※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:可能動詞とラ抜き言葉の関連性について)
可能動詞とラ抜き言葉の関連性について
このQ&Aのポイント
5段活用の「書ける」「読める」は可能動詞と呼ばれる可能専用表現ですが、上一段・下一段で「着れる」「食べれる」と言うと、ラ抜き言葉と言われ否定される場合が多いようです。
5段動詞だけに可能専用表現が許されているのはおかしいと思います。また、可能動詞は正確には能力可能動詞と状況可能動詞に区別して使うのが妥当ではないでしょうか。
シチュエーションに応じず、無差別に能力可能動詞と状況可能動詞を使ってしまうために不自然になる場合が出現し、ラ抜き言葉といったいわれのない非難を受けることになるのではないか、という気がします。
5段活用の「書ける」「読める」は可能動詞と呼ばれる可能専用表現ですが、上一段・下一段で「着れる」「食べれる」と言うと、ラ抜き言葉と言われ否定される場合が多いようです。
しかし、5段動詞だけに可能専用表現が許されているのはおかしいと思います。
また、可能動詞は正確には能力可能動詞と状況可能動詞に区別して使うのが妥当ではないでしょうか。
「彼は目が良いので遠くの字も読める」「彼は胃が丈夫なので、いくらでも食べれる」は能力可能動詞。
「読める(YOMERU)」を能力可能動詞とする理由は、読み得る(YOMI+ERU)から変化したものという捉え方です。
「この拡大鏡を使うと小さな字も読まれる」「今日は体調が良いので、いくらでも食べられる」は状況可能動詞。
「読まれる」を状況可能動詞とする理由ですが、「れる」は、元来、自発用法から発しているはずなので、何らかの状況が前提となって自然に可能になる、といった意味に捉える、というわけです。
このようにシチュエーションに応じて使い分けるのが良いと思います。
ただし、これらの状況可能動詞の場合、「拡大鏡を使う」「今日は体調が良い」といった状況に重点を置いた場合の話です。
『「拡大鏡を使う」「今日は体調が良い」という状況に触発されて高まった能力』に重点を置いて話す場合は、「この拡大鏡を使うと小さな字も読める」「今日は体調が良いので、いくらでも食べれる」と表現すべきでしょう。
シチュエーションに応じず、無差別に能力可能動詞と状況可能動詞を使ってしまうために不自然になる場合が出現し、ラ抜き言葉といったいわれのない非難を受けることになるのではないか、という気がします。
要するに、ラ抜き言葉は正しく使えば決して間違いではない、とわたしは思うのですが、みなさんはどう思われますか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >そもそも日本語に「能力可能動詞」と「状況可能動詞」の区別なんかあるのか、疑問に思います。 : それは言えてますね。否定はいたしません。 ただ、そのように分けて考えると、すっきりと収まるようにも思われます。 「このきのこ食べられる?」 「このきのこ食べれる?」 は、使い分けられて然るべきではないだろうか、ということです。 前者は、「森で真赤なきのこを発見し、毒きのこでないか、山岳ガイドに尋ねている」というシチュエーション。本人に食べる能力があるか否か、という点は全く問題にされていません(状況可能)。 後者は、「真赤なきのこを友人に示し、こんな色のきのこを食べることができるかと尋ねている」というシチュエーションです。 友人の能力(勇気)に焦点が当たっています(能力可能)。 前者の場合に限っては、「食べれる?」と言うと、ラ抜きと批判されても仕方ないと思うわけですが、しかし、後者の場合は堂々と使えるのではないでしょうか、という趣旨です。 >「今日は体調が良いので、いくらでも食べられる。」 「今日は体調が良いので、いくらでも食べれる。」 はそれぞれ背景の説明や文脈のつながりなしにこの文だけを読んで「能力的に可能」と「状況的に可能」という二つのニュアンスの違いが読み取れるはずです。 : 申し訳ありません。 この例は(必ずしも間違いとは言えませんが)適切な例ではなかったと反省しております。 「体調が良い」という状況も含めて、本人の能力可能と捉えるほうが妥当な例文だったかもしれません。 「この店は安いので、いくらでも食べられる」という例文を挙げるべきでした。 つまり、「安い」という状況的可能性(=外部的な環境)に起因して、食べることが可能になっている例です。 いくら胃腸が丈夫である、という能力的可能性(=内部的な環境)を持っていても、お金が無いといくらでも食べることはできません。 「今日は部長の奢りなので、いくらでも食べられる」は状況可能性の表現であり、ここで、 「今日は部長の奢りなので、いくらでも食べれる」としてしまうと不自然になるわけで、「おいおい、それはラ抜き表現という不自然な表現だよ」という印象を与えてしまうのではないでしょうか。 しかし、「あなたは、蛙を食べれますか?」の場合は、そのように言われる確率は低くなるように思うのです。 状況の助けを借りずに、あくまで自分自身の能力だけをもって食べることができる、という意味になるからではないでしょうか。 なにげない日常的な日本語表現におけるご自身の深層心理の仕組みを再度ご検討いただければ幸いです。 わたしたちは無意識的に日本語を発しているわけですが、案外、その奥には思いもかけない、厳密な法則が働いているような気がします。 ただ、日常的に、多数が使う表現に慣らされて、本来の使い方やニュアンスが異なる方向に流れていく傾向は、いつの時代にもあるのかもしれません。(必ずしも、その傾向自体を全面的に否定しているわけではありません) >しかし、そんな人は果たしているのでしょうか? 少なくとも私にはそのようなニュアンスの違いはわかりません。 : これが当質問に対する直接的なご回答になるかと思いますが、その理由も含めて真摯にお答えいただき、有難く思います。 >中国語で主に使われる可能表現の助動詞は三つありますが、その中に「能力的に可能」なときにしか使えないものがあります。 : 中国語にもお詳しいのですね。 大変興味深い情報です。 >使い分けを覚えるのがめんどくさいなあ、と感じたのをよく覚えています。 そう感じたということは、日本語には「能力的に可能」と「状況的に可能」を一語で区別する表現はない、そもそも日本語話者はそんなことはあまり気にしていない、ということではないかなと思ったりします。 : その感覚はよくわかります。 逆に、外国の方にしてみれば、「お金は落ちていました」と「お金が落ちていました」の違いを理解するのはなかなか難しいことでしょう。 しかし、ネイティブは理屈抜きで使い分けが可能なはずです。わたしたちが、気にしていなくとも、そこにわたしたち自身の気付かない、ある法則が厳然と存在している可能性も大いにあり得るように思います。