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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:可能動詞 と ラ抜き言葉 について)
可能動詞とラ抜き言葉について
このQ&Aのポイント
- 可能動詞とは、古くは助動詞の「れる・られる」で表わされていました。しかし、室町時代頃から下一段活用動詞に変化し、さらに大正時代からは「ら抜き言葉」が登場しました。
- 可能動詞が五段活用に限定されている理由は明確ではありません。同じ意味でも、ラ抜き言葉が可能動詞として発展しなかった理由も不明です。構造的に大差はないため、不思議に思われることもあります。
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お礼
ご回答ありがとうございます。 >「五段活用動詞の『未然形』の活用語尾」と「『ら抜き』の前の『られる』の頭」とを見比べて頂きますと、容易に明らかになります通りに、両者が「ア段」の音になっていますね。 : 休む⇒休ま(ず) + られる YASUMU ⇒YASU[MA] + [RA]RERU ということをおっしゃっているわけですね。 これはわかります。 >つまり、可能表現の際に圧縮されているのは、「ア段」の音だけなのです。 : これもわかります。 しかし、これを可能動詞成立の根拠とするには、2つの観点から疑問が生じるように思われます。 まず、おっしゃるところの根拠は、可能動詞の成立過程を、 ・休む⇒休まれる⇒休める(五段ー正当可能動詞) ・食べる⇒食べられる⇒食べれる(五段以外ー不当可能動詞) のように把握されている結果だろうと思います。 しかし、別質問でも取り上げましたが、 ・休む(YASUMU)→休む[を]得る(YASUMU-ERU)→休める(YASUMERU) ・食べる(TABERU)→食べる[を]得る(TABERU-ERU)→食べれる(TABERERU) のように解釈するわけです。 「U音」が発声の便宜性によって省略されることは自然ですから、これは生理的呼吸法の観点から見ても無理な論理ではないと思います。 よって、「不当可能動詞(ラ抜き言葉)」が「正当可能動詞」に昇格しても不思議ではないように思うわけです。 これが第一の観点です。 次に、こちらのブログ最下段の表をご覧ください。 http://dora0.blog115.fc2.com/blog-entry-59.html 無断借用ですが、事後承諾の依頼を入れる予定です。 ・休み⇒休まれる⇒休める YASUMU⇒YASUM AR ERU⇒YASUMERU ・食べる⇒食べられる⇒食べれる TABERU⇒TABER AR ERU⇒TABERERU という構図がご覧いただけると思います。 つまり、あくまで基本的にはですが、全ての動詞が、「られる型」から可能動詞を発生させ得る、と考えるわけです。 この場合、すべての動詞の AR 音が抜けることによって可能動詞が発生することになります。 これも生理的呼吸法の観点から見ても無理な論理ではないと思います。 以上、2つの観点を考慮すると、少なくとも、可能動詞五段独占の根拠は崩れるように思われますが、いかがお考えになりますでしょうか。 わたしは、自発・受身・尊敬から可能を独立させるために、「得る」を(おそらく無意識的に)採用した先達の知恵に着目する次第でして、最初の観点のほうがより強力だと考えています。 独立させる必要性がなぜ生じたかと言えば、可能は他の3要素に比べて「主体重視」の要素が遙かに強いからではないか、と推測しています。 ご感想などございましたら、科学的根拠に基づき、例示していただくと大変ありがたいと思います。 とはいえ、昨今のラ抜き言葉乱用には見苦しい感を覚えることが多いのも事実です。 これは実はラ抜き言葉そのものの責任ではなく、発話者の「使用責任」だろうというのが私の捉え方です。 その根拠としてあげるのが、主体重視と客体(対象)重視の微妙なニュアンス使い分けです。 たとえば、 「このテレビは、この眼鏡を描けると 3D 画像が見られるよ」 は、 「これは、そういう(3Dの)画像を見ることが可能な対象(=テレビ)」であることに重点を置きたい場合の表現。 「その眼鏡ではなくて、この眼鏡を描けると 3D 画像が見れるよ」 は、 「主体(=あなた)が、見ることが可能」であることに重点を置きたい場合の表現。 ということが言えるのではないか、ということです。 たしかに厳密な線引きは難しいのでしょうが、それは人間の感覚を把握する能力自体が曖昧なものだからでしょう。 いずれにせよ、これを逆に入れ替えて使われると(無論、無意識的に)違和感を覚える場合が多い、ということだろうと思います。 このように、ラ抜き言葉を絶対的に信奉しているわけではありません。 新たに立ち上げた質問で、もう少し詳しく説明させていただいております。 お時間の許される範囲でご見解を賜れれば幸いに存じます。