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休まれない と 休めない の使い分け
次のように考えたのですが、ちょっと確信が持てません。 みなさんのご見解をお伺いできれば、と思います。 1.風邪を引いたが、繁忙期なので会社を休まれない。 【会社というものを】休むことができない。 というニュアンス。 2.風邪を引いたが、繁忙期なので会社を休めない。 【私は】休むことができない。 というニュアンス。 「休む」の、 1.対象に重点をおいた表現か 2.主体に重点をおいた表現か によって使い分けている。 3. むろん、必ずしも厳密に区別されているわけではないかもしれません。 〇この海は汚れているので泳げない。 〇この海は汚れているので泳がれない。 などは、どちらも可能でしょう。 ただ、この場合でも、 前者は、「海が汚れているという理由で、【私たちは】泳げない」という主体重視のニュアンスで、 後者は、「この海は汚れているので、泳ぐことが【不可能な海】だ」という対象重視のニュアンス。 という感じがします。 そして、 「怖い」という主体重視の意図が明確な場合は、 〇私は海が怖くて泳げない。 ×私は海が怖くて泳がれない。 のようになるのではないか、というわけです。 どう思われますか。
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質問者が選んだベストアンサー
私は質問者様のように明確に区分していませんが、 質問者様がそのように感じられるのは、「れる・られる」の可能以外の意味(受身、尊敬、自発)に大きく影響されているからではないでしょうか。 受身、尊敬、自発には、主体の積極的意志が感じられません。 「れる・られる」には4つの意味あると言っても、一つの言葉ですから、「れる・られる」の可能表現でも、可能以外の「受身、尊敬、自発」に引っ張られることがあってもよいと思います。 それが普通かもしれません。
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- xianching
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最初に「方言だから」と門前払いのような口調で回答ありました。 その後も何回となく同様の主張をしながら、最後に軟化されても困るのですが、この問題は可能動詞の単純明快さと「れるられる助動詞用法」の古さや複雑さの差だと思います。 質問者様はかなり細かく区分しているようです。 私はそれほどの差があるように思えません。 >〇私は海が怖くて泳げない。 >×私は海が怖くて泳がれない。 この場合は質問者様の○(チェック)の通りですが、「私は海が怖くて泳がれん(ぬ)。」にすると○のように思います。 つまり言い方少し古風にすれば格好付くのよ。 こんなところも参考にしてまた御研究されてください。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >この問題は可能動詞の単純明快さと「れるられる助動詞用法」の古さや複雑さの差だと思います。 : みなさんのご見解を集約すると、そうなりそうですね。 >この場合は質問者様の○(チェック)の通りですが、「私は海が怖くて泳がれん(ぬ)。」にすると○のように思います。 : なるほど、新鮮な視点ですね。 ただ、この場合も、「海というものが怖いという理由で」に重点を置いた表現になると思います。 構文としては、 ・私は→泳がれん(ぬ)。 ・海が怖くて泳がれん(ぬ)。 のようになっていて、「泳がれん(ぬ)」 は、2箇所を受けていますが、あくまで後者を強調した表現になっているのではないか、ということです。 つまり、「私に泳ぐ能力がない」という意図ではない、という点が大きな、しかも決定的な違いと私は考えます。 色々と参考になりました。
- ucok
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#1・10・12で回答した者ですが、なんだか私のせいで、この「2つの意味の違いは何か」という本来のご質問が、いつのまにか「この言葉は方言か否か」だと誤解されてしまっているようで責任を感じています。私はべつに「この言葉は方言だ」と頑なに主張したいわけではなく「私にはこのご質問に回答するほどの知識はないが、この言葉の意味を比較するには、この言葉の性質を把握したほうがいいのではないか」と提案しているだけなのですが。これ以上の誤解を招くといけないので、今後はこのスレッドから退くことにいたしますので、どうかご了承ください。質問者さんにはご迷惑をおかけしてしまいました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 全くお気になさらないでください。 むしろ、不用意な発言で、不快感を覚えられたとすれば、却って申し訳なく思います。 同じことを言うにしても表現の仕方の問題ですよね。 おっしゃっておられる内容については、よく把握しておりますのでご心配には及びません。 また、よろしくお願いいたします。
- xianching
- ベストアンサー率16% (18/110)
「方言」とは「広辞苑」によると「共通語に対して、ある地方だけで使用される言語」だそうです。つまり方言は、べつに、その地方だけで降ってわいた言葉でも何でもないのです。もとは、ほぼ全国的に使われていたのに一部の地方でのみ生き残った、という言葉も少なくありません。むしろ、方言は日本語の歴史を知るうえで非常に役に立つことが多いです。 ・・・これは誰もが知っているあたり前のことです。 辺地には古語辞典に記載されているような古代日本語のヌケガラが数多く残っている。 しかし、一般の国語辞書は方言を載せていません。 あったとしても方言としてではなく、この地方で多く使われる旨くらいの註釈だ。 休まれる、泳がれるが方言だとする人は、可能動詞しか知らない「れるられる」の助動詞を使った可能表現に無知な方の強弁でしょう。 テレビで言う人が少なくなったから、方言だというのは無茶だよ。 昭和の名作にもそのような表現は数多く出ています。 質問者さんは前回の僕の回答に笑ったね。 名文に多く接していると上品か教養あるか分かってくるよ。 私は勉強中の身ですから偉くはありませんが、名文家の文章を勉強したいと思っています。 現代文や現代語が全く今テレビで使われている言葉に限るというのであれば話別です。 それなら国語辞書も下品若者用語をどんどん載せる必要あります。 日本語ドンドン劣化しても知らないよ(^○^)。
お礼
ご回答ありがとうございます。 参考にさせていただきます。
- ucok
- ベストアンサー率37% (4288/11421)
#10の補足欄にいただいたご質問を拝見しました。しかし、あいにくと私は「行かれない」を、私の知らない方言だと解釈しておりますので、補足質問に答えられるほどの知識を持ち合わせておりません。ご了承ください。ちなみに、もうひとつのスレッドのご質問に関しても、私は「ら抜きで誤用」という知識しかありません。 余談です。「方言」とは「広辞苑」によると「共通語に対して、ある地方だけで使用される言語」だそうです。つまり方言は、べつに、その地方だけで降ってわいた言葉でも何でもないのです。もとは、ほぼ全国的に使われていたのに一部の地方でのみ生き残った、という言葉も少なくありません。むしろ、方言は日本語の歴史を知るうえで非常に役に立つことが多いです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 参考にさせていただきます。
- xianching
- ベストアンサー率16% (18/110)
#2、7です。 「休まれない」や「えらい(苦しいの意)」は方言ではないです。 標準語であるから、辞書に記載されています。 今の若い人が使わなくなっているからといって、方言にしてしまうのは妄言(冗談(^○^)です。 「れる・られる」の可能表現は、昭和の名作にも沢山あるよ。 私は昭和の名文家や辞書編纂のえらい(偉い)学者様を信用します。 さて、質問者様のご質問の細かいところはよくわかりません。 ただ、可能動詞を多用する人よりも「れる・られる」を使う人の方が、教養があって上品な感じ受けます。 私はえらい(偉い)人ではありません。私の個人的な見解です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >標準語であるから、辞書に記載されています。 : ご見解が割れましたね。 >ただ、可能動詞を多用する人よりも「れる・られる」を使う人の方が、教養があって上品な感じ受けます。 : 極力使うように心がけることにしましょう。^^;
- ucok
- ベストアンサー率37% (4288/11421)
#1で回答した者ですが、念のために補足しますと、私は「休まれない」などが正しくない日本語だとは言っているのでは全くありません。西に行くと今もよく耳にする立派な日本語ですが、「標準語」ではないと言っているのです。 標準語でない日本語は辞書にも載っています。#1欄のレスポンスで挙げてくださったのと同じ辞書の「えらい」の語義として以下リンクのような説明がありますが、この「2(3)苦しい。つらい。しんどい」は愛知県などに見られる方言で、標準語では使いません。 そして標準語は全国共通であることを目的としているため、標準語の言葉の用法も全国規模で統一されていますが、方言は地域によって用法が異なります。それゆえに#1欄のように回答しました。 では、どうぞお続けください。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 >西に行くと今もよく耳にする立派な日本語ですが、「標準語」ではないと言っているのです。 : よくわかりました。 この点に関してはわたしが勘違いして受け取っていたと思います。 >標準語でない日本語は辞書にも載っています。 : なるほど、そういうことは全然知りませんでした。 とても勉強になります。^^ >#1欄のレスポンスで挙げてくださったのと同じ辞書の「えらい」の語義として以下リンクのような説明がありますが、この「2(3)苦しい。つらい。しんどい」は愛知県などに見られる方言で、標準語では使いません。 : わたしは北海道ですが、愛知県のそれは、かなり浸透していますよね。 北海道では「こわい」と言いますが、わたしも小さい時、というか若い時はよく使っていました。 他の地でいきなり使うと「怖い?」とびっくりされたものです。^^;
補足
#4さんのご回答に応じたものですが、下記の内容について、 ucok さんのご見解を伺えると、大変ありがたいのですが。 >(#1で)提示したURLの文章も「子供は行けない」が正しい日本語だと思いますがいかがですか? : 「わかりやすい道だから子供でも行かれるだろう」 という例文のことですね。 おっしゃるように、 「わかりやすい道だから子供でも行けるだろう」 という文にすることもできるでしょう。 これは、「子供でも行くという行為が可能だ」というニュアンスがあると思うんですよ。 「行く」という行為の主体である「子供」(の可能性)に着目した主体重視の表現、というわけです。 しかし、 「わかりやすい道だから子供でも行かれるだろう」 という例文は、 「子供でも行くことが可能な、そんな状態の道だ」ということに重点を置いた表現だと思います。 こちらは、「行く」という行為の対象である「道」(の可能性)に着目した対象重視の表現。 もう少し他の例を挙げてみましょう。 許容範囲という見方も可能でしょうが、主体重視か対象重視か、という話者の意図を尊重するためには、厳密な区別が必要と考えるわけです。 〇あの道は暗いから子供一人では怖がって行けないだろう。 ×あの道は暗いから子供一人では怖がって行かれないだろう。 ×そのルートは、地雷が埋まっていて、子供一人では無事に目的地まで行けない道だ。 〇そのルートは、地雷が埋まっていて、子供一人では無事に目的地まで行かれない道だ。
- Ishiwara
- ベストアンサー率24% (462/1914)
「休まれない(助動詞による可能表現)」と「休めない(派生動詞による可能表現)」は、どちらも正しい日本語です。ですから、どちらが多いのかという「好み」の問題です。 19世紀ごろには助動詞派が多数だったように思われます。しかし「れる・られる」は可能以外の意味も持っているので、それを嫌って派生動詞が次第に優勢になったのでしょう。 東日本のほうが急速に派生動詞が普及し、今では西日本でも助動詞派が絶滅に瀕しています。私の知人も、西日本出身の方は多く助動詞を使っていましたが、高齢化して、次第にいなくなりました。 また、動詞の活用形による「れる・られる」の使い分けも、若い人たちには面倒なことらしく「いわゆるラ抜き言葉」の問題になっています。そのことも移行を加速しているようです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >19世紀ごろには助動詞派が多数だったように思われます。 : そうだったんですか。 >しかし「れる・られる」は可能以外の意味も持っているので、それを嫌って派生動詞が次第に優勢になったのでしょう。 : たしかに、そのような印象は受けますね。 わかるような気がします。 >東日本のほうが急速に派生動詞が普及し、今では西日本でも助動詞派が絶滅に瀕しています。 : そういう現況になっていましたか。 >また、動詞の活用形による「れる・られる」の使い分けも、若い人たちには面倒なことらしく「いわゆるラ抜き言葉」の問題になっています。 : 若くはありませんが、このラ抜き言葉に関しては、わたしも面倒がるほうです。^^;
補足
#4さんのご回答に応じたものですが、下記の内容について、 Ishiwara さんのご見解を伺えると、大変ありがたいのですが。 >(#1で)提示したURLの文章も「子供は行けない」が正しい日本語だと思いますがいかがですか? : 「わかりやすい道だから子供でも行かれるだろう」 という例文のことですね。 おっしゃるように、 「わかりやすい道だから子供でも行けるだろう」 という文にすることもできるでしょう。 これは、「子供でも行くという行為が可能だ」というニュアンスがあると思うんですよ。 「行く」という行為の主体である「子供」(の可能性)に着目した主体重視の表現、というわけです。 しかし、 「わかりやすい道だから子供でも行かれるだろう」 という例文は、 「子供でも行くことが可能な、そんな状態の道だ」ということに重点を置いた表現だと思います。 こちらは、「行く」という行為の対象である「道」(の可能性)に着目した対象重視の表現。 もう少し他の例を挙げてみましょう。 許容範囲という見方も可能でしょうが、主体重視か対象重視か、という話者の意図を尊重するためには、厳密な区別が必要と考えるわけです。 〇あの道は暗いから子供一人では怖がって行けないだろう。 ×あの道は暗いから子供一人では怖がって行かれないだろう。 ×そのルートは、地雷が埋まっていて、子供一人では無事に目的地まで行けない道だ。 〇そのルートは、地雷が埋まっていて、子供一人では無事に目的地まで行かれない道だ。
- 3nk
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非常に興味深い質問です。 私は東北出身ですが、否定形の「~れない」は#1回答者様のように「方言では?」と感じます。 他では聞いたことがありません。 質問者様がお考えの「主体重視」「対象重視」の違いはどのような根拠からなのか 是非お聞かせいただきたく思います。 方言としての「~れない」では、ふたつのニュアンスの違いはありません。 海が怖くても、海が汚くても、自分がカナヅチでも「泳がれない」と言います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >質問者様がお考えの「主体重視」「対象重視」の違いはどのような根拠からなのか 是非お聞かせいただきたく思います。 : これは、あくまでわたしの感覚にすぎません。 わたしたちは、何気なく日本語を口にしているわけですが、それは、何らかの根拠にもとづいているのだろうと思います。 わたしたちがその根拠に気づいていない場合も往々にしてあります。 というか、いちいち気にして発話しているわけではないのですが、よく考えてみると、こういう根拠に基づいていたのだな、と気づくこともありますよね。 今回の質問内容も、学問的根拠はないのですが、こう思った、ということです。 ただ、辞書にも一応、記述されているようです。 >方言としての「~れない」では、ふたつのニュアンスの違いはありません。 海が怖くても、海が汚くても、自分がカナヅチでも「泳がれない」と言います。 : わかりました。 参考にさせていただきます。
- xianching
- ベストアンサー率16% (18/110)
#2です。 >だから、「休めない」のほうが好ましい、ということですね。 >ただ、意味の差異も生じると思うのですが、その点に関してはいかがでしょうか。 「休めない」の方が好ましいとは言っていません。 助動詞使う方はハッキリしないところあるからの差異は生じますが、細かくはわかりません。 私は「休まれない」の言い方無いという人の無知を指摘しただけよ。 これから日本語の流れ単純化して味無くなる方向です。 悪い方向です(^○^)。
お礼
再度のご回答で恐れ入ります。 >「休めない」の方が好ましいとは言っていません。 助動詞使う方はハッキリしないところあるからの差異は生じますが、細かくはわかりません。 : わかりました。 >これから日本語の流れ単純化して味無くなる方向です。 : この点に関しては同感ですね。
- nebnab
- ベストアンサー率34% (795/2317)
私には1.と2.にニュアンスの違いは感じられないのですが。 2.が現代日本語におけるふつうの言い方で、1.は日本語として意味は分かるけど古臭い言い方だなと感じます。 ですから、 「私は海が怖くて泳がれない。」 も間違った言い方ではないと私は思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >私には1.と2.にニュアンスの違いは感じられないのですが。 : わかりました。 参考にさせていただきます。 >2.が現代日本語におけるふつうの言い方で、1.は日本語として意味は分かるけど古臭い言い方だなと感じます。 : 1は、可能や尊敬表現の「れる」と紛らわしいため、自然に避ける場合が多いのかもしれません。 ただ、紛らわしいといって使わないようにすると、本来の日本語表現が失われていくようで、ちょっと寂しい気もしますけどね。
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お礼
ご回答ありがとうございます。 >受身、尊敬、自発には、主体の積極的意志が感じられません。 : なるほど・・・。 いいところを突いていただきましたね。 「主体性の稀薄性」に関する根拠をお示しいただいたということになるのでしょう。 そもそも自発の用法が最初だったという話もあるようで、おっしゃるような意図が無意識的に引き継がれている可能性はあるのかもしれません。