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可能動詞とラ抜き言葉について
- 可能動詞とは、古くは助動詞の「れる・られる」で表わされていました。しかし、室町時代頃から下一段活用動詞に変化し、さらに大正時代からは「ら抜き言葉」が登場しました。
- 可能動詞が五段活用に限定されている理由は明確ではありません。同じ意味でも、ラ抜き言葉が可能動詞として発展しなかった理由も不明です。構造的に大差はないため、不思議に思われることもあります。
- 可能動詞やラ抜き言葉にはSEOに配慮したハッシュタグを使用しましょう。
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質問者が選んだベストアンサー
後付けで内容を真似る投稿の卑怯な割り込みが望ましくないので 冷静に先の入力欄の内容の読解をも遣り直して頂きたいです。 それでは、同じ意味合いの内容を、別の視点から考えてみましょう。 「五段活用動詞の『未然形』の活用語尾」と「『ら抜き』の前の『られる』の頭」とを見比べて頂きますと、容易に明らかになります通りに、両者が「ア段」の音になっていますね。 つまり、可能表現の際に圧縮されているのは、「ア段」の音だけなのです。 従いまして、「上一・下一・カ変・サ変・ナ変」等の動詞の「未然形」の音が、 「ア段」になっていない故に、圧縮される音が御座いませんので、それ等の文字の省略が阻まれた訳です。
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- SakuraiTomoka
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畏れ入りますが、仰っているブログの著者への反論が御座います。 「見られる」は「見える」であり、「食べられる」は「食(く)える」ですよ。
お礼
ご回答ありがとうございます。 専門的立場からの御見解を辛抱強くお寄せいただき感謝いたします。 わたしの能力不足ですべて吸収できなかったことをお詫び申し上げます。 当質問は一応締め切り、可能動詞とら抜きに関しての最終質問を立てさせていただいております。 ご了承ください。
- Ishiwara
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1~3は、そのとおりで、間違いはありません。 「質問」については、あまり考えてみたことがありません。面白いテーマですね。 シロウト考えですが、五段(昔の四段)ならば「行かれる」に対して「行ける」を派生させると、「か」と「け」の違いは歴然としているので、とても使い心地が良いと思います。しかし「一段/二段活用」の場合は、例えば「増える」に対して(増えることが可能であることを意味する)新しい形の動詞を作ろうとしても、変化させる箇所が狭くて、無理にやっても言語において最も重要な「音声的識別性」が劣るという弱点があります。 やっと近年になって「音声的識別性が多少劣っても、一々文脈から可能/尊敬/自発の区別を推察しなければならない<手間>が少ないほうがベター」と感じる人が多くなってきたのでしょう。私のような古い年代の者は、「述べれる」なんて言葉を聞くと、背中に粟粒ができるような感じがして、それよりも「ハテ今のは尊敬かいな」と考えるほうが気持がいいと感じます。ですから「どちらを採るか」の基準が変わってきた(つまりスピード重視になってきた)ものでしょう。 変化するのに何百年も差ができた理由(ご質問の主要点)は、やっぱり五段/四段のほうが、(段数が多いだけに)迷わずに勝負がついたからでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございます。 「音声的識別性」という新しい視点を示していただきましね。 後発になったのは、そういった要素も関係しているのかもしれません。 >一々文脈から可能/尊敬/自発の区別を推察しなければならない<手間>が少ないほうがベター」と感じる人が多くなってきたのでしょう。 : そうなのかもしれませんね。 この「ベター」という点にだけ着目してしまうこと、つまり安易に流れてしまっていることが非難される最大の要因になっているのではないか、という気がします。 ラ抜き言葉は、五段以外に適用される可能動詞としての何らかの正当な根拠を持っていると思うのですが、使用者責任が全うされていないため、あらぬ誤解が生じている。 というのが私の率直な感想です。
- SakuraiTomoka
- ベストアンサー率24% (11/45)
『五段活用擬き』とは「五段活用の可能動詞」という意味の『皮肉』で、 存在出来ない物ですから、実例は御座いません。 例えば、「食べる」という動詞の活用語尾の『バ行』に、 「られる」の『ア段』の音が加わると、有ってはいけない語(食ばる)が出来上がってしまいます。 従いまして、「五段活用動詞」を除く動詞の殆どが、 「可能動詞化」向けの圧縮に適していないのです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >『五段活用擬き』とは「五段活用の可能動詞」という意味の『皮肉』で、 存在出来ない物ですから、実例は御座いません。 : それはわかっていますが、「どのような形を想定なさっているのか」とお聞きしたわけです。 で、「食ばる」という語が出現する経緯が、もうひとつよくわからないのですが、次のように視点を変えてお尋ねすることにしましょう。 可能動詞の出現が、 休む⇒休まれる(動詞+助動詞「れる」)⇒休める(可能動詞) という過程を経たことは、みなさんご了解済みだろうと思います。 では、なぜ、 食べる⇒食べられる(動詞+助動詞「れる」)⇒食べれる(可能動詞) という過程が認められていないのか、ということを私はお伺いしているわけです。 これを不可とする【科学的根拠】があれば教えていただきたいのです。 変化の過程を明記しながらご説明いただけると大変助かります。
- SakuraiTomoka
- ベストアンサー率24% (11/45)
そもそも「可能動詞」が「下二段活用動詞」になっているのは、 「五段活用動詞の活用語尾の『行』」に「可能の助動詞(れる)」の『エ段』音が圧縮されたからです。 従いまして、「受け身・可能・自発・尊敬」の助動詞が『られる』の状態に留まっているなら、 其の場合には、直前の動詞の活用語尾の文字の『行』と、 その助動詞の頭の音(「られる」ならば『ア段』)との圧縮が行なわれ、 『五段活用擬き(もどき)』が出来ざるを得ません。 だから「五段動詞」にしか「可能動詞化」が許されてないのです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >『五段活用擬き(もどき)』 : とは、何を指しておられるのでしょうか。 たとえば、「行かれる」を意味しているわけではないですよね。 具体的に例示していただけると大変助かります。 急ぎませんので、お時間のあるときによろしくお願いいたします。 度重なる補足質問で恐縮です。
- SakuraiTomoka
- ベストアンサー率24% (11/45)
再度の投稿です。 真剣味が感じ『られ(自発)』ましたので、一言だけを先に申し上げます。 五段活用動詞と可能の助動詞とが接続される際に、最初の「ら抜き」が起きた理由は、 勿論乍ら仰る通りの内容で、「発音の都合」です。 ※因みに上記の「自発」の由来の方が、遥かなる難しさを含んでいますよ。
お礼
ご回答ありがとうございます。 当初質問内容に沿って、極力わかりやすくお願いできれば助かります。
- SakuraiTomoka
- ベストアンサー率24% (11/45)
五段活用動詞の未然形の活用語尾と 受け身・可能・自発・尊敬の助動詞「られる」の頭との両方が、 「ア段」の音になっている故に、 五段活用動詞に付ける助動詞の頭から「ら」が抜け落ちたのですが、 その展開は自然の流れの過程の途上で起きておりますので、 当時の人々が五段活用動詞と他の動詞との峻別を行なっていた訳では御座いませんね。 実は五段活用と可能の助動詞との圧縮によって誕生させられた「可能動詞」もが、 唯の「破格」だったのです。 ですから、時代の移り変りの中で、「破格」の増加に歯止めが掛かる筈は無く、 他の方式で活用する動詞もが、「ら抜き」の仲間入りをしようとし始めました。 但し、其の頃には、既に国文法の研究が進んでおりましたので、 其の頃に登場し始めた「ら抜き」という「破格」は、糾弾の槍玉に掲げられたのです。 そう考えますなら、若しかすると、 是等の「破格」もが受け入れられざるを得なくなっていくのかも知れませんが、 教育が充実していくと、其の展開は抑制されていくでしょう。 因みに繰り返しますが、『ニュアンスの相違』が若し許されるのでしたら、 国語学は破綻しますから、御注意を御願い申し上げます。
お礼
何かとお忙しい中、ご回答いただきありがとうございます。 >五段活用動詞に付ける助動詞の頭から「ら」が抜け落ちたのですが、 : ということは、当初「れる」という助動詞は存在しなかった、ということでしょうか。 つまり、「られる」だと読みづらいので「れる」が採用された、とういうわけでもないのでしょうか。 >実は五段活用と可能の助動詞との圧縮によって誕生させられた「可能動詞」もが、 唯の「破格」だったのです。 : しかし、 >その展開は自然の流れの過程の途上で起きて : いたわけですね。 >但し、其の頃には、既に国文法の研究が進んでおりましたので、 其の頃に登場し始めた「ら抜き」という「破格」は、糾弾の槍玉に掲げられたのです。 : 五段活用のラ抜きは自然だが、下一段などのラ抜きは自然ではない、ということだと思いますが、これは単に、発音しづらいわけではないのだから、ラを抜いてはいかん、ということでしょうか。 つまり、語義的な(巷間言われているような、可能用法に特化できるといったようなメリットというか、感覚の=これについては改めて質問を立てる予定ですが)根拠というものは特に存在しないのでしょうか。 ど素人なので、単純な質問ばかりで恐縮ですが、お時間のあるときにでもよろしくご教授くださるとありがたいと思います。 >因みに繰り返しますが、『ニュアンスの相違』が若し許されるのでしたら、 国語学は破綻しますから、御注意を御願い申し上げます。 : こういったお考えがあるということは、よくわかりました。 ただ、それは、今後の推移を参考にして検討させていただきたいと思います。
- SakuraiTomoka
- ベストアンサー率24% (11/45)
”Q6530613”からの続きです。 五段活用動詞に「受け身・可能・自発・尊敬」の助動詞が付く場合には、 「られる」の助動詞が選ばれず、 周知の通りに、「れる」の方が適用されて参りましたが、 その理由を御存知でいらっしゃいますか? 五段活用動詞の未然形の活用語尾が「ア段」になっていて、 その直後に「られる」という語を付けると、 「ア段」の音が連続して、発音が滑らかではないからです。 従いまして、構造に大差が無いのでは決して御座いませんので、 見解が分かれることが有ってはいけません。 単一の客観的な回答が出来上がっていなければ、もはや、それを学問と見做せません。 今回にもいきなりで問題定義の内容の問題点を指摘する格好になり、 申し訳が無いのですが、こういう項目の悪影響は予想以上に大きいものですので、 此の様な論旨を展開しました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >五段活用動詞の未然形の活用語尾が「ア段」になっていて、 その直後に「られる」という語を付けると、 「ア段」の音が連続して、発音が滑らかではないからです。 : いや、さすがですね。 目から鱗とはこのことです。^^; 大変参考になります。 >従いまして、構造に大差が無いのでは決して御座いませんので、 見解が分かれることが有ってはいけません。 : はい、よくわかります。 おっしゃるとおりと思います。 >今回にもいきなりで問題定義の内容の問題点を指摘する格好になり、 申し訳が無いのですが、こういう項目の悪影響は予想以上に大きいものですので、 此の様な論旨を展開しました。 : お気を使っていただきありがとうございます。 重ね重ねお礼申し上げます。 ご指摘いただき大変助かりました。 ぜひ、質問自体に対してもご見識をご披露願えますよう、お願い申し上げます。 見落とされているかもしれませんので、一応この欄に再掲いたしておきます。 【質問】 可能動詞が五段活用だけに限定されているのはなぜでしょうか。 同じ意味ですが、ラ抜き言葉が可能動詞として早い時期から発達しなかった理由はなんでしょうか。 以上でございますので、よろしくお願いいたします。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >「五段活用動詞の『未然形』の活用語尾」と「『ら抜き』の前の『られる』の頭」とを見比べて頂きますと、容易に明らかになります通りに、両者が「ア段」の音になっていますね。 : 休む⇒休ま(ず) + られる YASUMU ⇒YASU[MA] + [RA]RERU ということをおっしゃっているわけですね。 これはわかります。 >つまり、可能表現の際に圧縮されているのは、「ア段」の音だけなのです。 : これもわかります。 しかし、これを可能動詞成立の根拠とするには、2つの観点から疑問が生じるように思われます。 まず、おっしゃるところの根拠は、可能動詞の成立過程を、 ・休む⇒休まれる⇒休める(五段ー正当可能動詞) ・食べる⇒食べられる⇒食べれる(五段以外ー不当可能動詞) のように把握されている結果だろうと思います。 しかし、別質問でも取り上げましたが、 ・休む(YASUMU)→休む[を]得る(YASUMU-ERU)→休める(YASUMERU) ・食べる(TABERU)→食べる[を]得る(TABERU-ERU)→食べれる(TABERERU) のように解釈するわけです。 「U音」が発声の便宜性によって省略されることは自然ですから、これは生理的呼吸法の観点から見ても無理な論理ではないと思います。 よって、「不当可能動詞(ラ抜き言葉)」が「正当可能動詞」に昇格しても不思議ではないように思うわけです。 これが第一の観点です。 次に、こちらのブログ最下段の表をご覧ください。 http://dora0.blog115.fc2.com/blog-entry-59.html 無断借用ですが、事後承諾の依頼を入れる予定です。 ・休み⇒休まれる⇒休める YASUMU⇒YASUM AR ERU⇒YASUMERU ・食べる⇒食べられる⇒食べれる TABERU⇒TABER AR ERU⇒TABERERU という構図がご覧いただけると思います。 つまり、あくまで基本的にはですが、全ての動詞が、「られる型」から可能動詞を発生させ得る、と考えるわけです。 この場合、すべての動詞の AR 音が抜けることによって可能動詞が発生することになります。 これも生理的呼吸法の観点から見ても無理な論理ではないと思います。 以上、2つの観点を考慮すると、少なくとも、可能動詞五段独占の根拠は崩れるように思われますが、いかがお考えになりますでしょうか。 わたしは、自発・受身・尊敬から可能を独立させるために、「得る」を(おそらく無意識的に)採用した先達の知恵に着目する次第でして、最初の観点のほうがより強力だと考えています。 独立させる必要性がなぜ生じたかと言えば、可能は他の3要素に比べて「主体重視」の要素が遙かに強いからではないか、と推測しています。 ご感想などございましたら、科学的根拠に基づき、例示していただくと大変ありがたいと思います。 とはいえ、昨今のラ抜き言葉乱用には見苦しい感を覚えることが多いのも事実です。 これは実はラ抜き言葉そのものの責任ではなく、発話者の「使用責任」だろうというのが私の捉え方です。 その根拠としてあげるのが、主体重視と客体(対象)重視の微妙なニュアンス使い分けです。 たとえば、 「このテレビは、この眼鏡を描けると 3D 画像が見られるよ」 は、 「これは、そういう(3Dの)画像を見ることが可能な対象(=テレビ)」であることに重点を置きたい場合の表現。 「その眼鏡ではなくて、この眼鏡を描けると 3D 画像が見れるよ」 は、 「主体(=あなた)が、見ることが可能」であることに重点を置きたい場合の表現。 ということが言えるのではないか、ということです。 たしかに厳密な線引きは難しいのでしょうが、それは人間の感覚を把握する能力自体が曖昧なものだからでしょう。 いずれにせよ、これを逆に入れ替えて使われると(無論、無意識的に)違和感を覚える場合が多い、ということだろうと思います。 このように、ラ抜き言葉を絶対的に信奉しているわけではありません。 新たに立ち上げた質問で、もう少し詳しく説明させていただいております。 お時間の許される範囲でご見解を賜れれば幸いに存じます。