「読まれる」を対照してみましたが、そういう感じは受けますね。 思っていたより範囲が広いという印象です。 >可能動詞については、九州・南西諸島を除くほぼ全域で使用が見られます。 ただ、能力可能と状況可能で明らかな使い分けが見られるのは東北地方北部だけです。 多くの地域ではどちらでも使い、特に「よう読まん」などほかの能力可能表現が優勢な 地域では、むしろ状況可能での使用が多かったりもします。 : そうですね。 たしかに、かく言う私自身も、実際問題として厳密に区別した表現をしているかといえばそうでもありません。 「眠れぬ夜のために」などという表現を平気で使います。ただ、 「眠られぬ夜のために」のほうが明らかに自然だという感覚に気づくことも確かだ、ということなんです。 このような言葉を発する人、あるいは、このようなタイトルの本の執筆者の意図は、、 「人々が」あるいは「私が」→「眠るという状況をなかなか得られない場合は」という感覚よりも、 「眠るという状況がなかなか得られないような、そんな夜の場合は」という感覚に遙かに近いはずだと思われるわけです。 人間が眠られないという不可能性よりも、 そんな不可能性を秘めた夜というものに焦点を当てて発せられる言葉のはずで、そういった心理と言葉の関係性というのはなかなか面白いと感じます。 >「五段動詞では可能動詞、一段動詞では『られる』を使う」、「能力可能と状況可能の 区別などはない」、「ら抜き言葉は異端」といった、「正統な」国語のルールだと思って いたものが、実は関東ローカルのどちらかといえば例外的な特殊な形にすぎない ことがわかります。 : 深いご見解と拝聴いたしました。 ただ、おそらく「方言」は「地方言」の略でしょうから、(地方ではあり得ない)東京を初めとする関東近辺以外の言葉を方言と言うのも一理はあるのかもしれません。^^ >つまり、明治・大正生まれのおじいちゃんたちですね。 ということで、たとえば「ら抜き言葉」は最近になってできた言葉の乱れだという 認識などはどうやら余り正しいとは言えなそうです。 Wikipediaでは大正時代からと記載がありましたが、よく見ると関東での使用の話 なんですね。 関東は「ら抜き言葉」の普及が遅れいている地域のようなので、ここでの話をもとに 「ら抜き言葉」の発生時期を語るのは明らかに無理がありますね。 : たしかに、明治生まれのおじいちゃんは、ラ抜き言葉を誰から教わったのか、ということになりますよね。 その意味では同様の印象を持ちます。 たびたび貴重な資料をご提示いただき、また、数々の適確なる御見解を賜りありがとうございました。 さらには、今回の資料の検証にも、ひとかたならぬお時間と労力を費やされたことでしょう。 その分析内容も大変参考になりました。 重ね重ね厚くお礼申し上げます。 ところで、今回ご提示いただいた資料も、あつかましく拙ブログにパクらせていただきたいと思います。 「検索権」などは発生しませんよね。^^; 色々とありがとうございました。
補足
お礼欄の記述内容に訂正があります。 ×人間が眠られないという不可能性よりも、 〇人間が眠れないという不可能性よりも、 「使い分け」と言っても、このていたらくです。 ただ、修正する気になるほどには気になる、ということですね。